魔王の右腕
2.
がちゃり、と音を立てて扉が開く。
右を見る。左を見る。また右を見る。目が回りそうだ。
龍の石像が壁に彫られている。その背には人が乗っているようだが、よく見れば翼が生えているようだから、ヒト種ではないのだろう。というか自分で飛べばいいのに。嵌め込まれたガラスは青く輝き、建物全体を涼やかで神聖な光が満たしている。喧噪の中にあっても、一歩進むたびにコトンコトンと足音が響くのがわかる。
「青の宮殿」
思わず口にしたくなる程には、名が体を表している。
国家中枢の一つで、主に軍部の機関が籍を置いている。軍の機関は並べて三種。攻城局・防衛局・諜報局。それぞれの局長は軍政三極と呼ばれる。
手元の紙に目を落とす。握られた小さなカードは、カフェ『烏巣』のマスター、コークスに手渡されたものだ。走り書きでなにやら書かれている。長々と書いてあって読む気もしないが、探すべき知り合いの名前だけは頭に入っている。
右にも人、左にも人、忙しなく歩み去っていく人影、書類の擦れる音。先程来、頭を鳥のように動かしてはいるものの、小さな町で育った僕の頭はパンクしきりだ。
「何か、お手伝いしましょうか」
右往左往していると、見かねたのか一人の男性に声を掛けられた。恥ずかしい、などとは思わない。これ以上うろうろしていたら、衛兵につまみ出されてもおかしくなかった。そう考えると、一つも恥ずかしくはない。だから、頬が紅潮したのは緊張のせいだ。
「攻城局諮問官のメルゴーさんにお会いしたいのですが」
男性は少し驚いた様子で僕の顔を見つめた。
「メルゴー諮問官ですか。失礼とは存じますが、ご面識はおありで?」
「はい。飲み仲間でして」
途端に男性の顔から笑みが消える。嘘をつくな、という顔だ。そうか、メルゴーさんは下戸だ。そして僕はどう見ても15、6そこそこの子どもだ。だが嘘ではないのだ。
「……コーヒーの、飲み仲間」
不審すぎるし、不信を露わにした顔が目の前にある。
嘘ではないのだが、少なくとも、もし僕が彼なら嘘だと確信できる。
僕は慌てて手元のメモを見せた。どうか落ち着いてほしい。この紹介を見て来ただけで、怪しいものではないのです。
「……デオルト宮殿内、攻城局分局、諮問委員会特別室、メルゴー。ここまで噛まずに言えれば官吏には信用される。うまく案内させて本人に会えたら、一対一で直接交渉を持ち掛けること。グダグダ言うようなら子どもと嫁の現状について話してやるべし」
全部終わりだ、バカマスター。
「そんなことまで書いてありましたか。いやぁ参りました。屈伸運動なんてするのは久々です。ちょっとやめてください、襟をつかむのはやめてください。」
「いやいや来なさい君。今ならまだやり直せる! まず公安局で話を」
周りで聞こえていた喧噪が止まる。衣擦れ音が聞こえるほどに。これはまずい。周囲の目を引き始めた。いや、冗談じゃない。こんなところで僕のハローワークを終わらせてたまるものか。手を振り払おうとした瞬間。それが視えた。
男の指先から光が漏れ出す。僕の肩を握りつぶそうとでもしているのだろうか。縦巻きの5本線、渦を巻いて僕の体を絡め捕ろうとするのが分かる。
咄嗟に身をよじった。僕の体を取り巻く小さな光が、男から向けられたそれと一緒に渦を巻く。泡立つ潤滑油のようだ。次の瞬間、僕の体は男の腕からするりと抜け落ちる。
「な、君は何を……!?」
目を見張りながらも、腰から白剣が閃くのが映る。正気か、宮殿の中で。逃げようとした僕を咄嗟に捕えようと腕が走ったらしい。僕は両手を合わせて受け流す姿勢を取る。薄く赤みを帯びた波が僕にまとわりつくように這っている。即座に身体を波打たせて構える。振り下ろされたのは峰打ちだった。僕のシャツの上を、恐ろしく鋭い細剣が滑っていく。反射的な制圧、本当に当てるつもりだったらしい。周囲から戸惑いのどよめきが上がる。
「何をしている、トキ」
後ろから、凛とした声が僕の首根っこを掴んだ。氷をグラスに転がしたような、澄み切った声色には覚えがある。
「アレスさん」
「アレス攻城局長! いらっしゃったのですか」
青みがかった艶やかな長髪は、束ねられてなお生き物のように揺らめいている。全身から滲み出る波が、鈍く光りながら停滞していた。触れれば指先が凍り付いて砕けそうだ。
軍政三極の登場に、宮殿の中が騒然とする。
「局長のお知り合いでしたか。これはとんだ無礼を」
「気に病むな。事情は分からぬが、どうせこいつが悪い」
「好き勝手言ってくれますね」
「違ったか? 違ったなら謝ってやろう。その代わり違わなければ殺す」
無茶苦茶だ。
「公正という言葉をご存じですか」
「当然だ。公正とは『私が納得すること』これに尽きる」
「そんなものに尽きてたまるか」
ため息をつきながら、改めてコークスの名刺を差し出した。彼女は拾い上げると、一瞥して鼻で笑う。刹那にその手の中でカードは粉雪になって散った。
「なんだ、わざわざデオルトまで来て、私ではなくメルゴーに用か。何をしに来た」
「……ハロワです」
「ふふ。お前が攻城局に。それこそ笑わせるな」
彼女の銀の瞳を見つめ返す。そんなことは言われなくても分かっている。軍の前線で戦おうなどとは考えていない。雑用でも何でも、仕事はあるはずだ。
「なるほど。気合だけは入れて来たか」
「まぁ、魔力はなくても覚悟は決められますから」
「覚悟、か」
見定めるように僕を大きな瞳で刺し貫く。威圧している自覚など無いのだろう。本気でアレスに威圧などされようものなら、プレッシャーで吐いてもおかしくない。髪の毛一本から汗の一滴まで観察されているような気分だ。
アレスは人の悪い微笑みを浮かべて言った。
「トキ。仕事があるぞ。デカい山だ」
はっとして彼女と視線を合わせる。
「だが私の時間とは国宝と同義だ。ここで突っ立って話してやる道理はない。ついて来るなら話してやろう。だがついて来るなら投げ出すことは許さん」
言い放つと、彼女は僕の背を追い越して正面階段を上っていく。迷いはない。
「あの、君、悪かった。その……あまりに疑わしかったものだから、本当に申し訳ない」
男性に後ろから声をかけられた。こちらも大概悪いので何も言えない。
「改めて、攻城局通信課のダラスです。お詫びというわけではないですが、今後何か攻城局内で困ったことがあれば知らせてください。できる限りお力になりましょう」
手に持った白い帽子を目深にかぶり、男性は済まなそうに笑って見せた。
僕はダラスさんに手短に礼を言うと、すっかり小さくなったアレスの背を追って小走りに駆け出した。
次話は明日19時投稿です。