珈琲店の悪魔
1.
どこかで誰かが嘯いた。
喉の奥に込み上げた愛を吐いた。
「いずれ必ず形になる」
真っ赤な月を見上げながら嘯いた。
真っ青な瞳を紅く浸して謳った。
「滴り、染まり、放たれる」
暗い海に沈んでいくその人は、瞳の奥で笑っていた。
「それまでは、おやすみ」
肩を叩かれる。
とんとんとん。撫でるというにも近い、遠慮がちな感触。
肩を叩かれる。
とんとんとん。細い指で、爪を小突くような感触。
肩を叩かれる。
とんとんとんとんとんとん。
とんとんとんとんとんとんとんとんとん。
「叩きすぎでは」
「仮眠ブースじゃないですからねー」
真っ暗な視界。目をこすって起き上がる。テーブルに突っ伏した腕が微かに痺れて、僕は顔をしかめた。そんな僕を尻目に彼女は続ける。
「コーヒーに失礼ですよ。尊厳を傷つけられたようです」
なるほどそういう向きもある。
「かわいそうに、これじゃただの苦い水」
「あんたも大概失礼だ」
顔を上げると、彼女は静かに微笑み返して見せた。女神のような、というよりは、天使のような、という形容が近い。栗色の髪をふわりとなびかせながら、看板娘は伝票を差し出してくる。わざわざ裏返しに。敢えて見ずに応えてやることにした。
「お金ないです」
「じゃあ来ないでくださいねー」
天使は天使なのだが、容赦なく正論をぶつけてくる辺りは悪魔にも思える。
正しいと優しいは違う。
「仕事ないです」
「あったでしょう、たくさん」
確かに、あるにはあった。仰々しい書類を書いては出し、書いては出し、繰り返すこと50回と、もう少し。たくさんの仕事が世の中にはあるものだと思い知った。
「でも、だめでした。僕はいらない子みたいで」
「めんどくさいですよー」
慰めてくれない。いや、期待していたわけでもないけれど。
「いいですかトキくん」
彼女は人差し指を立てて、いつになく胸を張る。普段はカフェの制服にうずもれて影も見せないまこと慎ましやかな胸が、久々に自己主張をしている。……立てられた指が中指に変わった。声に出ていた。
「いいですかトキくん」
僕の側頭部をその愛らしい尻尾で殴打してから、彼女はまた真面目な口調で語り始めた。尻尾の先に抱えていたカップは盛大に散乱し、カウンター奥ではマスターが目を白黒させている。ちゃんと教育してください。頭をさすりながらそう念じていると、やがて彼はしゃがれた声でつぶやいた。
「カップ……」
僕の心配をしろ。
「聞いてますか」
「はい」
光より早く受け応える。
「『ちゃんと聞いていますリリィさん』と言ってください」
「ちゃんと聞いていますリリィちゃん」
「無駄な反骨心を見せないでください。でも少しかわいいですね。しかし心外です」
忙しい天使もいたものだ。せわしなく右に左に揺れる尻尾が凶器に見えてきた。
「トキくん。こんなところで油を売っている場合ではありません。コーヒーのおかわりを頼んでいる場合ではありません。動けるなら動かなくては。考えられるなら考えなくては。でなければそれこそ、あなたは要らない子ならぬ、『いない子』なのですよ」
そう言いつつ、彼女の手には湯気の立ちのぼるカップが握られていた。商売繁盛。看板娘万歳。
「でも、良い仕事なんか無いのかもしれません」
言い訳じみて情けないが、一応言葉は返した。格好いいと思っていた魔剣探索パーティ。きっと人より頭が切れると信じて応募した生物研究所。本が好きだという理由で自信満々で申し込んだ帝国図書館司書。ハイテク社会を生きた経験を活かせると思っていたら門前払いを受けた魔力技術系工房。気が乗らないと思いながらも応募した、魔技製品の売り込み。魔力性生物や魔技を使った運送ギルド。思えばどれだって魅力的だ。中には辛そうな仕事もあったが、そんなのはどんな仕事にだって多かれ少なかれある。
「どこに行っても、言われることは一緒で」
「魔力が足りないって?」
甘い香りがする。お転婆な生娘の香り。でも、もし僕に姉がいて、笑って抱き留めてくれたなら、こんな香りかとも思ってしまう。
