魔王ロドリックの死
序
ロドリックの秘密がやっと解った。
そして、私は世界に干渉を始める。
1
ロドリックの城は、北方の山岳の奥にある。
彼は玉座に深く腰を掛け、部下の魔物から戦況の報告を聞いていた。
広い謁見室の中央の机に、大きな地図が乗り、小悪魔が戦線を表す駒を並べ替えて行く。
ロドリックの軍は、半年前から自由連合公国の領土に攻め入っている。
魔物の軍の前に、公国の半数の都市が陥落し、あと半年もすれば公国全土がロドリックの支配下に入るだろう。
そうやって、ロドリックの国は大きくなり、いまや大陸の半分が彼の手中にある。
部下の報告は退屈だった。
曰く、街を落とし、住民の半数を殺した。
曰く、財宝をかき集め、城に運んだ。
曰く、抵抗勢力の拠点をつぶし、構成員を皆殺しにした。
ロドリックは、もう何年も同じ話を聞いているような気がした。
抵抗する国を滅ぼし、抵抗しない国は併呑し、これもまた滅ぼした。
ロドリックは、別に国土が欲しいわけではない。
財宝が欲しいわけではない。
人の上に立ち、権力を振るいたい訳ではない。
やることが無くて退屈だから、軍を動かす。
国を滅ぼす。
人々を虐殺する。
もう、何年も、何十年も、ロドリックは同じ事をしている。
同じ報告を聞き続けている。
ロドリックは暗い目をしていた。
黒い髪の下に意外に若い顔立ちが覗いている。
ロドリックの青い目は氷のように無表情だった。
報告を続ける第三師団の魔物将校がお追従を言う。
ロドリックは無視して、次に攻める都市を選ぶ。
魔物たちはロドリックを恐れている。
魔物よりも冷酷で、無慈悲な我らが王を恐れている。
ロドリックは退屈だった。
何も彼の予想を超える事は起きない。
そう、思っていた。
鬨の声がロドリックの耳に飛び込んできた。
金属が打ち合わされる音。
肉が切り裂かれる音。
絶叫と、攻撃魔法が弾ける音がして、広間のドアが荒々しく開いた。
外気が吹き込んできた。
風が運ぶ花の匂いを嗅いで、初めて、今の季節は春なのだと、ロドリックは気が付いた。
扉を開いたのは、若い娘だ。
返り血を浴び、血刀を下げ、彼女はロドリックをにらみつける。
「魔王ロドリック!! あなたの命をいただきます!!」
ロドリックは、うすく笑って立ち上がる。
娘に襲いかかろうとした部下たちを手で制する。
「ここまで来た剣士は久しぶりだ。名は?」
「エルリガンが娘っ!! ターナ!!」
ターナはそういうと、片刃の長剣を構える。
剣の動きに鍛錬と才能のひらめきが見えた。
今、ロドリック軍の主力部隊は城に居ない。公国の要塞を砕きに山を下っている。
城を守るのは近衛の小軍のみだ。
裏の山岳を越え、小勢で奇襲。隊を一つの生き物のように城に打ち込み、強兵を犠牲にしつつ進んできたのだろう。
ロドリックは両手剣を抜きながら思った。
王の間にたどり着いたのは、小娘の剣士たった一人。
公国の最後の賭だ。
だが、それも徒労だ。
ロドリックは剣を振る。
娘は驚いた顔をして、剣を受ける。
あまり上手くない。
娘の斬撃がロドリックの籠手を削る。火花が散る。
「私が下手なので驚いたか? もう、百年も剣の修練なぞしていない」
ロドリックは笑う。
嗤われた。
そう思って、ターナは剣を横降りに振る。
立てたロドリックの剣がそれを払う。
体を半回転させて、連続技がロドリックの胴をかすめる。
燕のようにさらに閃いて、ターナの剣はロドリックの喉に跳ね上がる。
ロドリックの首を半分えぐり、剣は床に鮮血を撒き散らす。
