珈琲店の罠
デオルト宮殿を訪問するより1日前。僕は相変わらず『烏巣』に来ていた。うまいコーヒーを飲みに来ている。それも間違いではないのだが、コークスの広い人脈は僕のハロワの強い味方だった。ちなみに今のところ打率は0である。
「魔剣探索はダメ、生物研究所もお払い箱。帝国図書館司書にはおつむが足りず。魔技系団体は興味を示したものの実験動物にされそうになって逃げ帰った、と」
「過去は過去。次をください」
「前向きになったのはいいことだな」
コークスはぶつくさ言いながら顧客リストをめくる。一枚一枚の羊皮紙からも、コーヒーの豆の香りが漂ってくる。パラパラと音を立てる中で、ふと彼の手が止まる。しげしげと名前を眺めてから、何かを思いついたように今度はページを遡り始める。
「今までは何となく避けていたのだがね。お得意様だし、さ」
「悪い仕事?」
「そういうわけではない。危険なのは、危険だが。軍の仕事だからね」
「いいです。ください。どんな方ですか」
コークスは嘆息しながら「まぁ待て」と言わんばかりに片手で制してくる。よほど気が向かないと見える。大抵の人間とはうまくやれる自信があるけれど、それはコークスとて言うまでもない。
「攻城局諮問委員会のメルゴーだ」
「メルゴーさんなら知り合いですよ。優しくていい人ですし、コーヒーの趣味も合う」
「そうだな。苦みの強いコーヒーを好まない辺りそっくりだ。あいつなら、もしかするとお前に仕事を回せるかもしれん」
軍の仕事とはいえ、誰でも戦っているわけではない。事務仕事でも回してくれれば御の字もいいところだ。
「5年前に魔王が代わってから、帝国もすっかり平和だ。突然徴兵に遭うとか、配属が変わるとか、そんなこともないだろう。安心安全の職場ってところだ」
「確かに、最近は戦争なんて一つも聞かなくなりましたね。少数部族の小競り合いが各地で散発する程度で。新しい魔王って、どんな人かご存じなんですか」
「さぁな。若い王として知られているくらいか。儂も多くは知らん。目も髪も黒く、身の丈はトネリコの花の高さにも満たぬらしい。生まれの頃は雪の月。出身はオッドクオーツ。好きな言葉は「抜山蓋世」、コーヒーは飲まない」
それ以上何を知りたいのか分からない。トネリコの花といえば、身長が1.7メートルちょっとの僕が見下ろすくらいの高さだ。ちょうど1.5メートルくらいだろうか。若い王とは聞いたが、ずいぶんと小柄だ。ドワーフ系の種族か、あるいはエルフの一派だろうか。
「種族について特別な話は聞いたことがない。見た目にはわかりにくいんだろうから、ドワーフってことはないだろう。なんにせよ実力は折り紙付きだ。帝国への反乱分子を片端から平定した時も、先頭に立ったと聞く」
「化け物ですね」
「そんなものには収まらん。魔王なのだからな」
言うと、手の中にあったウツギの実を瞬時にバラして見せる。緑の薄皮の中から、真っ白な果肉に滴る透明な果汁が顔を出す。冷たい口当たりはそれこそ白磁だ。
「だがな、一応は気を付けることだ。メルゴーに会うなら、アイツがデオルト宮殿に出張したタイミングを狙うといいだろう。万が一ということもある」
「デオルト宮殿って第4区ですよね。軍の攻城局が置かれているのは当然帝都がある第1区ですし。何かあるんですか」
テーブルの上に広げた略地図を指さしながら話す。帝国は全部で7区の領域に分けて統治されている。各地区の気候と風土、政治目的に合わせて税金や公共資材をはじめ、統治体制が異なるのためだ。第1区は国家機能の中枢が集まっているし、第2区なら国の研究機関が集約されている。僕らのいる『烏巣』があるのは第3区。最も人口が多い居住区画であり、商業区画でもある。
「天文学的な確率ではあるがな。1区の攻城局本棟ってのは、鬼の棲家だ」
「鬼ですか。そんな種族まで」
「バカ、比喩だ。あそこにはアレスがいる」
「あぁ……」
攻城局長アレス・シルバーグロウ。魔王の右腕にして、戦神アレスの呼び声も高い。正真正銘、帝国軍最強の将。先の反乱分子平定の折には、単騎で数千の反乱兵の中に討ち入り、これを無力化した経歴を持つ鬼である。ちなみに種族は知らないが、多分鬼ではない。
「アレの目の前で仕事なんてねだってみろ。何をさせられるかわからん」
「確かにそうですけど」
なんとなく、僕の心は燃えていた。何事も、頑張ればなんとかなるような、根拠のない自信。その地盤はゆるくて不安でもあるのだけれど、とにかく心が前を向いていた。
コークスはそんな僕の目を、興味深そうに眺める。それから不意に眉間に皺を寄せると、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「まぁ、お前ら共通点が無くもないしな」
「そうですか? かなり苦手なタイプですけど」
「マスターのブレンドを二度と飲まないって言ったことですよねー」
ぴょこっと尻尾を振りながら、リリィが割って入ってきた。心なしか機嫌がよさそうだ。僕の隣に腰かけて、彼女は続ける。
「なんにせよ、お仕事探しで関わっちゃ危ない人かもです。トキくんはただでさえ抜けているので心配です。知らない人について行ってはいけませんからねー」
「何歳だと思っているんです?」
つっこむ僕をよそに、コークスは自分の名刺を取り出すと、さらさらと走り書きして僕のシャツのポケットに押し込んだ。背中を叩かれる。痛いわけではなかったが、叩かれた背中はどこか、じんとして熱い。
「じゃあ迷子にならず、アレスさんに気を付けて、危ない人にはついていかないように頑張ってきますね」
僕は苦笑しながら立ち上がった。
翌日に全部破ることになる、指切りをして。
次話は明日19時投稿です。