魔王の朝
カーテンが開く。
目に眩しい陽光が、瞼越しに僕に朝を告げる。いや気のせいだ。確かに夜は空けたが、薄目を開けた瞳に飛び込んできた光はどう見ても朝焼けだ。うっすらと鼻腔をくすぐる紅茶の香りに脳が浮ついたところに、枕で顔面を叩かれる。
「朝だけど」
「えぇ……」
頭を混乱させながら起き上がる。
今日の僕の仕事は、仕えた相手の朝の手伝いから始まるはずなのだ。声をかけ、肩を叩いて起こし、美味しい朝のコーヒーを淹れて、着替えを用意し、一日のスケジュールを整理する。
「起きた?」
「それはまぁ」
「起こしてよ」
「……いま4時だけど」
「日が昇ってるもん」
魔王はそう言うと、不満そうに僕のベッドにすとんと腰を下ろした。僕はいったん正座して彼女に向き直る。彼女は片手に持ったミルクティーを口に運びながら、じっとこちらを睨んでいる。睨んでいるが、幼い顔立ちのせいもあってか、拗ねた子どものようで可愛らしい。
「ぼくの着替え。どこ」
「あぁ、それは用意してある。すぐに持ってくるね」
言うと、僕はぼやけた視界をこすって立ち上がる。服なんか彼女の部屋にいくらでもあるのだが、着替えを用意するのは僕の仕事らしい。『王の眼』というのは、基本的には魔王の使用人という仕事だった。
「はい、ソフィ」
「……なにこれ」
彼女はしかめ面でその服を見つめた。
真っ白なブラウスに、黒を基調としたサスペンダースカート。ブローチは澄み切った紫のアメジストで、ソフィの可愛らしさを上品さで纏め上げてくれる。
「どこにあったの?」
「もちろんソフィの部屋」
「ぼ、ぼくの!」
彼女はわなわなと震えてスカートを握りしめる。ちょっと涙目だ。
「勝手に入ったんだね!?」
「ノックしたし! 返事したでしょ! っていうか、そりゃ入るよ使用人なんだから!」
昨夜は確かに気のない返事で、中に入るとソフィは神妙な面持ちで書斎の本棚を漁っていた。中学生が大学の資料室を探っているみたいでアンバランスだったのを覚えている。
「あの部屋はきみが……!」
顔を真っ赤にして彼女は恨めしそうな表情で僕を見る。一週間前、ラカンで出会ったソフィは実に飄々とした様子で、まさに魔王といった面持ちだった。だが、王宮で行われた叙勲式の時からなんとなく気づいてはいたが、結構顔に出るタイプらしい。
「僕が?」
「きみがそんなに簡単に入っていい場所じゃないんだっ!」
「わかった。もう入らないよ」
「それじゃあぼくの世話ができないじゃないかっ!」
「お前はどうしてほしいんだよ!」
額を突き合わせてバカみたいな言い合いが始まってしまう。
それともう一つ、いまさら気づいたことだが、僕はいつの間にか魔王にタメ口で話すようになっていた。初めて会ったラカンで、どう見ても年下の彼女に敬語を使う頭が無かったのが原因だ。いまさら突然敬語で話し始めたら不自然が過ぎる。ソフィも何も言わないから、とりあえず気にしないことにする。
「いいかいトキ、もう金輪際、金輪際、勝手に入るのはナシ。絶対ナシだからね。絶対」
「はいはい」
二度も三度も頷いて応えてやる。フリの可能性もある。
そんな僕をよそに、ソフィは語気を荒げて言い寄ってくる。
「ぼくがいいと言った時だけ入るんだよ」
「昨日もいいって言ってたんだよ」
三度も四度もため息をついて応えてやる。
彼女はぷんすか怒りながら、ついでにぶつぶつ文句を言いながら、用意した着替えを握りしめて出て行った。とりあえず朝食の支度をしなければ。僕は僕で、着なれない服に袖を通し、髪を手櫛で整えた。
一つ断っておくと、僕は料理が特別うまくない。食事は好きだし、そういう人は作るのも得意だと言われることもある。僕だって、それなりに人に出せるくらいの料理はできるつもりだ。
「朝ごはん、何がいい?」
「なんでもいぃ」
しかし、こんな抜けた少女でも魔王は魔王。僕は生まれてこの方、魔王に朝食を作ったことはないぞ。大丈夫か。変なもの食べさせておなか壊させたら、僕の首が飛んだりしないだろうか。物理的に。
「嫌いなものある?」
「……ない」
あるらしい。ちょっと考えるような間があったから、適当に答えているわけでもなさそうだ。仕方ない、嫌いなら残すだろうし、思い付きで何か拵えよう。そう思いながら、僕は慣れないカウンターキッチンを漁り始める。
帝国領、第七区。総合区と呼ばれるこの区画には、一体何があるのだろうかと思っていたが、まさか魔王の邸宅が居座っているとは思いもしなかった。というのも、ここ第七区は原則立ち入り禁止の領域なのだ。
魔王の邸宅と言う割には、びっくりするような豪邸でもない。一人で住むには広すぎるだろうが、四、五人の家族で住んだらちょっと狭そうだ。実際のところ、彼女はずっとここに一人で住んでいるのだろうから、広くて仕方がなかっただろう。
彼女の一軒家は、見慣れない樹木で造られていた。美しい年輪はヒノキに似て、頼もしい芯の強さを感じさせる。その一方で触り心地は実にしっとりと手に吸い付くようで、その光沢と仄暗く落ち着いた色合いはチークのそれを思わせる。
「アノマリスの胤木だよ」