魔物たちはにやにや笑いながら立っている。
「上手いな、お前は。頸動脈をやられたよ。私は死んでしまうかもしれない」
「きさまっ! きさまはっ!!」
ロドリックは血を吹き出しながら、何事も無かったかのように両手剣を打ち振る。
術も、技もない、ハンマーを振るような斬撃。
ターナは剣を寝かせて、勢いをそぎ、かかとを軸に回転して、ロドリックの二の腕を刺す。
ロドリックの首の血は止まりかけている。
「本当に、お前の剣は芸術的だ。すばらしいぞ、ターナ」
「きさまはっ!! 本当に不死なのかっ!!」
「そうだ。ターナ。私は死なない。だからこそ、人にして魔物の王となれる」
ターナの目に絶望の色が浮かぶ。
だが、歯を食いしばり、気合いと共に、切り払う、突く、なぎ上げる。
「心臓か、首だ、ターナ。そこをやられれば、私とて、しばらくは動けぬ」
あざ笑いながら、ロドリックは剣を振るう。
稚拙だった動きが、だんだんと精妙になり始める。
「ああ、だんだんと思い出してきたよ。ターナ。そうだ昔は必死に覚えたものだ」
ターナは斬撃を交わす。
ロドリックの一撃一撃が鋭く、重くなっていく。
「魔物の王になるため、必死で努力した、知恵と暴力を使って昇りあがった」
右に、左に、フェイントを掛け、踏み込み、時に引き、切り込んで行く。
剣と剣が打ち合わされる金属音が広間に響き、火花の光がタペストリーの上を這って消える。
「死なないというのは、すばらしい長所だ。魔物とて、死はある。死を恐れる」
ターナの息があがりはじめている。
娘らしい滑らかな頬が上気している。
「死なない人間には誰も勝つ事は出来ない。誰もな」
「ふざけるな!! 私が貴様を殺す!!」
ロドリックは薄く嗤う。
何度も、何度も、刺客は来た。
そのたびに同じ事を言い。そして刺客たちは死んでいく。
2
その、時空間に、私は出現した。
時を止めた。
ターナの剣はロドリックの心臓を目指して止まっている。
ロドリックの剣はターナの喉を切り裂かんとしている。
死なない人間には誰も勝つことができない?
そんな事はない。
私はロドリックを死なせる事が出来る。
3
一瞬、重心が変わって、ロドリックはたたらをふんだ。
目の前の光の量が増えた。空気の臭いが変わった。
体が軽くなって浮き上がるような感触があった。
ロドリックはあたりを見回した。
彼は、玻璃で出来た大きな窓がある、石造りの階段の上に立っていた。
ターナは目の前に居た。
格好が先ほどまでと違う。
胸ぐりの開いた、柔らかい襟の服を着て、縦襞の短いスカートをはいていた。
自分の姿も違う。
甲冑は無く、肌触りの良い白いシャツ。紙のように薄いズボンをはいていた。
「ん? どうしたの晴彦くん?」
ターナが不思議そうに柔らかく問いかけた。
不意に、彼女がターナではなく、十月沙耶菜であること、自分が高島晴彦であることが思い出された。
だが、それと同時に彼はロドリックでもある。
「な、なんでもないよ。沙耶ちゃん」
なんだか、下働きの小僧のような声が出たなと、ロドリックは思う。
ここは陣馬市の陣馬高校。
屋上に向かう踊り場だ。
晴彦はここで沙耶菜とおしゃべりをしていた。
「今度の日曜日開いてる? 見たい映画があるんだ」
ロドリックは思い出した。
明後日の日曜日は塾の試験だった。
さぼろうかなあと、晴彦の部分が思い、いや、それは良くないのではないかとロドリックが思う。
「日曜は塾の模試なんだ。土曜はどう?」
ロドリックの部分が沙耶菜を見つめる。
ターナも沙耶菜の中に居るのか?
