06
国王陛下、と侍女は言った。陛下が我が家へいらっしゃった、と。
理解するまでに少し時間がかかった。レイラは泣くのも忘れて目を丸くしているし、シェリルは口が半分ほど開いている。
「旦那様から、セレスティアお嬢様はお部屋から出ないように、と伝言を預かっております。レイラお嬢様、シェリルお嬢様、おそばから離れませんように」
どうしてか真剣な顔でそう言う侍女に、妹達はハッとして力強く頷いた。
とても、とても嫌な予感がする。陛下が自ら、わざわざ我が家を訪ねてくるなんて、余程の用件に違いない。お父様がわたくしに警戒しているということは、もちろん、わたくしに関係のある用なのでしょう。妹達を監視につけなければならない程の。
「陛下はなぜ我が家へ?」
「申し上げられません」
「……わたくしは逃げ出したりしないわ」
「お嬢様……?」
怪訝な顔で眉根を寄せた侍女に返事をせず、立ち上がる。腕を掴んでいた妹達も引っ張られ同じように立ち上がった。
「陛下は、わたくしのことでいらっしゃったのでしょう?」
侍女の視線が泳ぐ。
やはり今回の婚約破棄を、陛下は重くお考えなのだわ。
「お姉様、お願いここにいて」
「私達がそばにいるわ」
声を震わせるレイラとシェリルに、精一杯の笑顔を向ける。
「ありがとう、二人とも。わたくしは、大丈夫よ」
アルト殿下との婚約が正式に破棄されたのでしょう。そしてわたくしはきっと、罪に問われることになったのでしょう。
逃げたりしない。己の至らなさが招いた結果だもの。きちんと受け止めるわ。
けれど、そうなのね。知ったら逃げる。お父様からの信頼はもう、欠片も残っていないのね。それだけのことをしたのだと、痛む胸に蓋をする。
「お父様の元へ行くわ」
せめてさよならくらい、きちんと言いたいもの。お父様はもう、わたくしの顔も見たくないかもしれないけれど。
感謝も、謝罪も、どれだけ言葉を尽くしても足りない。だからって言わなければ、わたくしは未練できっと縋ってしまう。贖罪よりも後悔で、きちんと罰を受けられない。
「駄目よ、お姉様。行かせないわ」
「嫌よ、お姉様。行かせないわ」
悲鳴のような妹達の声にも耳を貸さず、踏み出す。わたくしの腕を掴んだまま体重をかけて座り込んでしまった二人は、そのまま引きずって進む。
侍女はわたくしが強固な姿勢を見せるとは思わなかったのか、おろおろするばかりだ。せめて安心してもらおうともう一度、逃げないわ、と伝えるけれど青褪めた顔に血の気は戻らない。
しかたないので、侍女はそのままにして部屋を出る。
レイラもシェリルも、わたくしの腕から手を離さない。引きずられてドレスが傷んでしまうのもお構いなしだ。けれどわたくしも止まらない。
どれだけそうしていたか。お父様が陛下といらっしゃるでしょう応接室までもう少しというところで、嫌だ、駄目だ、という二人の声に涙が混じった。
「お願いよ、お姉様」
「行かないで、お姉様」
二人の涙に、わたくしが勝てたことはない。立ち止まる。しくしくと涙をこぼす二人はまるで幼い子どものよう。堪らず座り込む。
「泣かないでちょうだい。わたくしは大丈夫よ」
大丈夫じゃない、という声は二つ重なった。廊下に反響する。
「お姉様の大丈夫はもう信じないわ! これまで何度もそう言って、けれど大丈夫だったことなんて一度もなかったもの!」
レイラが駄々っ子のように、駄目だと首を横に振る。
「お姉様は大丈夫じゃないのよ。大丈夫じゃないから、あんなことをしたんだもの。私達もう二度と、お姉様をあんな目に遭わせないって誓ったのよ!」
シェリルが駄々っ子のように、嫌だと首を横に振る。
それは多分、わたくしが忘れてしまった何かのことを言っている。
話が途中だったと、ようやく思い至った。陛下の来訪の知らせを聞いて、自身の破滅を予見して、わたくしは思ったよりもずっと動揺していたらしい。
「ねえ、二人とも。わたくしは一体、何をしてあなた達を泣かせたの?」
妹達をこんなにもボロボロにしておいて、どうして忘れてしまえるのか。忘れてしまえるようなことではないはずなのに。けれど、どうやっても、思い出せない。
二人の口から言わせるなんて、こんなにも残酷な仕打ちをしなければならなくなるのに覚えていない。なんて薄情で、恥知らずな姉でしょう。
教えてほしい、と言葉を重ねるわたくしに、二人はただ首を振る。拒むように口を引き結んで、首を横に振る。
「ごめんなさい、どうしても思い出せないの。酷い姉だと思っているでしょうけれど、どうか教えてちょうだい」
「駄目よ。教えたらまたお姉様は繰り返すもの」
「嫌よ。前もそうだったもの。私達が教えてしまったから、お姉様は忘れてしまったの」
忘れた。二人に教えてもらったから、忘れてしまった。
こめかみの辺りが引き攣るような、目の奥が引っ張られるような、変な感覚がする。忘れた。その言葉がどうしても、引っかかる。――瞼の裏で、淡い青色が揺らめいた。
「……勿忘草」
ビクッと、レイラが肩を震わせた。シェリルの顔から血の気が引く。
「わたくしは、勿忘草を食べたのね」
重い沈黙は、肯定だった。
淡く青色の花弁を咲かせる小さな花は、愛でるだけならただの可憐な花でしかない。けれど食べると、わたくし達には猛毒だ。
私を忘れないで。
花言葉に反して、勿忘草は食べた者の記憶を奪う。程度には個人差があるものの、食べ続ければいずれ自分の名前すら思い出せなくなってしまう。
家令が慌てて持ち去るわけである。
わたくしはきっと、みんなに内緒で摘んできた。消えてしまいたい。その願いのまま、辛い記憶ごと不甲斐ない自分を消すために。
「わたくしったら、なんてことを……」
記憶の欠落の説明がこれでつく。わたくしは自分で手放した。お母さまが愛した花々が咲き誇る庭から、家族を傷つける結果を招く花を自ら摘んで。
記憶を失ったわたくしを見て、家族がどう思うか。そんなことにすら気が回らないなんて。まさか自分が、こんなにも堪え性がない人間だったなんて思わなかった。独り善がりに逃げ出して、自分だけ楽になろうとした。
レイラとシェリルは、わたくしがまた記憶を消してしまうのではないかと怯えて、こんなにも取り乱している。わたくしのせいで。わたくしなんかが姉であったばっかりに。
「ごめんなさい、……ごめんなさい」
制止は間に合わず、涙腺が決壊した。涙で歪んだ視界の端で、血相を変えた家令が駆け寄ってくるのがわかった。
「ごめんなさい、レイラ、シェリル……わたくし、」
全部は言えなかった。魔法の発動を察知して、反射的に妹達から意識を逸らす。涙が邪魔ではっきりとは見えないけれど、家令が何かしている。とっさに抵抗しようとして、気づいた。ブラフだ。
ごめんなさい。
自分の声とは違う、二つ重なった謝罪が妹達のものだと理解した瞬間、膨大な魔力が流れ込んできた。何をされたのか。考えることすらできずに、わたくしの意識は途切れた。
 