燻製肉にがりがり胡椒を振っていると、日の当たるリビングの揺り椅子に座ったソフィが応えてくれた。燻製肉はレッグラグという鶏肉の類で、もともと淡白な味わいの代わりに、きめ細やかで溶けるような舌触りが特徴的だ。燻製肉のレッグラグを見るのは初めてだが、なるほど燻したことで鼻腔をくすぐるような豊かな香りに満ちている。六十度ほどで燻されたのであろう肉の表面には薄皮が張り、まるで腸詰めのような面白い歯触りを生む。
「アノマリス? 宝樹アノマリスから造ったの!?」
「そうだよ」
「……あれ傷つけたら牢獄行きじゃない?」
「前の王に言うんだね。それに胤木なら話は別だよ」
モリブルの一番油をフライパンに敷く。少しフルーティな香りのする果実由来の食用油だ。レッドペッパーの輪切りをひとつまみ流し込み、コルトガーリックのスライスを加えて油に香りをつけていく。レッドペッパーは、その名の通り、ほぼ唐辛子。一方のコルトガーリックは香りこそニンニクのそれだが、焦げつきにくく、適当に火にかけても苦みが出たりしない。香り成分が水溶性なので、食後に香りが残りにくいのもポイントが高い。
「胤木っていうのは?」
「アノマリスが二百年に一度落とす種子みたいなものかな。あの巨体でも胤木は30センチくらいで出てくるからね。可愛いもんだ」
「つまり、育てたらアノマリスになる木で家を作ったってこと……」
「いや、胤木が30メートルを超えた頃に病が見つかったそうだ。このまま育てても宝樹は生まれないと分かった。だからその時点で伐採したんだって」
「それ、いつの話?」
「20年くらい前らしいけど」
ソフィの先代の魔王か。
思いを馳せながらも、下らない気がしてやめてしまう。僕なんかが考えて分かるものか。魔王というのは、土台僕の想像を超えている。恐ろしく肉体の出来上がった、目が八つぐらいある化け物を想像していたものだが、実際に現れたのは華奢な少女だった。何なら僕みたいなひ弱な魔王を想像してみた方が、存外的中するかもしれない。歴代に一人くらい、僕みたいな奴がいても。うん、あり得ない。
野菜を洗って、食べごろのサイズにカットしていく。新鮮なローツの葉はサラダにぴったりで、本当は手でちぎって載せたいところだったが、一応他人の、というか魔王の口に入るものということで気を遣った。ポロクの芽をレッグラグと一緒に軽く炒めていく。香味野菜の一つで、食感はアスパラに近い。
「幻王のこと、気になる?」
すっかりソファにひっくり返って、何やら分厚い本を抱えながら、ソフィが問うてくる。
気になるも何も、そもそも幻王を知らない。
「なにそれ」
「名前も知らないときたか……」
ソフィは呆れたように、じとりと横目に睨んでくる。
「先代の魔王だよ。名前や功績は星の数ほど歴史に刻まれているけれど、実際に姿を見た国民はほとんどいなかった。だから、幻王」
「へぇ。ソフィみたい」
「真面目に聞きなよ。この帝国で、いや帝国の外でも、幻王の名前を知らないなんてのは君ぐらいだからね。太陽を知らないくらい無知蒙昧だよ」
確かにそれは無知蒙昧すぎる。
実は「アインシュタインくらい有名?」なんて馬鹿な質問を喉元で止めていたのだけれど、それどころの話ではなかった。虫でも知っているレベルだ。
「まぁここで働いていれば、自然と幻王の話を聞くことは増えるよ。彼の遺産は数え切れないからね。いい意味でも、悪い意味でも、夥しい先例に彼は登場するはずだ」
こんがりと焼けたトーストに薄くバターを載せて、サラダに燻製肉とポロクの芽のソテーを盛り付ける。フライパンの余熱に溶き卵を流し込み、急いでかき混ぜて空気を含ませる。程よくダマ感のある半熟オムレツを添えて、今日の朝餉が出来上がった。
食卓に二人分の食事を用意してから、大きな失敗に気が付いた。
「トキ、これは」
顔をむすっとさせながら、彼女はもっちゃもっちゃと朝食を頬張っている。
まず、彼女は辛い物が苦手だったらしい。香りづけに使った少量のレッドペッパーが良くなかった。次からは抜かなければ。というかダメなら言ってくれ。
次に、ドリンクを間違えた。いつもの手癖でホットコーヒーを淹れてしまったが。
「ぼくはコーヒーが好きじゃない。飲めるけど、好きじゃないから。味がね」
彼女は苦いのもダメだった。だから言ってくれればいいのに。そういえば、いつかコークスが言っていた。魔王はコーヒーを飲まない、と。
「そんなことまで知っている人が市井に。ちょっと怖いほどだ」
「ただの喫茶店のマスターだけどね」
そうか、と短く受け応えて一息つくと、ソフィはあっという間に朝食を食べ終えた。食べるペースから見て、ポロクの芽もあんまり好みじゃなかったらしい。でも、そんな様子をおくびにも出さないよう、頑張って食べたらしい。
どういうわけか分からないが、僕もちょっと幸せな気分になっていた。
誰かのために食事を作ったのは初めてだし、それを全部食べてもらったのも初めてだ。
そんな僕の親心みたいな感慨に気づくわけもなく、魔王は席を立つ。
「トキ、きみにお願いしたいことがある」
この一言が、僕の初仕事の始まりだった。
長い長い、途方もない大事件の幕開けだ。