「土曜は香奈ちゃんと約束あるけど、ずらせないか聞いてくるよ」
沙耶菜ははにかむように笑った。
「じゃ、聞いてくる、ちょっとまっててね、一緒に帰ろう」
「うん、まってるよ」
晴彦は笑う。
ふむ、まだつきあって日が浅い、晴彦からの告白で始まった交際なのか。
と、ロドリックは記憶をたどる。
沙耶菜は小さく手を振って、階段を下りて行く。
ロドリックは息をつく。
「なんの茶番だ、これは?」
晴彦の部分も困惑している。
だが、まったくの別人格という感じはしない。
記憶だけが二重にある、根が同じ存在。
そんな感触だった。
「日本国。平和な国か。夢のような世界だな……」
大魔法使い級の存在が、魂だけを別世界に飛ばしたのか?
だが、何のために?
ここの世界に私を幽閉し、元の世界に自由と平和をもたらす。そういう計画なのか?
そう、ロドリックは考える。
晴彦はファンタジーで、血なまぐさいロドリックの記憶をたぐり、辟易する。
最低だな、この人はと考える。
でも、まったく理解出来ない訳ではない。
自分のやった失敗や失言を振り返るような感触で記憶が立ち上がる。
同じ世界にいて、同じ存在だったとしたら、自分もロドリックの道を歩んだろうと思う。
ロドリックも晴彦に違和感はない。
何の力もなく、平和な世界だったら、たしかに、こうやって生きていたと思う。
保健の美子先生が階段をゆっくり上がってきた。
晴彦はこのメガネの先生が結構好きだ。
穏和で物わかりが良い姉御という感じ。
「どうだい、ロドリック、この世界の居心地は?」
「……おまえは」
「ああ、美子先生の存在を借りている。私は世界に実態を持たない存在だからね」
「おまえが、私をこの世界に転移させたのか」
「そうだ」
「なんの為に」
「お前を死なせるためだよ」
「私は不死……」
晴彦の体が死んだら、自分はどうなるのだろう、と、ロドリックは思った。
「単に、意識があっちに戻るよ。早く戻りたいなら、屋上から飛び降りるんだね」
そんなのヤダ。と晴彦が思う。
「別に、ここで殺すために転移させた訳じゃない。お前が死ぬのは向こうの世界だ」
「では、何故だ」
「んん、秘密」
私は、うっすらと笑った。
「なんの目的だ、言えっ!!」
「あと、数時間で十月沙耶菜が死ぬ」
晴彦の部分が衝撃を受けた。
「だからなんだ?」
女の死なぞ、見飽きた。と、ロドリックは思う。
「別に、好きにすればいい。死が訪れぬように足掻くのも良いし、死を看取るのも良い。どっちでも」
「別の世界の女の死を見せる為に、転移させたのか?」
「そうだ、それ以外の目的は無い。では、また」
私は、踵を返し階段を下りかけた。
「まてっ!!」
ロドリックは美子先生の肩をつかんだ。
「きゃっ!!」
メガネの奥で美子先生の目が丸くなっていた。
「た、高島くん……。い、いけません」
「さ、さーせん」
晴彦は慌てて手を離した。
春の日差しの匂いと、美子先生の香水の匂いが混じり合い、屋上の踊り場に漂っている。
4
ロドリックは校舎内を見て回る。
豊かな国だと思う。
こんなに沢山の若者の群れを見たことがない。
みんな屈託がない。
栄養が足りていて、幸せそうだ。
そうでもないけどね。と晴彦の部分が思う。
幸せそうな外見の中に、孤独と無関心が潜んでいると、晴彦は思っている。
ロドリックは晴彦の知識を引き出していく。
政治の仕組み。経済の動き。軍事の知識。
「なんと。この世界は、もう五十年も戦争が無いのか」
あんたの世界が戦争しすぎ。と晴彦はつっこむ。
廊下の窓から春の風が吹き込み、櫻の花びらが舞い込む。
夢の国だ。とロドリックはため息をついた。