10年以上前、気が付くと、僕はこの世界にいた。前の世界の記憶は断片的にしか残っていない。僕は高校生だったこと。少ないけれど友達はいて、頭はあまりよくなかったけれど、僕の妄想でなければ仲良くしてくれた女の子もいた気がする。でも、家族のことは思い出せない。自分自身のことも。経験と知識が、一部破損したチップとして脳に埋め込まれている、そんな感じがする。
かれこれ15年ほど生きてきて、この世界は僕にとって当たり前になった。しかし、いかんせんかつて人間だったことが何か影響しているのか、僕の魔力は他人と比べて10分の1もない。前の世界では大概のものが電気という動力で動いていたと思う。一方この世界では、大概のものは魔力で動いている。いわゆる発電所のような『魔力炉』というものが無いではないが、いわゆるスパコンのような存在で、持ち運べるノートPCとか、そんな代物ではない。要するに、ただ生きるだけなら困らないが、僕の魔力量では仕事をするのにあまりに不利だ。みんなが当たり前に大型トラックを動かす中で、一人だけ原付バイクを走らせている。そんな感じ。
「そんな顔をしないでください。トキくん、あなたは鍵なんです」
「……なんのですか」
「さぁ? それは私にはわかりません」
なんとも的を射ない話を聞かされた気がする。まさかこれで終わりではなかろうと思って黙っていると、リリィは再び口を開いた。
「あなただけではありません。世の中の人はみんな鍵です。私も、コークスさんも、カールさんもです」
「マスターと……カールさんて誰ですか」
状況とすり合わせてなんとか思い出したが、普段マスターとしか呼んでいないので、彼の名前がコークスだったことも、正直怪しかった。
「先月からホールに入っているウェイターさんですよ」
「あぁ……あれ、話したことない気がします」
「トキくんのオーダーは全部私がもってますからねー」
彼女はそう言って、口元をほころばせながら首を傾けた。気を確かに保たねば、勘違いしてしまいそうになる。
「あなたが鍵なら、お仕事は鍵穴のようなものです」
青みがかったリリィの瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。
「お仕事が探しても探しても見つからないのは、貴方のせいではないのです。とはいえ、お仕事のせいでもありません。鍵穴が合わないのですから」
そう言うと、手に持っていたカップをそっとテーブルに置いた。僕はその所作には気を留めず、彼女の真剣な眼差しをただ見返した。
「例えばあなたは木製の鍵かもしれません。鉄製かもしれません。ちょっと腐ってるかもしれませんし、ともすれば輝くダイヤの埋め込まれた、それはそれは立派な鍵かもわかりません。でも、そんなの関係ないでしょう? 鍵穴に合わなければ、どうせ開かないんですから。扉の開けられない鍵なんて、どんなに立派でも空しいだけです」
「そうですね。でもどうせなら、人とは違うものがいいです。昔の槍みたいに凝った鍵とか、真っ赤な色の鍵とか」
僕のくだらない軽口を聞いて、リリィはまたくすくすと笑った。
「そんなの、この世に一人でも持っていたら面白いような鍵ですねー。10人合わせて一人前のトキ君が持っているかはとっても怪しい鍵です。でもトキくん、安心していいんですよー」
やっぱり甘い香りがする。また眠りに落ちてしまいそうな、穏やかな香り。
「『鍵だけ作ったけど、鍵穴はない』……そんなお家ないでしょう?」
「……そりゃあそうだ」
ふふ、と微笑みながら、鼻歌交じりに彼女はカウンターへ歩いていった。
置かれたカップにはシロップ入りのホットミルク。
伝票にはコーヒーが1杯とスマイルが無限に注文されている。器用な似顔絵付きで。
ふと視線を泳がせると、カウンター奥でマスターのお説教を受けるリリィが目に留まった。
さっきまでの元気はどこへやら、尻尾もへこたれて、しおれた花を見ているようだ。僕が奪ってしまったせいだろうか。もしそうなら、少しは報いてやらなければ。
明日はどこへ行ってみようか。
マスターにもコネを探ってもらおうか。
雲の中を歩いているみたいに、温かく、涼しく、甘い。
いつの間にか、僕はまた瞼を閉じていた。
次話は明日19時投稿です。