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暁の歌、響け世界に3 《天の巻》  作者: John B.Rabitan
第2部 因縁の魂
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7 宗教の垣根を超えて

 注文が決まったようだと見計らったのか、オーナーが来た。

 エーデルさんが多分アラビートゥの言葉で、注文を伝えてくれた。店のほかの客のテーブルでも、同じような言葉が飛び交っている。


「ここの肉は、豚肉は一切ない。ノンアルコール・ビールならあるけど、それ以外のお酒も置いてない。でも、持ち込んで飲むのならだいじょうぶ。でもその時はチャージいただきます」


 オーナーが言う。ちゃっかりしている。でも、見渡しても俺もチャコも、悟君もまだ十九歳。お酒は飲めない。


「あなた、仏教の人? 仏教も豚肉食べない?」


 オーナーが悟君の作務衣を見て聞く。


「いえいえいえいえ」


 悟君は速攻で否定。


「日本の坊さんは普通に豚肉、食べます、お酒も飲むし、結婚もします」


「へえ」


 オーナーは驚いた顔をして、行ってしまった。


「でも、エーデルさんにはちょうどいいですよね」


 チャコが何気に言った。エーデルさんもすぐに否定した。


「実は私、ムスリムじゃない」


「え、でもミツライムって」


 島村先輩が、初めて話に入った。いや、ここでは普通に島村さんか。


「はい、たしかにミツライムはムスリムの国。でも私は違う」


 エーデルさんはかなり声を落とした。


「私はヤハドゥートゥ。つまりユダヤ教。でも普通のユダヤ教じゃない。昔はエッセネ教団と呼ばれていました」


「え? でもエッセネ教団は紀元後すぐに消滅したのでは?」


「表向きにはそうなっています」


 エーデルさんの声はますます小さくなっている。おかまいなく島村さんは話し続けた。


「私は神学生ですし、キリスト教の母体となったのがユダヤ教ですから興味あります。しかも、エッセネ派って、イエス様がかつて所属していたとか一部で言われている……」


「たしかに」


「いやあ、今のカトリックでは、そのようなことを大っぴらには言えないんですよ。神父様に聞いたりしたら、余計なことに関心持つなですからね」


 その島村さんの言葉の間も、エーデルさんはオーナーや自分の同胞と思われるほかの客のことをかなり気にしていた。そして言った。


「ここでこの話はまずいです。今度別の場所で」


「たしかにこういう話になるのなら、普通の和食か洋食のレストランの方がよかったかなあ」


 拓也さんがぽつんとつぶやいた。

 その時、ちょうど料理が運ばれてきた。

 しばらくは、俺たちは料理を堪能した。やはり珍しい。こういう普段は食べないものを食べさせるレストランに来た場合、初めてのものに接する喜びを表す人と、なじみがないものに拒絶反応を起こす人の二通りがあるだろう。

 だがここにいる俺たちは、皆前者のようだ。


「でもやはり主食に米のご飯がないと、食った気しませんねえ」


 悟君がとぼけた調子で言うので、それが皆の笑いを誘った。


「でも、この国は不思議」


 ぽつんとエーデルさんが言った。


「松原さんは仏教のお坊さんになるため修行中。島村さんはキリスト教の神父様になるため勉強中。そんな二人が同じテーブルで笑いながら話をしている」


拓也さんが身を乗り出す。


「それがこの国の本質ですよ。前に勉強した古文献によれば、世界のすべての文明の発祥の国がこの国ですからね。仏教にしろキリスト教にしろ、みんな里帰りしてきているのです」


 なんだか話が高尚になりすぎて、俺にはついていけなかった。だから俺は耳だけ傾けて、黙々と食事をしていた。チャコも同様、という感じだ。


「まあ、俺は親父の顔を立ててるだけで、本気で坊主なんかになる気はない。今の仏教なんて釈尊の教えからは全く離れて霊的なことに無知になり、小難しい哲学をこねくり回して悟りを開いたような気にでもなっている」


「でも、一応形だけでもお坊さんになるのでしょう?」


 島村さんが聞く。


「まあ、どうなるかわかりませんね。俺が釈尊の心を呈して仏教を立て直すなんて、そんな大それたことはできっこないし」


 それを聞きながら、俺らが婆様から言われたことはもっと大それたことだったなあって、俺は考えていた。。


「たしかにねえ。僕も一応司祭になるための勉強をしていますけれど、キリスト教とてイエス様の原点に立ち返るべきじゃないかと思いますよ。今のキリスト教哲学にも、私はいろいろと疑問が湧いています。だからほかの宗教のことも知りたくて、悟君のお父様のところに時々お邪魔させていただいているんです」


