スーパーの怪3
「そうか」と息子は、慰めてもくれない。
「何で、私が、あんなスーパーでこき使われないとアカンのよー」
オーイオイオイ、と泣き上戸になってしまった。
『遅いし、とろいし、手際が悪い』という声が聞こえて、ギョッとしたはずみに、酔いが一度に冷めた。
「あんた、一体、どこに行ってたん」
見ると、息子の日本人形の足袋は真っ黒、顔や着物にまで汚れがついている。
『人形は、働く』
まさか、この人形、私の知らないうちに、あの店に来てたんやないやろな。
「春樹、何とか言うてよ」
「顔と着物は拭いたら何とかなりそうやけど、足袋は洗わなアカンなあ」と息子は、全然私の言うことを聞いていない。
私を放っておいて、何やら人形とコソコソ話している。
ほんまに仲がいいこと。
ああ、腹立つ。
この日も、ガックリ疲れて眠ってしまった。
夢の中でもブツブツ考えている。
たった2時間。
一日にたった2時間で、これだけ疲れる仕事がこの世にあったとは、これいかに。
そう考えたとたん、レジで悪戦苦闘している私を目掛けて、キャベツとキュウリ、ナスとトマトが飛んで来た。
『料理してくれー』と暴れている。
「もう順番に並びなさい」
レジには、色々な料理の名前が書いてあって、一列に並んだ野菜を見て、即座に料理の名前を打ち込まなければならない。
そういうしきたりになっているらしい。
キャベツ……お好み焼きか野菜炒めのどちらかだろう。
ええい、お好み焼きだ。
そのとたん、ピーピーピー、とレジが威嚇音を発する。
しまった、野菜炒めだったか……
『遅いし、とろいし、手際が悪い』
『遅いし、とろいし、手際が悪い』
と店中の野菜が、私目掛けて、飛んで来る……
ワアアア!! と叫んで、目が覚めた。
もう、あきません。
たった2日で、この始末。
「もう、お母さん、あの仕事、断ることに決めた」と朝食の時、息子に宣言。
「そやな。お母さんが無理やと思うんやったら、やめた方がいいね」と超クールな返事。
あのね、もうちょっと頑張ってみたら? とか、まだ二日目やんか、とか、言うことが他にないのか、この息子。
「うん、午前中に、電話して断る」
「そうか。
オレが、隆さんに話した方がいい?」
「私が話す」
「うん、わかった。
今日は、教室の打ち合わせがあるから」とまたも息子は、隆さんのところに行ってしまった。
心の中を、ピューピューと冷たい風が吹く。
初夏なのに……
私がスーパーで扱き使われるのも、息子が、こんなに冷たい人間になってしまったのも、人形オタクになってしまったのも、皆、隆さんのせいや! と関係のない隆さんを恨む始末。
まあ、とにかく、朝の早いうちに、スーパーに電話をかけて、仕事なんか断ってしまおう。
どうせ働くなら、それに、本気で探せば、もっといい仕事が、この世には山ほどあるに違いない。
と思いながら、散々不採用になった過去が、存在を主張する。
アカン、アカン、弱気になったらアカン。
店の電話番号……
と思って、愕然とした。
自分の名前や電話番号は、相手に教えたけれど、相手の店名と電話番号を、今の今まで知らなかったことを思い知る。
電話帳を持ち出してみたが、店の名前がわからないことには、どうにもならない。
ああ、私のバカバカアホ。
こうなったら仕方がない。
直接店に出向いて断ろう。
あーあ。
気が重いけど、それしか方法はない。
律儀に家の清掃をして、隆さんの教室のある水曜日なので、特別に稽古場になっている和室は丁寧に掃除する。
家を出たのは、ちょうど全部終わった11時半。
お昼前だが、断るのなら、ちょうどいいかもしれない。
家に帰って、冷蔵庫に残っている差し入れの残りを食べよう。
私は、昔から、異常なぐらいの晴れ女。
そ、それなのに、家を出た時には、晴れていた空が、歩いている間に徐々に曇りだし、途中で、ポツポツと雨まで降ってきた……
この信じられない自然現象。
ま、梅雨だから、仕方がないか……
そして、店に着いたとたん、ザアザアという雨が降り出していた。
店に着くまで、雨も我慢していたわけね。
店の軒先には、1本350円のビニール傘が並べてある……
頭の中のスーパー・コンピューターが、二日分の給料の代わりに、傘をもらって帰ろうと、勝手に計算していた。
お昼時だというのに、相変わらず、客の姿は見えない。
見えないと言えば、オーナーの姿も他の店員の姿も見えない。
雨もあって、店は、夕方二日間来た時よりも薄暗い。
けど、嘘でしょう。
外は雨。
中は蛍光灯。
薄暗いはずはないのに。
「ごめんください」と声をかけるのも鬱陶しいので、勝手に店の中を見回ることにした。
ウッ。夢の中に出てきた、キャベツ・キュウリ・トマト・ナスがある。
手に取って見ると、案外に新鮮な品だが、何となく、この薄暗さの中では、しなびて見えるのが不思議だ。
うちの一番広い和室の倍ぐらいの広さの割には、品揃えは豊富だ。
ただ、大抵の棚は汚れ放題で、商品には、うっすらと埃がたかっている。
昨日磨いたガラスケース……
あれだけ磨いたはずなのに、また元通りに汚れているように見える。
誰も触ったことのないように見える商品の数々。
しかし、賞味期限を見る限りでは、そう古い品ではない。
値段も、これほどさびれている店の割には、法外ではない。
量販店と変わらない値段や、それよりも安い値段のものもチラホラある。
周囲にコンビニが数軒あるだけの地域。
大手のスーパーは、駅前に二軒あるだけだ。
ここが、これだけさびれているのには、何か訳があるのかも、と初めて思った。
私だって、こんな近くにスーパーがあると知っていれば、範子さんではないけれど、買い物に来たに違いない。
「何やってんの。早く早く」と背後から言われて、ギョッとした。
「何回電話しても誰も出えへんから、ほんまにもう」とオーナーが、片手にエプロンを持って立っていた。
一体、どこから出て来た?
