王のインケラーシャ
「こりゃ驚いた。アレス攻城局長までお出ましとは。戦争でもするつもりか」
「ヘルメス! 無事かい? 無事だね。よし仕事だ」
「待って今オレ大変」
「連れて来た兵士を街の外縁に集めたのはきみたちだろう? そのおかげで兵力が分散したまま街はドーナツ状態さ。アレスまで出張る羽目になった。でも大丈夫、きみが責任を取ってくれるだけでいいからね」
ヘルメスがぐいっとこちらを向く。僕は黙って顔を背ける。
僕の考えた作戦だけど、あなたも同意しましたからね。
「え? え? うそでしょ!?」
魔王がヘルメスの首根っこを掴んで、聖塔のてっぺんからぶん投げる。正気か。
情けない悲鳴を上げながら、彼は街の北西に向ってすっ飛んでいく。ちょうど初日に立ち寄ったスイーツ店……確かホワイトクラウンがある辺りだろうか。ヘルメスなら頭から落っこちても死にはしないだろう。あれだけ満身創痍でありながら、そんな風に思わせる程、彼の地力に疑いようはない。そういう問題じゃないと思うけど。
目下では、アレスが踊るように隕石の破片を叩き潰している。誇張ではなく、ラカンに降り注ぐすべての礫を、彼女一人で吹き飛ばせるだろう。正直に言って、この街を守るのに、ヘルメスはもう必要ない。この小さな魔王は、きっと戦力増強以外の何かを見ている。
「見て。四個め」
促されて見上げると、雲間に顔を覗かせる最後の凶星。
いや、今のところ最後の星だ。
「うまくやってね?」
「へ?」
彼女は楽しそうに言うと、僕の背中を軽く叩いた。
意識と視界がぐにゃりと歪む。
強烈な重力加速度に三半規管がねじ曲がりそうになる。
空気が冷たい。
風の音が耳にうるさい。
吹き上げる風を全身で受けながら、僕の身体が自由落下し始める。
「はい?」
絶句して状況を咀嚼する。
眼下に隕石。
周囲には黒雲。時折閃く雷鳴が、すぐそばで轟音を立てている。
遥か上空に、あの一瞬のうちに転移させられていた。
右手に握った小剣を確かめる。これを落としたら終わりだと言い聞かせる。
落ち着け。
滞空姿勢。手足を広げ、まっすぐ落ちること。
前の世界で、そんな小説だったか映画だったか……何かで見た気がする。
いや、バカな。出来るわけがないだろう。
『落ちていく感覚』が僕の身体を芯から竦み上がらせる。
まずい。呼吸ができない。
嚙み合わせがガチガチと震える。舌を噛みそうな程に張り詰めた緊張感。
息を吸い込めと言い聞かせる。だが食いしばった口が開かない。
焦りに冷や汗が流れ出す。
硬直した身体が鉛のように重い。
「落ち着け……落ち着け……!」
声に出したのか、心の叫びだったか。それもよく分からない。耳に届くのは、降下する風切り音だけだ。
その時、視界の先で光が視えた。
羽ばたく黒羽。インケラーシャ。ブラックスワン。
禍々しい魔力の紋様に包まれた烏羽玉の尾羽が揺れている。
違う。
その先には降り落ちようとする巨星。大気を切り裂いて進む質量の塊が、燃え滾りながらラカンの街へと猛進する。
違う。
全てを超えた先に、彼女がいる。
二つの強大な魔力塊に遮られながら、なお燦燦と閃くその比類なき魔力の波長。彼女の指先からなぞられるように紡がれる大魔術の陣。その気配。
烈火のような魔術陣が、ラカンの街を覆い尽くす勢力で放射状に広がる。山火事のように燃え盛るその眩き光量は、やがて彼女の左手一本に収縮していく。赫々と蠢き脈を打つそれは、手の中収めた太陽。
「うまくやってね?」
先刻の彼女の言葉を思い出す。
なんて無責任な注文だ。
あれの炸裂波が飛び交う中で、ブラックスワンを仕留めきれと言っていたのか。
普通なら絶望するところだ。普段なら躁鬱になるところだ。だが、今の僕はそうでもないらしい。誰のせいだろう。何のためだろう。彼女という太陽を見つけて、寒さに震えた僕の全身が、どこか伸びやかに活力を灯し始める。
退路は無い。
退路など要らない。
「アラニエ」
頭から落下する自分の全身を取り巻くように、蜘蛛の糸を張り巡らせる。
槍は要らない。飛ぶ鳥を落とす武器は、もうこの手の中に握られている。
ブラックスワンがこちらに気づいて威嚇の気勢を上げる。だが、その場から動く気配はない。落ち行く隕石のすぐ真上で、僕に毅然として向かい合う。根拠というような根拠はない。だが、お前は動けないのだろう、そこから。
「焼却式」
ブラックスワンの目と鼻の先。そこまで迫った時、僕より早く魔王の術式が動き始める。
小さな左手から放たれた惨凛たる光。
束の間の静寂。
輝きは宙へと昇り、熾天の星に変わる。
接触。劫火。烈日の輝きが巨星を飲み込み、灰燼に帰していく。
魔王の意志に呼応するように、溶け込むように中心核に達した光球が爆ぜる。
目が眩むような魔力光。
気が狂うような鮮烈。
その決死の爆風を掻い潜り、僕はその先に手を伸ばす。
余りの魔力量に、アラニエが悲鳴を上げる。
構うものか。
僕の魔力で、空に舞い戻ることなどできやしない。
既に退路は断ったのだ。
残された道はたった一つ。
苛烈なる魔王の魔力。その全てを受け流し、搔き分ける。
爆散し、焼失した隕石の穴をすり抜け、君のもとに帰るだけ。
人並程度の魔力もなくて、どこへ行ってもお払い箱で。兵士の使命も、戦士の覚悟も無い僕が。手に職の一つもつかない僕が、そこに飛び込んでも許されるのだろうか。
君の魔力が染みついた小剣を握りなおす。両手に握りしめた漆黒の刃に、肉体を形作る全ての細胞に、ありったけの魔力を注ぎ込んで僕は落ちていく。
「お前は、僕の願いになれ」
命を散らすように、その黒羽が弾け飛ぶ。
喚き上げる黒鳥の胸元を、魔王の剣が刺し貫いた。