沙耶菜がぱたぱたとやってきた。
「晴彦君、オッケーオッケー、土曜日に行こう」
「ああ、それは良いね」
晴彦は微笑む。
沙耶菜は笑いながら、晴彦の手を取り、持ち上げる。
「指切りげんまん」
「あはは」
晴彦はわらい、指切りをする。
沙耶菜が死ぬなんて、考えられないよ。と晴彦は思う。
ロドリックは沙耶菜を見つめる。
ターナの顔。だが、中身はずいぶん違う。
俺と晴彦が違うように。
柔らかい沙耶菜の指の感触は、どこか遠い昔の記憶を呼び覚ます。
微かな記憶は思い出す前に水の中の小魚のようにつるりと逃げて姿を消した。
「一緒に帰ろう」
「うん」
頬を赤らめて沙耶菜は晴彦の誘いを受ける。
ままごとのようだな。とロドリックは苦笑する。
ほっといてくれ、おっさん。と晴彦は思う。
きらきらと埃の舞う昇降口で、ロドリック=晴彦は靴を履き替えた。
鞄をぶらぶらさせて、沙耶菜が近づいてくる。
家まで護衛しよう。と晴彦が思う。
暴漢あたりなら、私が対処しよう。とロドリックは思う。
剣の技術も思い出した事だしな。
「なんか……」
「なに?」
「なんか今日の春ちゃん、雰囲気違うね」
「そ、そう? 沙耶菜は、えーと、自分を他の人のように感じられた事ってない?」
「無いよ」
即答だった。
沙耶菜の中にはターナは居ないようだ。とロドリックは思った。
「あ、でもね。違う人になる夢はよく見るよ」
「へえ、どんな人?」
「なんかね、ファンタジー世界の貴族のお姫様なの。で、剣の達人なんだ」
ターナだ。ロドリックは沙耶菜を見つめる。
「なんか、北の悪い魔王の国に侵略されていて、それと戦ってるの」
「はは、すごいね」
「私は夢の中で、魔王を見たことがあるのよ。なんかイケメンだったけど、暗い人だった」
わるかったな。とロドリックは思う。
おっさんは暗いよ。と晴彦は頷く。
「でねえ、でねえ、これは秘密なんだけど、夢の中の私は魔王を一目見てから、胸がすごく熱いんだよ」
「そ、そうなんだ」
夕日に照らされ、沙耶菜は笑いながらくるりと振り返る。
「暗いけど寂しそうな人で、なんだか切なくて、夢の中の私は魔王に恋してる自分に気が付くの」
「そ、そうなのか」
思わず、ロドリックは声を出してしまった。
「でもね、近づいてはいけない、近づいたら、この想いは憎悪と敵意に変わると、なんか、そういう雰囲気がして、ただ、その魔王さんの姿を胸に焼き付けたの」
開戦前の外交交渉の時か……。ロドリックはそう思う。
確かに、遠く、印象的な娘の姿をロドリックは見ていた。
「でね、晴ちゃんと初めて会ったとき、ああ、この人、魔王さんに似てるって、なんだか性格は違うけど、本質みたいな物が同じ人なんだなって、そう思ったんだ」
そう言うと沙耶菜はえへへと笑った。
遠くに海が細く見え、日がそこへ向かって降りていくのを見る。
沙耶菜の目が笑うように細くなる。
ロドリックは思わず沙耶菜の手を取る。
ちょ、おっさん! と晴彦は心の中で驚愕する。
沙耶菜は黙り込み、下を向く。
ロドリックは流れるように、沙耶菜のあごに指を当て、上を向かせ、キスをする。
ぎゃー! と晴彦は悲鳴を上げる。
唇を軽く合わせただけで、ロドリックは身を引く。
そう、怒るな。とロドリックは独白する。
俺の彼女だぞっ!! と晴彦は頭の中でどなりちらす。
私の彼女でもある。とロドリックは思う。
沙耶菜は頬を赤く染め、ちょっと下を向く。
そして、ロドリック=晴彦の胸の中に体を預け、
「もーー、晴ちゃんのばかばかばかっ」
と、ちいさなこぶしでぽかぽかとロドリック=晴彦の胸をたたく。
