09
大急ぎで部屋を出る。淑女としてはしたない、なんて言っている場合じゃない。ノックも省略して応接室へ飛び込んで、――刺すような冷気が肌を刺した。お父様の輪郭がぼやける程、漏れだす膨大な魔力が肌を焼く。
「お父様!」
駆け出し、必死でお父様へ縋りつく。
「お父様どうか、落ち着いてください!」
魔石を埋め込んだような、爛々と光るエメラルドの双眸がこちらを向いた。
「セレスティア……」
「お父様、ここはお母様との思い出がたくさん詰まったお邸でしょう? お父様が暴れては壊れてしまいます!」
自分の金切り声が鼓膜を突き刺して、――脳裏で何かが弾ける感覚がした。硝子に罅が入るような、食器が割れるような、そんな感覚。
――ああ、思い出した。
穴が一つひとつ塞がっていく。刺すような痛みを伴う記憶も、抉り取られた尊厳も、強く明るいという、妹達が愛するわたくしも。全て、思い出した。
わたくしはセレスティア。バイエルン侯爵家の長女であり、誇り高き氷結の竜の血族。
損なわれた記憶が戻ったら、あんなに恐ろしかったアルト殿下に対する感情は削ぎ落ちた。お父様を支配したかったという陛下に関しても同様に。
「セレスティア、大丈夫か?」
「はい、お父様。ご心配をおかけいたしました。わたくしはもう、大丈夫です」
きっぱり告げる。頭の中がこんなにもすっきりしているのは、思えば久し振りだ。勿忘草の毒性を改めて思い知る。
わたくしの言葉を受けて、変わらず怒りを双眸に宿したまま、しかしお父様はソファーへ腰を落ち着けた。わたくしも続く。
応接室にはわたくしとお父様、青褪めた陛下と目端に涙を浮かべたアルト殿下だけしかいない。護衛すら連れず、陛下は余程、慌ててやってきたのでしょう。
「ご無沙汰しております、陛下。殿下は、先日の王宮以来ですわね。セレスティア・バイエルンまかり越しました」
頭も下げず、温度のない声で言葉を吐くわたくしを見て、隣に座るお父様が安堵したように見えた。
「さて、娘も同席するようですし、話を続けましょうか」
幾分、落ち着いた声でお父様が仕切り直すも、陛下も殿下も、返事どころか頷くことすらしない。お父様の怒りに触れ、芯まで怯えてしまったのでしょう。
「婚約破棄の件でしたな、陛下」
しかしお父様の一言で、陛下はハッと肩を震わせた。
「そ、そうだ。さっきも言ったが、破棄……解消などしない。息子はただ、セレスティア嬢の愛を試しただけだ。青臭いことだが、よくあるだろう? 恋人にわざと別れ話を切り出して、愛情を確かめ合う。子どもらしい愚かな行為だ。セレスティア嬢、息子のつまらない行いを、どうか許してはくれないだろうか?」
早口でまくしたてられた内容に、わたくしは思わずこぼれた苦笑を隠せなかった。
「セレスティア、お前の意見は?」
「わたくしの理解している状況とは、随分と違うように思います。是非、アルト殿下の意見も聞いてみたいですわ」
あれは愛を試すなんて行為ではなかった。だって、殿下に婚約破棄を告げられるのはあれが初めてではない。片手では足りない数、殿下はわたくしとの縁を切ろうとした。その度に、わたくしは殿下にお願いした。考え直してほしい、と。きっと殿下の望む女性になってみせるから、と。
勿忘草を頼る前も、頼って自分を失った後も。愛など欠片もない関係を、愛以外の理由で繋ぎとめようと頑張った。
殿下との婚約が白紙に戻ればきっと、お父様はこの国を見捨てると知っていた。お父様がこの国に残るのは、わたくしの婚約と、お母様との思い出があるから。お母様の理想は別に、この国に根付かなくても叶えられる。
それでもわたくしは生まれ育ったこの国で、お母様が愛したこの国で、お父様のように人間と恋をしてみたかった。
「アルト殿下は、わたくしと愛を確かめ合いたかったのですか?」
ありもしない愛を。それこそ愚かな行為だ。
「そ、そうだ」
涙に濡れた双眸で、声を震わせ、殿下が頷く。
「そうだとも。決まってる。ぼくは君を愛してる。すまない、セレスティア。本当にバカなことをした。ぼくの不安が、君をひどく傷つけた」
