魔王の降臨
その人は僕の肩に手を置くと、歩みを進めてヘルメスの前に立った。
なぜだろう。血眼で内階段を疾走した時には気にも留めなかった。
だというのに、今は触れられただけで泣きそうな気分になる。
その姿が、その声色が、その足取りと表情の一つひとつが。
何もかもが僕に訴えかけてくる。彼女こそ、この世界で一番の存在だと。
「きみ、まだやれる?」
振り返り、こちらに手を差し出す少女。
もう片方の手は、パーカーのポケットにしまわれたまま。
暴風雨の中にあって、涼しい表情を浮かべる彼女に、僕の手が思わず震える。
無意識に持ち上がる右手。
「僕は、まだ」
やれると言葉にしようとして、出てこない。少女の眩しさに、僕の眼尻から熱くなった雨粒が滲み出る。初めて出会った年下の女の子の前で、言葉を紡ぐことすらできない。それほどに彼女は特別なんだと否応なく悟ってしまう。
「よかった」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、躊躇いがちに震える僕の手を引っ張り上げた。温かい、僕より一回り小さな手のひら。その手に触れただけで確信する。
「これ持って。いくよ?」
僕はあたふたしながら、手渡された小剣をお手玉する。柄から刀身に至るまで、塗りつぶされたように黒一色。持ち手から剣先までほぼ真っ直ぐな形状で、鍔も無い。
「いくよって……」
僕が目を白黒させているうちに、彼女は僕の手を引く。
聖塔の先端部まで歩みを進めると、その強烈な魔力の気配が姿を現し、僕は無意識のうちに身をかがめそうになる。伝播するその強大な魔力の波はことさら異質で、まるでドミノの最初の一枚を倒したように、ラカンの街中に伝えていく。魔王がこの街にいることを。
突風のごとく街を駆け抜けた少女の魔力は、あらゆる建物から、逃げ込んだ住民までもを畏敬と好奇のもとに引きずり出す。
全ての種族が、男も女も、年寄りも赤ん坊さえも、すべての生き物が彼女を見上げる。言葉を失い、ただため息にも似た息遣いだけが、嵐の中にかき消えていく。風にあおられるフード、煌めく長い黒髪の下から覗く愛くるしい顔立ち。僕らの王がそこにいる。
「ラカンの民よ」
魔王の魔力が、あらゆる通信網をジャックする。
その声色に、市民は恍惚として聞き惚れる。感涙に咽ぶ者の嗚咽が聞こえる。
「ラカンは醜悪な反逆者に狙われている。その仔細をきみたちに話す時間さえも惜しいことを理解してほしい。これよりぼくは、ぼくの頭上に降りかからんとする無粋な小石を潰滅せしめる。だが、ぼくにとっては磨り潰した砂粒でも、幼き者たちにとっては死を呼ぶ礫に等しかろう。しかし見たまえ。そのすべての凶弾を、これまでずっと、街の外に逃がし続けた少年がここにいる」
「ちょ」
僕を自分の前に引っ張り出すと、魔王はにやりと笑って見せる。
しばしの沈黙の後、誰かが歓声を上げる。拍手が小さく聞こえ始める。その歓声は次第に大きくなり、魔王を讃える声と混ざり合い、うねり、街を包み込む。雷鳴を押し返すほどのその歓声と活力に、僕は圧倒された。
「ぼくの民たちよ、聞くがいい!」
全ての目がこちらを向いている。静まり返る街。全身を力ませたままの静寂。
だが先程までの喧噪はどこへやら、ただ雨音と風と雷鳴だけが街を覆う。
嵐の中で、ラカンが僕らをまっすぐに見つめている。
「ぼくはこの少年とともに、隕石の元凶を叩き潰す! だが、ぼくらがそれと対峙する間、あの石クズの破片は休みなくこの美しいラカンに降り注ぎ、育まれた幼い命と、静かな生活を蹂躙するだろう!」
息を忘れたように、市民たちは青筋を立てて魔王の言葉をかみしめる。
呼吸を入れると、彼女は右腕を振って叫んだ。
「許してなるものか! ぼくときみたちが、きみたちの先代が、今日まで築き上げてきたこのラカンを! きみたちの愛する子らを! その血脈を! ここでただの一つたりとも絶やしてなるものか!」
片腕を振っただけで、強烈な魔力波に一時雨が降り止み、風が凪ぐ。
前髪からぽたりと垂れる雫。その一滴を両手の中に包んだ。雨なのか、涙なのか。最早分からなくなったラカンの市民が、最後の言葉を待っている。
彼女は笑った。
「たとえ隕石が落ちようとも、それが太陽であろうとも、ぼくの国に落ちるてくるなら容赦はしない。だから、ぼくの国に生きるきみたちよ。きみたちはぼくの一部だ。共に戦え! 共に護れ! 帝国の民は日の出を待たん。明日の朝日は自ら灯すものと知れ!!」
ラカンが震える。
全身が総毛立つ。
怒号にも、勝鬨にも似た大歓声が、この街を震わせている。いや、街が人の集合であるならば、まさに今、喉を震わせ涙を流しているのはラカンそのものだ。
そのすべてを背に受けながら、少女が僕に向き直る。
「トキ」