ロドリックは沙耶菜の小さな肩が愛おしいと思った。
沙耶菜の柔らかい髪が愛おしいと思った。
気が付くと微笑んでいた。
もう、何十年も浮かべたことのない表情だった。
笑うという気分がどんな物だったか、思い出した。
晴彦は不快だった。
俺と沙耶菜のファーストキッスを、おっさんが取った。
と、怒るが、まあ、ロドリックは自分でもあるので、なんとも複雑な気分だ。
夕日で赤く染まる街が見える。
下り坂の道端で、二人は抱き合い、体温を感じあっていた。
5
ふと違和感。
が、晴彦の部分に起こる。
ロドリックの記憶を探る。
違和感。
なにか、ゆがんでいるような。
なにか、大事な物が欠落しているような、違和感。
ふと、晴彦の部分は気が付く。
ロドリックは人の好意を受けた事がない。
馬鹿なと思い、たぐる。
一度も誰からも好意を受けた事のない人間がいるはずはない。
記憶をたぐる。
無い。
ロドリックは、晴彦の記憶をたぐる。
好意の甘酸っぱい記憶が沢山ある。
先生に優しくして貰った事。
友達に心配されたこと。
沙耶菜が、うんと頷いてくれたこと。
君の事が好きだよと、態度で示されたこと。お父さん、お母さんに愛されてると示された事。
たしかに、私はそんな事をしてもらった記憶が無い。とロドリックは確認する。
それは、おかしい、と晴彦が思う。
一度も無いなんて。
俺と同じ存在のはずなら、幾度かはあるはずだと思う。
二人で記憶をたぐる。
ロドリックの記憶には好意は無い。
近寄ってきた者は居る。
だが、親しむ前に、恐れるか、敵意を向けていた。
全ての存在が。
「どうしたの?」
胸の中の沙耶菜が、きょとんとした顔で問いかける。
「な、なんでもないよ」
晴彦は歩き出す。
百五十年、一度も好意を受けないで生きる、そんな事がありうるのだろうか。
晴彦の部分はつぶやく。
おっさんがひねくれるのも無理はないな。とも思う。
私は、そんなに、ひねているかね? とロドリックは不満そうな思考を浮かべる。
「晴ちゃんは、私の事好き?」
「あー、そのー、すっげえ好きだよ」
「私も晴ちゃんが大好きだよっ」
くすすと笑って、沙耶菜は晴彦の顔をのぞき込む。
恥ずかしくないのか? とロドリックが思う。
こう言わないと、マジギレするんだよっ!!
女ってのはなっ!
と晴彦は照れくさそうに絶叫の思考を浮かべた。
沙耶菜は晴彦の手を取り、腕を組む。
腕に制服ごしの柔らかい物があたって、晴彦は胸をぎゅっと捕まれたような気がした。
これで、おっさんさえ頭の中にいなければ、と晴彦は悔しがる。
好意か。
ロドリックにとって初めての経験だった。
甘くて、柔らかい感触の感情だった。
不意に、これまで生きてきた不死の百五十年は砂漠の景色のようだな。と思いが浮かぶ。
6
沙耶菜の家に着いた。
家に乗り込み、しばらく警戒してはどうだ。とロドリックは思う。
そ、それは無理だ。と晴彦は否定する。
「じゃあね、晴ちゃん、また明日」
「あ、ああ。あの」
「ん?」
沙耶菜は振り返る。
「さ、最近危ないから、いろいろ気をつけろよ」
「うん。ありがとう」
沙耶菜は笑って、小さく手を振る。
良い娘だな。とロドリックは沙耶菜を見つめる。
俺んだからなっ! おっさん! と晴彦はロドリックの心の動きを否定する。
どうする? とロドリックが自問する。
しばらく、近所で警戒しよう。と晴彦は自答する。
そうだな。
とロドリック=晴彦が振り返った瞬間、轟音と共に沙耶菜の家が爆発した。
爆風でよろけ、膝を突いたロドリック=晴彦が振り返ると、業火が沙耶菜の家を焼き、大蛇のような黒煙が夕空を割っていた。
!