すまない。アルト殿下と婚約して以来、初めて聞く謝罪かもしれない。
「わたくしの知っている愛とは、随分と違いますのね」
言葉は思わず冷たい音になった。殿下が怯えたようにと肩を震わせる。
「せ、セレスティア……?」
「地味で、鈍いと叱られることはあっても、好意を伝えられたことはありませんでしたもの。贈り物もいただいたことはありませんでしたわね。わたくしからは幾度が贈らせていただきましたけれど、お返しといえば専ら駄目出しでした」
殿下の顔から血の気が引いて行く。
「わたくしは努力の方向性を間違えていたのですね。殿下の望む女性になるためには、殿下の指摘に沿って己を改めるのではなく、殿下のやり方を学ぶべきでしたのね」
「セレスティア、待って――」
「互いを慈しみ、喜びを分かち合うことが愛だと思っていたのです。相手を否定し従順な傀儡として躾けることをお望みだなんて、想像もしませんでした」
殿下の目端に溜まった涙が一筋、こぼれた。陛下の顔にはもう色がない。
「申し訳ございません、殿下。やはりわたくしは至らない娘です。婚約破棄の件は殿下のお戯れだったということですし、改めて、殿下の望む関係を築いてみますか?」
殿下の返事を待たず、お父様が口を開く。
「私の知る愛ともまるで違うようですな」
陛下、と声を落としたのはわざとでしょう。相当お怒りなのだわ。室内の温度がぐっと下がった気がする。
大陸の北方にある極寒のリゼルユース山脈からこの国へ婿入りしたお父様は、お母様が亡くなった後、すぐ侯爵家を出ようとなさった。それをおじい様とおばあ様がお止めになった。
孫娘であるわたくし達三人に、愛娘の分まで愛情を注がせてほしい、と。そして愛娘が愛した男を、私達も愛しているから、と。お母様との思い出が残るこの場所に未練もあったお父様は、愛を理由に今もこうして留まっている。
陛下も早くに王妃様を亡くされたご自分とお父様を重ね、色々と気にかけてくださっていた。そう思っていた。そうではなかった。
残ったお父様をこれ幸いと縛りつける策を、息子の婚約を利用して画策していた。ドラゴンを擁する国となれば、周辺諸国にとって大きな脅威となる。害そうなどという愚か者は万に一つも現れないでしょう。そして娘である三姉妹は人間とドラゴンの混血。特に長女は魔法の才で特出している。
母親の願いを餌に、これからいくらでも国のために才能を発揮してくれる。国力を増大させるのに、これ以上の道具はない。しかも、娘は自分達に都合の悪い記憶を自ら手放してくれた。追い詰め屈服させ支配する。人間よりも弱々しい竜人となれば扱いは容易い。
わたくしの頑固がここまでの事態を招いた。異種族間の恋愛なんて夢にしがみついたばっかりに。
「言ったはずです。私は娘達のために命を使い果たす、と。それでも残れと言うのなら、それ相応の覚悟をしていただく、と」
この短時間ですっかり老け込んでしまった陛下は、冷や汗でしょう、びっしょりになっている。
「ともに片翼をもがれた同士。子を愛する気持ちを疑いはしません。けれど息子可愛さに私の娘を損なう権利はこの世の誰にも、神にだって赦しはしない」
償え、とお父様は吐き捨てた。
「愛だの恋だの、貴様らには語ってもわからんだろう。妻の愛した国だからと大目に見るのもここまでだ。娘を犠牲にしてまでしがみつく程、私は愚かな男ではない。幸い、二番目の婚約者は私の古巣に近い国の生まれだ。会う頻度が増えて、あの子も喜ぶだろう」
優しく、優しく名を呼ばれた。
「もういいな?」
「はい、お父様。わたくしの我儘で、たくさんご迷惑をおかけしました」
「母親譲りの頑固を振り切れなかった私も悪い。妹達のことは、これから存分に甘やかしてやるといい。姉妹水入らず、それ自体は喜んでいた」
「ありがとうございます」
話はまとまった。割って入ったのは、陛下だった。
「ま、待ってくれ! チャンスをくれ、何でもする! この国は君の妻の故郷だ、まさか滅ぼしたりしないだろう!?」
お父様の返事は簡潔だった。
「貴様らの望んだ、これが愛だろう?」
突如、膨大な魔力が空気を震わせ――凍てつく冷気が場を支配した。