幻王の龍4
瞬く瞳は鈍い銀白色。
首を持ち上げたその龍は、僕らの前に翼を広げた。
風圧にシヴが戦き、僕の後ろに隠れる。
ストースは弓に手を掛け、鏑を右手に生成する。だが、頬は引きつり、眉間に皺が寄っている。彼の腕が反射的に動いただけだ。首筋を伝っていく汗が、彼の鼓動を代弁していた。
ドクン、ドクンと脈打つのが聞こえるような。
「聞こえるような……?」
あぁ、違う。
僕の心臓の音? いや、それも違う。
彼の龍の威圧感に圧倒されて、すっかり頭から消えていた。
「トキ?」
シヴが心配そうに僕を見上げる。
僕はフードを被った彼女の頭をくしゃくしゃ撫でてやる。
「やってみるしかない。魔王の言うとおりに」
恐怖に竦む心。だが、不思議なことに身体は怯えていない。
手の中で脈打つ龍の心臓が、僕に伝えてくるのだ。
幻王と、苔生した龍のこと。彼らがどんなに、互いを信頼し合っていたのかを。
「下がりなさいトキ君、危険だ!」
冷や汗が噴き出す。逸る心臓の鼓動が止まらない。
「この乱数領域の主はアンバール様だ! その方の意志ひとつで何が起こっても……!」
生い茂った草地に、一歩踏み出すたびに花が咲く。視界を埋める色が変わる。
千年の緑から、ビビッドな薄桃色に。影を落とす紫から、喪失したモノクロへ。
一歩ごとに、世界の景色が変わっていく。
『…………』
眼前に屹立したアンバールは、黙って小さな僕と向かい合う。
僕は足を止めない。
一歩、一歩、一歩。
柔らかな草地を踏みしめて、その龍を視界から外さない。
ストースが何事か叫んでいるのが聞こえる。
シヴの魔力が僕を護るように纏わりついている。剥き出しの警戒心が龍を威嚇していた。
だが、アンバールは微動だにしない。
龍は待っている。
息吹が聞こえる。その魔力が陽炎のように、僕の前に揺らめいている。
「君は、ずっとここにいたんだ」
龍は人語を理解できる。エルフの古代語も、神の『ことば』すらも。
しかし、問いかける僕に応える言葉はない。
「君に、頼みごとをしに来たんだけれど……」
この神にも等しい龍を前にして、誰が使い魔になってくれなどと口に出来よう。
幽玄に揺れるその姿を目に出来ただけで、僕の心は充溢してしまった。
「これを、君に返しにきた」
手の中で脈動する君のいのちを差し出す。
僕の言葉に呼応するように、龍の心臓はその魔力光を一層強め始める。脈動は僕の身体に響き渡り、打ち鳴らすように震わせる。
『…………』
「どうしたんだ?」
龍は僕を見つめたまま、心臓を受け取ろうとしない。僕が直接彼の身体に触れる必要があるのか、そう勘繰った。だがその瞳は僕を射貫くばかりで、そんなことを求めてはいない。
「そんな、まさか」
鳥肌が立った。
僕の内側で、誰かが呼びかけてくる。ブラックスワンを貫いた時と同じだ。進めと、戦えと、僕に呼びかけたその声が、今もまた聞こえる。
だが今度の声は、もっと優しい。
そいつが僕に求めたのは、たった一つだけ。
「やっぱり一つ、お願いを聞いてほしい」
こんなわがままが許されるものか。
食いちぎられて死んでしまうのがオチなんじゃないか。
そんな思考が脳裏をよぎる。
だというのに、止まらないのだ。響き渡るその声が、僕の身体が、その龍に手を伸ばす。
そしてもう一度君を見た。銀の瞳のずっと奥。朱く光る、君の本当の色を視た。
「僕とも友だちになってほしい。アンバール」
『…………』
僕の言葉と同時に、アンバールの体表にこびりついた苔が剝がれ始める。
それは最早、脱皮と言って差し支えない。
「ぐっ、ああぁあぁあ!!」
突如、右の掌に激痛が走った。突き刺すような痛み、そして、灼けつくような熱。
手の中に収まっていた心臓が輝きを増しながら、僕の右手に溶け込んでいく。溶解した鉄をかけられたみたいだ。正気を保てなくなるほどの痛みに、絶叫しながらのたうち回る。
「トキ君!」
ストースが弓を構える。
張り詰めた弦から伸びる三本の矢が、龍の額を真っ直ぐに捉えている。
「待っ……!」
しゃがれた声が、喉の奥から絞り出される。
だが、言うが早いか、僕の脇を小さな影が雷光のごとく追い越していく。
「ウム=カジャ」
一閃。
シヴの右拳が、アンバールの尾と衝突する。
圧倒的な質量をもつ龍の一振りに、一歩も引かずに彼女は拳を振り抜いた。
雷鳴の如き魔力の衝撃音が辺りに響き渡る。
地響きと共に空間自体が歪曲し、あろうことか、シヴはアンバールの尾を弾き飛ばした。
「シヴ……ぅえ゛っ」
彼女は振り抜いた拳の勢いのまま空中でくるりと回ると、わざわざ僕の肩の上に着地した。この子はいずれ僕の首を破壊する気がする。
「トキ、だいじょうぶ?」
「うん、うん。大丈夫、だぶん」
アンバールの心臓が溶け込んだ左の掌をまじまじと見つめる。外傷はない、が……。
「トキ君! 無事ですか……って君、それはまさか」
手際よくアンバールとの間に結界を張りながら駆け寄ったストースが、呼吸を荒げて僕の手を見つめている。当のアンバールはというと、ただじっと僕らを見つめるだけで、動く気配もない。
僕の左手に外傷はない。外傷はないのだが。
「黒契爪……?」
ストースは、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
僕の左手の爪は、すべて真っ黒に染まっていた。
苔の皮を脱ぎ捨てたアンバールは、その身体を純白に染め上げていく。見るほどに美しく、視るほどに畏ろしい。なぜか僕の目からは、涙が零れていた。
龍は小さく僕に視線を送ると、その両翼を翻す。
「われる、ゆぬ」
「嘘だろう!? 待ってください、アンバール様っ!!」
シヴの呟き、そしてストースが叫んだ瞬間、領域自体が柱を失ったように崩壊し始める。割れ落ち、剥がれ落ち、僕らはまた、真っ白な世界に飲み込まれていく。
ストースが手を伸ばす。その先に小さく輝く龍に向かって。
「アンバール様!!」
彼の声が、シャットアウトしたように掻き消える。世界が閉じ、僕らは昇っていく。導かれて、昇っていく。帰るべき場所は、僕の右手が知っているらしい。手を掴まれたみたいに、君が待つ場所へと惹かれていく。
ストースの腕を掴み、シヴの身体を抱き寄せる。
「還ろう」
ぐにゃりと歪曲する三半規管。
激しい頭痛に見舞われながら、僕らは世界を越えていく。
ゆっくりと目を開けると、見知った顔が僕らを待っていた。
「おかえり」という言葉を期待するのは、図々しいだろうか。
家主は、彼女には大きすぎるソファに横たわって、小さな寝息を立てていた。
ストースが、「まったく暢気なものです」と言ってへたり込む。
シヴは「シヴも、ねる」と言って床に転がる。
僕はというと、静かに魔王の傍らに跪き、細い身体に毛布を掛けてやった。
「ただいま」
返る言葉はない。そんなものは要らない。
なぜか彼女の頬を伝うひと雫の涙を、真っ黒に染まった指先で拭った。