立ち上がったのはどちらの存在だったのか。
絶叫したのはどちらの存在だったのか。
走った。
きな臭い。
ガスくさい。
沙耶菜。
見回す。
黒煙。
炎が髪を焼く。
どこだ。
瓦礫。
死ぬな。
サイレン。
煙。
沙耶菜は、瓦礫の中にうずくまっている。
脇に手をやり、引き出す。
血。
大量の血。
「は、晴ちゃん?」
足の先が無い。
血。
「しゃべるなっ!」
涙が出て、沙耶菜の上に落ちる。
引き出す。
うめく。
死ぬな。
死ぬな。
煙。
咳き込む。
血。
沙耶菜を道まで引っ張りだし、地面に寝かせる。
「誰かっ!! 救急車っ!!」
野次馬は顔を見合わせる。
どこかのおばさんが携帯電話を取り出す。
ロドリック=晴彦が立ち上がろうとすると、沙耶菜がズボンを引っ張って止める。
「い、いっちゃ、やだ……」
「だけど、人を!!」
致死だ。人の死を見続けていたロドリックは宣言する。沙耶菜はもう死ぬ。せめて居てやれ。
ふざけんなっ!! 沙耶菜が死ぬかよっ!!
「もうむり……。ごめんね。晴ちゃん……」
「大丈夫だ、大丈夫だよ、沙耶菜。土曜に映画行くんだろっ!」
「あのね、あのね……」
晴彦は沙耶菜の薄れ行く瞳の色を見る。
ロドリックの胸が痛む。
なぜだ?
なぜ?
「愛してます……」
沙耶菜の体から力が抜ける。
晴彦の腕の中で目を閉じる。
晴彦はそれを抱きしめる。
涙。
涙が流れ、胸が締め付けられる。
ひゅうひゅうと息を吸う。
何で死ぬんだ。と晴彦は思う。
ロドリックは愕然とする。
これが喪うという事なのか?
胸の奥深く、氷のような固まりが大きくなり、目の前が真っ暗になっていく。
私は悲しんでいる?
泣いているのは晴彦だけではない?
馬鹿な……。
7
美子先生は買い物中だ。
肉屋さんで、揚げたてのコロッケを三個買っていた。
爆発音に振り返り、黒煙を見て、あら何かしらと美子先生は思う。
私はそこへ憑依した。
揚げたてのコロッケの香り。
良い匂い。
悪いが一個貰いますよ。
コロッケを袋から出して囓る。
んーー、あつあつで美味しい。
おっと、そんな事をしてる場合ではない。
私は、時間を止め、ロドリック=晴彦の元へ歩んだ。
8
音が無くなったのにロドリックは気が付く。
晴彦はそれどころではない。
沙耶菜の体を抱きながら泣く。
コロッケを囓りながら、私は近づく。
「どうだい? ロドリック、気分は?」
「この気持ちを味合わせる為に、この子を殺したのか」
「ガス事故だよ。私がやったわけではない」
「さ、沙耶菜をかえせよっ!!」
晴彦は私に叫ぶ。
「時間を操れるんだろっ!! 沙耶菜を生き返らせろっ!!」
「必要ない。なに、つらいのは、あと少しの時間だから」
「どういうことだ? 私に喪う辛さを味合わせ、改心させようとでも言うのか?」
ロドリックは私をにらみ付ける。
「幾百、幾千もの、沙耶菜と同じような死骸を、晴彦と同じような嘆きを作り出した、この私に、反省しろとでも?」
私は鼻をならす。
「晴彦は沙耶菜にもう一度会いたいだろう。ロドリックはどうだ? 沙耶菜にもう一度会いたいか?」
「それは……」
もう一度、沙耶菜に会いたいと思う自分にロドリックは気づく。
もう一度、笑っている彼女に会いたい。
もう一度、笑いかけてもらいたい。
だが、彼女が笑いかけるのはロドリックではない。晴彦だ。
彼女が私に会えば、恐れるか、敵意を向けるかだろう。
だが、それでも。
「会いたい」
「会わせてやる。向こうの世界で」
「ターナに、沙耶菜の魂を転移させるのか?」
