スーパーの怪4
「お母さん、お帰り」と夕方のジョギング前の恰好をした息子が、私を迎えた。
そして、私から何を聞くでもなく、冷たくジョギングに行ってしまった。
そうよ。
何も言わなくてもわかってるやろけど、断りに行ったつもりが、昼過ぎから夕方まで働いてしまったのよ。
ああ、もうそんな自分がイヤ!
そうや、もうこうなったら、行かない、もう絶対に、あの店には行かない、と固く心に誓った。
私の記憶から、あの店を消去する。
ゲームみたいにリセットする。
そう思ったとたん、ここ三日ばかり、満足に食べていなかったことを思い出した。
冷蔵庫をガサガサとあさり、範子さんの差し入れの残りを探し出して、全部食べ尽くした。
もったいない精神でもある。
フーッと食後の一息をついてから、ビールの栓を抜いた。
この悪戦苦闘、苦難の日々にも今日で終止符が打たれると思うと、ビールの味も格別においしい気がする。
息子は中々帰っては来ず、私は早々に飲んだビールがたたったのか、息子は勝手に何か作って食べるやろ、と思って、いつもより遙かに早い時間に寝てしまった。
この日も、気功の教室の日だったが、そんなことはスッカリ忘れていた。
その日の夢は、起きてからも全然覚えていなかったけれど、何もかもがうまくいき、めでたしめでたし、という風な夢だった。
ああ、よかった、めでたしめでたし、と思って、目を覚ましたけれど、現実には何もめでたくはなかった。
息子は、朝食中も奇妙に無口で、黙ってジョギングに行ったまま、帰って来ない。
働くと言い張っていた人形も、あれ以来姿を見せない。
そもそもの張本人の、隆さんと範子さんからも、何も音沙汰がない。
以前なら、うるさいぐらいだったのに。
こんな風に、全世界から見放された感じになってしまうと、
「あ、明日も来てや。
本雇いにするから、明日も来てや」とスーパーのオーナーに言われたことばが、妙に重要性を帯びてくる。
ああ、本当に、私の全世界って、小さいものだったのね、という気分だ。
家中の清掃をすませてから、今回は、軽く食べて、また、あのスーパーに向かっている自分の行動の理由がつかめない。
今回の到着時刻は、午後1時。
5時から7時って言われてたんでしょ、と自分で自分に突っ込んでいる。
今日は、いい天気。
でも、この店は、雨の日でも曇りの日でも、晴れの日でも、店内の薄暗さは変わらないようだ。
まあ、他にすることもないし、今住んでいる家の維持管理をするついでに、このスーパーの維持管理もしてやろうか、という気になっている。
一体、いつの間に?
店に入ると、最初の時同様、誰もいなかった。
どこかで身体が慣れてしまっていて、奥に行って、エプロンをつけて、冷蔵庫の中をのぞいた。
ちょっと変色した空豆と賞味期限の切れた卵が入っているだけだ。
今回は、勝手に、両方とも茹でた。
それぐらいなら、私にだってできる。
正直に言えば、苦手な卵焼きを作れ、なんて言われる前に、茹でてやった、というところもある。
「新しい人?」という声がして、ギョッとした。
もう、この店は、オーナーといい、勤めている人といい、突然現れるから驚く。
「あ、はい。ええと、三日前からやらせていただいています」と私は、指を折って数えた。
見ると、三十前後の若い男性だ。
店の制服みたいなものを着ているから、店の人なんだろう。
「いつまで続くかな」と鼻で笑われている気がする。
本来ならムカッとするところだが、やめるつもりでいたくせに、また来てしまった私。
誰に文句を言う筋合いでもない。
「ほんまですね」と言って、ワハハハ、と笑ってしまった。
いわゆる自嘲ってヤツね。
「店長の大塚です」と相手が言い、へえ、この若さで店長か、と思うのと同時に、店長とオーナーって、どっちが偉いんだろう、と思ったりした。
「それは、オーナーですよ。
ボクなんか雇われ店長だし」
あ、そう。
あんたも、私の考えていることが読めるのね。
「いや、そんな、とんでもない」ということは、シッカリ読んでいる。
私の考えることなんて、誰にでもわかると言った、隆さんの大勝利。クソ。
「ボクは、しばらく入院してたんで、まだ顔を出す程度なんですが、よろしくお願いします」
な、何をおっしゃる店長さま。
「私の方こそ、よろしくお願いします」
「レジが苦手なようですね」
もう、あんた、レジも何も初めてのことばかりで、苦手だらけ。
「じゃあ、ちょっと」と言われて、一緒にレジに立つ。
最初の5分の講習で教えてもらえなかった、レジ打ちの極意のようなものを教えてもらったような気がする。
具体的に言えば、同じ商品が二つあった場合の打ち方とか、三つ以上の場合とか、お客さんが、レジを打った後、これはいらないと言った場合の対処の仕方とか。
「へええ。レジって、奥深いんですね」
「レジは手段ですよ。
接客の方が、もっと奥深い」
「いやあ」と私は、頭をかいた。
レジ操作だけで、悪戦苦闘している最中だったからだ。
接客なんか、まだしていない気がする。
「じゃあ、ボクは、もう戻りますので」と言われ、入院していたという話を思い出した。
きっと、新人が入ったというので、病の身をおして応援に来てくれたのかもしれない。
「今日は、本当にありがとうございました」
下げた頭を上げた時には、もう相手の姿はなかった。
料理を教えてくれた女の人同様、何て奥床しい人だろう。
私は、少し反省した。
私なら、教えてやった、来てやった、とどうしても言ってしまいそうだったからだ。
オーナーには難がありそうだが、こういう人達と一緒に仕事ができるのは、私にとって、凄くプラスかもしれない、と思い始めていた。
過去三日間同様、私が、レジに立つと、店内に徐々に人が増えて、この日は、7時まで、考えてみれば昼から6時間、仕事をしたことになる。
オーナーに文句は言わせないとばかりに、埃だらけのケース類を、暇を見つけては綺麗に清掃、商品の並べ替えやら、誰もいないので、自分が湯掻いた卵と空豆も、勝手に値段をつけて、店頭に並べた。
まあ、貧乏人の私でも買える値段だ。
もうタイムカードはどうでもいい、と思っていたけれど、来た証拠にと、帰る時間だけ押しておいた。
とにかく疲れ切っていて、帰る瞬間に、レジの横に、息子の可愛がっている日本人形の幻が見えたりした。
「お前、何でこんなところに」と危うく言ってしまうところだった。
一瞬見えた気がしただけで、その姿は消えている。
多分、あのうるさいぐらいの人形が、息子同様、最近、私に構わなくなったのが、淋しいのかもしれない。
帰ろうとしたとたん、店の前でオーナーにバッタリと出会った。
このおっさん、店を放って、一体、どこに行ってたんや!