「そうやってお互い根本を突き詰めていけば、やがて同じ峰にたどり着くってところですかね」


 拓也さんがそこに口をはさんだ。


「あの中国の長江と黄河という二つの大河は、全く違う二本の川に見えますよね。河口も八百キロ以上離れている。でもその源流は驚くほど近いそうですよ。もしかしたら長江の最初の一滴と同じ一滴が、黄河の最初の一滴なのかもしれない。これは想像の域を出ませんけどね」


 皆食事の手を一瞬止めて、拓也さんの話に聞き入っていた。


「世界の文明も宗教も元は一つということです。ということで、皆さん、食べましょう」


 拓也さんに促されて、またみんな食事を再開した。種ながら拓也さんは話を続けた。


「それで、先ほどの仏教哲学やキリスト教哲学の話だけれど、たしかに難しいですよね。僕にも手に負えない。でも考えてみてください。釈尊やイエス様はどういった人たちを対象に説法したのですか?」


「民衆ですよね」


 答えたのは悟君も島村さんも同時だった。


「そうでしょう。いわば無学で、言葉は悪いけれど文盲つまり字の読み書きすらできない人たちです。そんな人たちに今の仏教哲学やキリスト教哲学を説いて、いったい誰が耳を傾けますか。どうして仏教やキリスト教が二千年以上も続いて多くの国に広がる宗教になりますか? 彼らが説いたのはもっとわかりやすい話だったはずです。つまり、真理とは本来分かりやすいもので、誰でもすぐに実践できるもの、そして再現性がある、つまり例外なく誰にでも当てはまるものなのです。まあ、皆さん、食べながら聞いて」


 言われてまた皆、フォークを持つ手を進めた。


「それを後の人たちが人知の尾びれをつけ、理屈でこねくり回して、今のキリスト教や仏教にしてしまった。そして伝統と権威に胡坐あぐらをかき、観光事業や結婚式、葬式などに力を入れている。人々の霊的救いなどそっちのけですね」


「伝統と権威といえば、イエス様ご自身こそが、その伝統と権威と戦った方だったんですけどね、その話をしだすと長くなりますから、それはまた今度ということにして」


 島村先輩がそう話して言ううちに、ちょうどみんな食事が終わった。

 そこでオーナーがまた、テーブルに近づいてきた。そして変な器具とカップ、何か黒い粉が入った容器などを配り始めた。


「これもセットですか?」


 俺が聞いてみた。


「これ、カフワ・アラビーア、つまりアラビートゥのコーヒーね。本当は六百円。でも、初めてのお客様にはただでサービス」


 それはうれしい話だ。でも、拓也さんのだけない。


「こちらのお客さんは常連だからサービスない。飲みたい場合は六百円」


 オーナーはしたたかに笑っている。拓也さんも苦笑だ。


「じゃあ、六百円で僕ももらいましょうか」


「ジョークね。あなたも今日は特別にサービス。新しいお客さん、たくさん連れてきてくれたから」


 にこやかに笑って、オーナーはもう一セット持ってきた。

 そして本当はオーナーから淹れ方や飲み方の説明があるようだけど、オーナーは笑ってエーデルさんを見た。そしてまたアラビートゥの言葉で何か言っていた。


「はい。わかりました。ここはオーナーに代わって私が先生」


 エーデルさんもうれしそうに笑った。

 それによるとまず、変な形をした器具は実は火をつけるアルコールランプで、その上の小さな鍋にすでに水が入っているのでそれを沸騰させる。

 沸騰したら容器に入った黒い粉、実はこれがコーヒー豆を挽いたもので、それを直接沸騰しているお湯の中にドーンと入れる。

 しばらく煮沸してから火からおろし、しばらく待ってからカップに注ぐ。

 そうして上澄みを飲むのだそうだ。

 ここにカルダモンを好みで入れてもいいという。カルダモンもテーブルの上に用意されている。


 皆悪戦苦闘しながらもなんとか淹れて、俺も一口飲んでみた。予想通りけっこう濃い。でもうまいっていう感じだ。

 このコーヒーで、今日はお開きということになった。

 料金は一人約三千円だったが拓也さんは、俺とチャコ、悟君、島村さんの四人は学生だから二千円でいいと言ってくれた。あとは拓也さんが持ってくれるようだ。

 外はもう真っ暗だった。

 俺とチャコはこのすぐそばにあった地下鉄の駅から帰ることになった。あとの四人は来た時の逆行きの同じバスで帰るようで、駅の入り口で別れる形となった。


「今度はぜひ、山下さんや朝倉さんのお仲間の、あと五人でしたっけ、みんな一緒に集まれるといいですね。今日のメンバーとも」


 俺もぜひそうしたいと願っていたので、快く返事をした。



(「第3部 婆様上京」につづく)

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