「転移じゃない。記憶だよ、只の。ロドリックの心が来たわけじゃあない。記憶だけが晴彦の中に入っただけなんだ」
晴彦は訳が分からなかった。だが、叫ぶ。
「俺もっ!! 俺も会いたいっ!!」
「晴彦の記憶を連れて行っても意味が無いんだが、ま、オマケだ。連れて行ってやろう」
9
一瞬の揺らぎ。
ロドリックは自分の甲冑の重さを感じる。
目の前にターナがいる。
ターナの表情が軟らかくなり、沙耶菜の目の色となる。
沙耶菜! と、晴彦の部分が声を上げようとする。
だが、剣は運動を止めていない。
ターナの魔法の剣はロドリックの甲冑を貫き、正確に心臓を貫いた。
ロドリックの剣は、ターナの首を切り裂き、骨に当たって止まった。
「愛してます」
と、言ったのは、ターナなのか、沙耶菜なのか。
「愛してる」
と、言ったのは、ロドリックなのか、晴彦なのか。
二人は謁見室の床を血に染めて、どう、と丸太のように倒れた。
魔物たちは薄ら笑いを浮かべている。
なに、すぐ、魔王は立ち上がると思っている。
ロドリックの体に異変が起こる。
時間を進めたかのように、縮み、骨になり、粉となり、春風に乗って舞う。
残るはがらんどうの黒い鎧とターナの冷たい骸。
第四位の魔物が第二位の魔物の脇腹に槍を突き刺した。
玉座の間に混乱が起こる。
「魔王が死んだ。次の魔王は俺だっ!!」
絶叫と共に、第二位の魔物の死骸に何度も槍を突き刺す。
「な、何をする。王亡き後、魔物は団結して、人類に対し共闘しなくては!」
第三位の魔物が慌てて大剣を抜きはなつ。後ろから第五位の魔物が斧を振るう。
血と絶叫がこだまする。
戦況の駒を並べていた小悪魔が慌てて宙に舞い上がる。
争いにまきこまれちゃあ大変だ。と、彼は思う。
10
そして、私は大きな口を開け。
世界を食べ始める。
がりがりと歯をたて、空間と時間を飲み込み始める。
魔王軍第四位の魔物の野望を飲み込み、瀕死の公国の戦士の願いを咀嚼する。
大気を圧縮し、大陸をばりばりとかみ砕く。
世界を飲み込む。
宿屋の女将の浮気心を味わい、遠い海の船乗りの悲しみを飲み込んだ。
以前の話だ。
私は、この時空に来て、世界を食べようとした。
だが、この寄り集まる葡萄状の三千世界のどこかで腐臭がした。
無理に食べる事も出来たのだが、私は美食家だ。
腐敗を消してから食べようと思った。
私はロドリックの居た世界を完食した。
世界の全てを味わった。
全ての人の記憶、人生、願い、思いを飲み込み消化した。
私は三千世界を丹念にしらべ、やっと腐敗の元を探り当てた。
それは不死の人間だった。
時空柱を見上げれば、永遠にロドリックは存在する可能性が見えた。
美味しく世界を食べる為に、ロドリックの不死を消す必要があった。
私は隣の世界を噛みちぎる、綺麗な音の世界。
穏やかな目をした人が踊る世界。
やすらぎが多く、優しい人々が穏やかに暮らす世界の骨盤にくらいつく。
嘘をついてにこやかに笑う指導者の気持ちを咀嚼する。
善人の顔で自分の事しか考えていないおかあさんのはらわたを味わう。
嘘といつわりをすすり込み、飲み下す。
私はロドリックの過去を丹念に調べた。
人の中に入り込み、いろいろ見て回った。
食べ物の中に入り込んだのは初めてで、そこは狭く矮小で、それでいて美しくはかない世界にうっとりした。
晴彦の世界に噛みつく。
コンクリートの建物をかみ砕き。空を切り裂いて口のなかにほおりこむ。
受験生の悲しみを飲み、タクシードライバーの退屈をくちゃくちゃと味わう。
