08
先に涙を拭いたのはレイラだった。嗚咽混じりで、それでも懸命に言葉を紡いでくれる。
「約束よ。二度としないで。あの花に近づいてるところを見かけただけでも、私達、お姉様を監禁するわ」
「……わかったわ」
お父様、少し時間がかかるかもしれません。
約束よ、ともう一度、念を押して、落ち着いたらしいレイラは、しっかりとわたくしの目を見てはっきりと話し始めた。
「アルト殿下と婚約してからというもの、お姉様はずっと辛かったの」
身に覚えはある。わたくしは殿下を怒らせてばっかり。殿下との距離を縮められなくて、何をしても裏目に出て。努力が足りないわたくしがいけないのだとわかっていても、やっぱり辛かった。
「お姉様は頑張ってた。殿下の望む女性になろうと。でも殿下は満足しなくて、お姉様はどんどん追い詰められていったの」
「お姉様が一つ寄り添うと、殿下は二つ離れた。要求はどんどん難しく細かく執拗になるし、最近はお姉様の前髪が風に揺れるだけでも怒ってた」
シェリルも落ち着いたのか、言葉を追加した。
「王家だからって許されない。でもお姉様は大丈夫ってきかないし、お父様にも口出しさせなかった」
「頑固者。大丈夫って私達を遠ざけたの」
「意地を張ってる内に限界がきたのよ。私達が気づいた時にはもう、勿忘草を食べてあれこれ忘れてたわ」
シェリルの双眸が潤む。けれど涙は膜を張っただけで、今度はこぼれなかった。
「一度目は良かった。殿下にぶつけられたひどい言葉と、心に負った傷を忘れただけだったから。頑張ろうって、お姉様は笑顔を取り戻したの。でも……
「二度目は、自分のことも忘れてしまった。強くて明るかったお姉様はいなくなったの。殿下に傷つけられたお姉様だけが残った」
強い。明るい。どれもわたくしには当てはまらない言葉だ。忘れてしまったのね。自分のことなのに。
「それからはもう、どうしようもなかったわ。自分を責めてすっかり弱ってしまったお姉様に、殿下はやりたい放題よ。お姉様のやること、言うこと、全部に文句を言ってた」
「私達がいくら言っても、お姉様は自分を卑下するばっかり。今のままでいいの、って何度も何度も言ったのに!」
癇癪を起した子どもみたいに、シェリルが大きな声を出す。いつの間に握っていたのか、クッションを何度もわたくしに叩きつける。
わたくしは抵抗どころじゃない。肩に、腕に、顔にもクッションがぶつかるのに、気にもならない。
唇が震えてうまく声が出ないけれど、無理して絞り出す。
「ご、ごめんなさい……」
レイラにも、シェリルにも、お父様にも。何度も言ってもらったことを思い出す。お姉様は今でもこれ以上なく素敵なのよ。自慢の娘だ。大好きよ、お姉様。愛しているよ、セレスティア。たくさん、たくさん。
わたくしはどの言葉も突き返した。殿下に認めていただけないわたくしなんて。生涯を捧げる相手に、愛してもらえないわたくしのどこが素敵なの。みんなのことは大好きよ、でもわたくしは、わたくしのことが大嫌い。
「どうしましょう……、わたくし……」
頑固者。本当にとんでもない頑固者だわ。家族の懸命な言葉を跳ね除けて、自分を憐れんで殻に閉じこもっていた。
鼻の奥がツンとする。涙は勝手に滑り落ちた。
「ごめんなさい、わたくし……おかしくなってたのね」
後ろ向きな思考で、家族の言葉すら届かなかった。
「私達とっても怒ってるのよ。世界一のお姉様を傷つけた殿下のことも、大好きなお姉様を奪ったお姉様のことも」
「ごめんなさい」
「私達お姉様のことが大好きなの。お姉様がそれを否定することも、お姉様自身を否定することも、してほしくないわ」
「ごめんなさい」
ぽろぽろとこぼれる涙を止められない。
レイラが手を握ってくれる。シェリルが抱きしめてくれる。二人の熱が伝わって、溶けるようにますます涙が出た。
「お姉様は人より魔力が多いから、勿忘草の効果が強く出たんだろうってお父様が言ってたわ」
「けれどその分、勿忘草の毒が抜けるのも早いだろうとも言ってたわ」
これ以上、勿忘草を食べなければその内、失った記憶は戻るでしょう。