私が悪人だったら、レジのお金を全部持って逃げてしまうぞ。
「ああ、来てたんか」
このヤロウ、「明日も来てや」と自分で言っておきながら、「ああ、来てたんか」はないやろう。
「今日は、1時から7時まで働かせていただきました」とハッキリ宣言。
「1時から7時までて、あんた……」
チッ。折角好意で働いてやったつもりだったが、無駄だったか、とつい思った。
「南さんは、来てへんかったんかいな」
「はあ?」
「はあ、て。
あんたと同じ時に、応募してきて、10時から5時まで働いてもらってる人やないか」
そんなことを言われても、私はオーナーじゃないから、知りません。
「私はね、忙しいんやで。
発注もせなアカンし、在庫も確認しとかなアカンし、人の募集もかけなアカンし、ローテーションの調整もせなアカンし、交渉にも行かなアカンし、店全部の管理をせなアカンねん」
それが、オーナーの仕事と違うんかいな、このおっさん。
「南さんは、無断欠勤か。
この間も、急に休んだとこやのに」と一人でブツブツ言っている。
「ああ、そう言うたら、今日、大塚さんていう店長さんが来てはりました。
すぐ帰らはったみたいですけど」
「……」とおっさん、もとい、オーナーは、突然、顔面をひきつらせた。
アチャー。
オーナーと店長は、仲が悪いのか……
「……そ、そうか」と顔面が蒼白になり、たらこのような唇がブルブルと震えている。
「大塚と……
な、何か、言うてたか?」
「入院してたとか」
「他には?」
「ああ、親切ないい人ですよね。
レジの打ち方を教えてくださいました」
「そうか……
大塚は、今では、もう店長やないんやけどな」
「え!」と私は、驚いた。
「それは、ひどい!」とつい言ってしまった。
「病気で入院中にクビにしたってことですか?」
いや、別に、私が怒ることでもないのだが。
「まあ、そんなとこや……」と非常に、歯切れが悪い。
「うちの店も、もうアカンかもしれへんなあ」と一人で溜め息をついている。
「近所にコンビニが二軒もできてしまったしなあ」
「そうですよねえ。
店の雰囲気も、電気も暗いですしねえ」と私も、つい同調してしまった。
「何言うてんねん。
あれ以上明るくしたら、電気代がかかってしゃーないやろ」
あんた、突然別人になってんで。
さっきまでの暗いあんたは、どこに行った。
「まあ、言うててもしゃーないから、明日も来てくれますか?」
あれ?
微妙に、オーナーの態度が変わっていない?
「あのう……」と私は、思い切って言った。
「給料のこととか、勤務時間のこととか、何も聞いてないんですけど」
「それは、また相談しましょ。
そしたら、明日も、1時に」
ええ!
1時?
「い、今までの分は?」と崖から飛び下りる気でたずねた。
「何言うてんねんな。
今日までは、研修期間。
タダでスーパーの仕事を教えてもらえて、感謝せなアカン期間やで。
考えてみ。大学行くのに、年間いくらかかる?
専門学校かてそうや。
そんなところに何年も通って、毎年毎年高い金払って、それで就職できるか言うたら、それは無理な相談や。
あんたは、就職を確保されている上で、タダで教えてもらってんのやで。
レジにしろ、接客にしろ、今までに何の経験もないあんたが、うちに就職できるんは、一体、誰のお蔭やと思ってる?」
私は、唖然として、ポカンと口を開けていた。
何という、素晴らしい、自分だけに都合のいい、経営哲学だろうか。
蛍光灯気味に、かなり時間が経った後で、私は、プチンと切れた。
「今までは、タダ働きでいいことにします。
いい勉強をさせていただきました。
けど、私は、これ以上働く気はありません。
また、求人かけて募集しはったらいいわ。
短い間ですが、お世話になりました」
私は、言うだけ言うと、プイッと背中を向けて、家路についた。
ああ、本気でムカツく。
こんな店のために、ちょっとでもがんばった自分がバカに見える。
「ちょっと、ねえ、ちょっと」と言うオーナーの声なんか、無視無視。
「ちょっと、ねえ、ちょっと」としばらくして、後から追い掛けて来た模様。
「これ、持って帰って。
賞味期限は一日過ぎてるけど、あんたにあげようと思って、冷蔵庫に大事にしまってたもんやねん」
と、去って行く私に、何やら、紙袋を押しつけている模様。
「結構です」
「まあ、持って帰って」
そこまで言うなら、ともらって帰る。