美子先生の孤独をなめ回し、救急隊員の使命感を嚥下する。
不死の原因はロドリックの母親だった。
くだらない女だった。
母親は王の母になりたかった。
栄耀栄華に飾られ、贅沢をし、女中にびんたをくれる存在になりたかった。
母親は息子に呪いをかけた。
愛を得るまで死ねない呪い。
人が近づくと好意は憎悪に、敵意に、恐れに変わる呪い
二つの強力な呪いを掛けた。
私は、しばらくその時間の中で死ねない彼を見続けた。
誰にも愛されなかった少年は死ねなかった。
猫一匹にも愛される事はなかった。
小鳥は少年が近づくと恐れ逃げ、犬は彼に噛みついた。
彼は何をされて死ななかった。
その時の私は鍛冶屋の娘に憑依していた。
愛される事のない幼い少年が、暗い目をして野原をうろうろしているのをじっと見つめていた。
ある日、近づいてきたロドリックが、私を不思議そうに見上げた。
「おまえは、私が怖くない? 憎くない?」
なぜだか私の胸に妙な感触が起こった。
「怖くも憎くもないよ」
胸の奥が痒くなるような、息が詰まるような、そんな重い感触がした。
ロドリックの頭を撫でた。絹糸のような手触りだった。
「みんなは、私の事、怖い怖いって、憎い憎いって言うんだ。おまえは大丈夫なの?」
「色々な意味で、私はこの世界と関係がないからな」
つっ、とロドリックの目から涙が流れた。
黙って、声を立てずに、ロドリックは泣いていた。
「望みはあるか?」
「死にたい」
「ああ、そうか、私もお前を死なせたい」
「駄目なんだ、死ねないんだ。剣でも、毒でも、苦しくても、悲しくても、私は死ねないんだ」
「大丈夫、私が死なせてやる」
「ほんとう?」
「ああ、私にまかせておけ」
ロドリックは小さな小指を私に差し出した。
「ゆびきり」
「うん」
私はロドリックの小さな指に自分の指を絡ませた。
「やくそく」
「ああ、約束だ、私はお前を絶対に死なせてやる」
「ぜったいだよ」
「ああ」
少年は、大人になり、魔物の部下を力で従え、母国で反乱を起こし、王となった。
母親は、自分が思い描く通りの存在となり、贅沢をし、太り、死んだ。
死ぬまで母親は我が子を愛さなかった。
三千世界は一つの根から出る無数の世界だ。
別の世界に、ロドリックと同根の分身を見つける事が出来た。
では、簡単だ。
別の世界にロドリックの記憶を送り込み、呪いの掛かっていない分身を使って、愛を得させればいい。
私は晴彦を見つけ、沙耶菜を見つけ、沙耶菜の分身のターナがロドリックと出会う時間を探した。
そして、ロドリックは愛を得て不死を失い、私は世界を食べる事ができた。
11
この時空の世界を全て食べ尽くした。
空っぽだけがあって、私はそこで舌なめずりをする。
満腹だ。
ロドリックとターナと、晴彦と沙耶菜の、想いだけが口の中でほのかに甘い。
破片がキラキラとあたりに舞う。
これだけは私でも消化出来ない。
尾鰭でかき回すと、くるくるキラキラと舞う。
これは魂の破片。
ロドリックだった、晴彦だった魂と、
ターナだった、沙耶菜だった魂を探すが、無数の破片が乱反射して見つからない。
しばらくすれば、破片たちが寄り集まり、そして誰かが光を呼ぶ。
それは見つけるのではなく、作り出すのだ。
そして、また世界が作り上げられる事だろう。
無量に等しい時間ののち。
大数と並ぶ時間ののち。
世界はまた、葡萄状の無数の世界に分化し、芳醇になり、そして美味しそうに実るだろう。
そうしたら、私は、またここへ食べにこよう。
私は尾を翻して、時空柱を跳躍し、別の次元へと移転した。
(了)