「思い出すわ。ちゃんと全部、思い出すから」
ごめんなさい、と繰り返す。
「レイラもシェリルも大好きよ」
ありがとう、と繰り返す。
いつの間にか、二人もまた泣いていた。しばらく三人で身を寄せ合って、何も言わずにただ泣いた。体中の水分が流れてしまう。そう感じる程、涙はなかなか止まらなかった。
どれだけそうしていたか、枯れてしまった涙の雫を拭い去り、二人に問う。
「殿下のことも、教えてほしいの」
避けては通れないことだ。
婚約者として、覚えているのは厳しい声と険しい顔だけ。怯えるばかりで終ぞ愛することはできなかったわたくしの婚約者。アルト殿下もまた、わたくしを愛しはしなかったでしょう。あのまま夫婦になるなんて不可能だと、冷静になった今ならわかる。殿下にだってわかっていたはず。
では一体、殿下はわたくしとどうなりたかったのか。妹達の言い方では、殿下はわたくしをひどく扱うことに執念を燃やしていたように感じる。片方だけの意見で判断することなんてできないけれど、それでもわたくし達の関係が歪であったのは間違いないでしょう。
アルト殿下の話題を振った途端、妹達はざっくり傷ついた顔をした。けれど、口を開くまでにそう時間はかからなかった。双眸に宿った感情は、紛れもない憤怒と侮蔑。
「お母様が亡くなって、王家はお父様が国を離れるんじゃないかって怯えてたの。国から出さないために、お姉様とアルト殿下の婚約を利用したのよ」
「アルト殿下にお姉様を支配させて、お姉様を通してお父様も支配しようとしてた。お姉様の言葉なら、お父様は首を横に振らないから」
言葉もない。わたくしの、わたくし達のお父様をまるで道具みたいに。
「最初の内は殿下も子どもじみた意地悪だけだったわ。でも時間をかけて、お姉様が逆らわないと知って調子に乗ったの」
王子様を相手に調子に乗った、とはレイラの怒りは相当なものだ。
「お父様は何度も陛下に伝えていたのよ。殿下の態度は目に余る、って。お父様の怒りを買う度胸なんてないくせに、改めることもしなかった。いい度胸だわ」
シェリルはもう言葉を飾りもしない。
わたくしと殿下の婚約は、お母様の祈りと願いを叶えるための近道だった。国を想い、民を愛したお母様の優しい希望を繋ぐため。
バイエルン侯爵家と王家の気持ちは同じ方向を向いていると思っていた。だからこそ頑張れた。殿下がわたくしに厳しいのは、それだけわたくし達の目標が高いということなのだと。救える限りの人を救いたい。理想を現実にすることの難しさを前に、決して挫けてしまわないように。
「……わたくしったら、大馬鹿者ね」
王家はお父様が欲しかった。わたくしはお父様を縛るための道具でしかなかった。お母様の祈りなど、王家は気にも留めていなかった。
バイエルン侯爵家の魔法技術は国にとって有益で、手離すには惜しいから。お父様を国に根付かせることができれば、繁栄は保証されたようなものだから。わたくしの持つ魔法の才も、きっと繁栄の一助となるから。
心臓が、凍りついたような気がした。冷気がじわじわと体の熱を奪っていく。
レイラがぎょっとしてわたくしの手を離した。シェリルが慌てた様子で口を開く。
「お姉様、お父様が全てなんとかしてくださるわ。安心して、ここで待っていましょう」
「そ、そうよ。さっき家令が、殿下もついてきて陛下と一緒に応接室にいると教えてくれたの。行ったらお姉様がまた傷つくと心配して、私達にお姉様を眠らせるよう仕掛けたと謝ってたわ」
「お願い、ここにいて」
「行かないで、お姉様」
伸ばされた二人の指が触れるより先に立ち上がる。
「ありがとう、二人とも。けれど行かなくちゃ」
頭の隅を薄氷が覆っていくような、不思議な感覚がする。知らない、おそらくは忘れてしまったわたくしが、記憶の穴を破ろうと暴れている。
二人は何か言おうとして、しかし口を噤んだ。どちらともなく、頑固者、と吐息を漏らす。思わず浮かんだ微苦笑を隠そうと意識して口角を持ち上げ直した、瞬間――
「私の娘を使い捨てた罪は重いぞっ!」
耳を澄ませるまでもなく、邸を揺らす程の怒号が響き渡った。