僕の名を知っていたのか。そんな疑問は浮かんだ瞬間に消えていく。名を呼ばれただけで、喉元を掴まれたような気分になった。僕が向き直ると、彼女は満足そうに、僕の手に握られた小剣を指して言う。
「それは『祓魔』のインケラーシャ。銘こそわからないけれど、魔力にはめっぽう強い、きみ向きの懐刀だ。それでブラックスワンを祓ってきて」
「どうやって……いや、まさか」
嫌な記憶が蘇る。この第六区に飛ばされた日の記憶が。
「あの蜘蛛の糸、ミツハの魔術でしょ。あの子、弟子と近接戦結構やるって聞いてるよ?」
「だからって! ていうか誰に聞いたの!?」
唐突に魔術の師の名前を出されて混乱する。
隠居生活者で、魔王に名を知られるような人ではないのに。
「ぼくの懐刀から、ちょっとね」
魔王は視線を上げる。
雨が止んだので気が緩んでいた。彼女の演説が終わるころには、三発目の隕石がその全容を晒していた。恐ろしいことに、ヘルメスと僕が砕いた二つの隕石よりも一回り大きく見える。
「やれやれ、ぼくとしたことが熱を入れすぎた。術式の組み上げが間に合わないな」
魔王が少し力んだように、全身に圧力をかける。
聖塔の屋上に亀裂が走る。こうなることを避けて、慎重にこの塔を上ってきたのだろうか。重い、この上なく重い魔力の渦が、僕と魔王を中心にしてとぐろを巻くように這いまわる。次第にその渦は空に向かって首をもたげ、天を仰ぐ。
「術式無しで受け止めるつもり!?」
「そんなつもりはない。壊すから」
余計おかしい。
魔力と魔術は違う。ほとんど材料と加工品だ。鉄鉱石は銑鉄に、銑鉄は鋼に。鋼を鍛えれば刃になる。研ぎ澄まされた斧は、巨木をも切り倒しうるだろう。しかし、ただの土くれでしかない鉄鉱石をいくら打ち付けたところで、低木の一本だって、まともに切れやしないのに。
魔王の魔力が、降りかかる暴力的な質量と接触する。
僕の手を握ったまま、彼女はただその先を見つめていた。
「うそ……?」
僕の声だろうか。市民の誰かが声を漏らしたのか。
魔王の魔力は蛇のように隕石の周囲をのたうち回る。その刹那、幾本もの魔力線がその中心へと一気に手を伸ばした。いとも容易く外殻を突き破り、中心核を食らいつくしていく。
規格外にも程がある。
ただのエネルギーでしかない魔力塊に、思うままに付与された指向性。その物量だけで隕石の質量を食い散らかす魔力量。
視線の先で、三発目の隕石が完全に弾け飛ぶ。はたと我に返り、僕も魔力の制御に集中する。あれを街の外まで逃がすのが、僕の役目。
「ちがうよ、トキ」
小さな手が、冷たくなった僕の手をぎゅっと握りこむ。
思わず彼女の金色の瞳を見つめ返す。
琥珀のようなその瞳に魅入られて、僕は言葉を失った。
頭の中に何かがある。靄のかかった何かが、僕の思考を停止させる。
夢の中に漂うみたいに、僕は暗がりに小さな光を見ていた。そこに、誰かがいたような気がする。こんな風に僕を見つめる誰かが、そこにいたような気がして。
「アラ……ニエが」
気づくと、僕が張り巡らせた魔力線の糸は、見る影もなかった。制御を失って、ぼろぼろに穴の開いた蜘蛛の巣。支えを失くして、重力に落ちこぼれ、風に吹かれて靡くような、死んだ蜘蛛の巣。これでは、隕石の欠片を誘導するどころではない。
「大丈夫だよ、トキ。ぼくを見て」
「だって……」
落ち着き払った彼女と、狼狽えて竦む僕。
魔王は射貫くような視線を僕に向ける。
「ぼくたちの帝国は、そんなに弱くない」
呼応するように、街の至る所で魔力が弾け出す。ラカンの市民たちが、気勢を上げて隕石の欠片を次々に撃ち落としていく。色彩も紋様も、大小も様々な魔力の閃きが、ラカンを染め上げる花火のように炸裂する。この街に生きる人々の、命の輝き。街の脈動。
しかし、同時に降り注ぐ無数の破片に、街はゆっくりと飲み込まれ始める。僕に比べれば、ラカンの市民の魔力量の方がよほど多いに違いない。だが僕と同じで、彼らは兵士ではない。誰かと、何かと戦う日々を想ったことなど無いはずだ。
言葉にならない叫びが、僕の中から絞り出される。
その刹那、蒼い光が街の上空を一閃した。
突如響き渡る轟音と煌めきの中で、砕かれた隕石の欠片が、一斉に吹き消されていく。
魔王の魔術ではない。
僕の視線の先で、見知った顔がこちらに会釈する。
清凛とした横顔、まっすぐに屹立した蒼銀に輝く刀身。
鬼神がそこに佇んでいた。悪魔と契約して、そのうえ悪魔の魂を奪うような戦いの女神。
握った長刀を高らかに掲げ、彼女は謳う。
「我が名は帝国軍が三極、攻城局長アレス! このラカンの命の灯に呼ばれ馳せ参じた! 帝国の我が兄妹たちよ、誇り高き商港ラカンの友たちよ! 血の滾る奮戦、甚だ見事! これよりはこの蒼き閃光、魔王の右腕が、お前たちの戦場を共に駆けよう!」
次話投稿は明日19時です。