トイレ?
「あの、私は、あの……」とことばがうまく出てこない。
オーナーは、私の後ろに回ると、勝手にエプロンを着せた。
「この間から来てたバイトが急に休んで、困ってたとこや」
「いや、私は、あのその……」
「さっさと、レジに立って」
ああ、私のいうことなんて、誰も聞いていない……
訳のわからないうちに、私はレジに立ち、それを待っていたかのように、客が次々と入って来る。
もう、無我夢中。
夢に見たキャベツ・キュウリ・トマト・ナスが、次々にレジを通過。
幸いなことに、レジには、夢の時のように、料理の名前はなかった。
ハッと気がつくと、3時を回っていた。
「後は、5時まで、奥の冷蔵庫に入っているもんで、料理を作って」
えええ!
「私がレジしとくから、適当に作って」
えええ!
奥に入ると、小さな鍋と小さなフライパン、電磁調理器と大きなプラスチック製のまないたがあった。
冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れた豚肉・牛肉・丸天にうどん、少ししなびた野菜類が入っている。
これをどうせえて言うのよ!
言いたくないけど、私は、料理はあんまり得意じゃない。
得意じゃないと言うよりも、作りたくない、こんなところで。
何やらカサカサという音がするので、音の方を見ると……
ワアア、ごきぶりの子供達が我が物顔に調理台の上を歩き回っている。
ボトッと何かが、私の剥き出しの腕の上に落ちて来た。
ギャアア、ごきぶりの親玉だ!
サササと走って、親玉は姿を消した。
恐々と天井を見ると、あちこちで、触覚を震わせているごきぶりの姿が見えた。
わあ、もうイヤ!
もう、帰る。
仕事なんて、どうでもいい!
その時、「まず、野菜炒めを作りましょうか」という落ち着いた声が聞こえてきた。
声の方を見ると、どこか影の薄い女の人が、私と同じエプロンをつけて立っている。
「ああ、もう一人いてはったんですね」と私は、心の底から感激した。
こんな場所に、一人きりでいるのは、絶対にイヤ!
「私は、教えることしかできないんですが」と言われて、よくよく顔を見ると、細面の美人だ。
年の頃なら、三十一か二?
「いやもう、それだけで、すっごい助かります」と私は言った。
自慢ではないが、カレーを作る時でも、作り方と分量を見て作る私だ。
「豚肉を三等分に切って」
私は、豚肉を三等分に切った。
「プレヒーティングしておきます」
プ、プレヒーティング?
何かわからないけど、そのまま置いておいた。
「人参とタマネギとキャベツを切ります。人参は……」
とにかく言われた通りに切って、炒めて、味付けをした。
フー。
野菜炒めは、いっちょう上がり。
やれば出来るんや。
「牛肉は、細切れだから、肉ジャガを作りましょう」
「はい」とこれまた言われた通りにして、肉ジャガ上がり。
後は、いんげんと丸天の炒め煮と、野菜炒めを利用した焼きうどんを作り、とうもろこしを蒸して、空豆を湯掻いた。
一日で、これだけの料理を作ったのは、生まれて初めて。
「ありがとうございます。
お蔭で何とかできました」と教えてくれた女の人の手を握ろうとしたけれど、女の人はスッと手を引っ込めた。
「ごめんなさい。
気を悪くしないでくださいね。
私、手を傷めているもので」と右手で左手首をかばっている様子。
「ああ」と私は言った。
そんなこととは知らずに、悪いことをしてしまった。
「私の方こそ、何も知らずにすみません。
あのう、これからも、色々教えてください。
どうも、料理ってのは、あんまり得意じゃないもんで」
と一人で頭をかいているうちに、女の人の姿は消えていた。
奥床しい人だな、と私は思った。
私が反対の立場なら、私のお蔭でできたのよ、とか言ってしまうかもしれない。
世の中には、立派な人もいるものだ、と思っている最中に、オーナーが顔を出した。
「まだか?」
「ああ、一応、材料は、全部使いましたけど」
「え、ほんま?」
『まだか?』と聞きながら、『え、ほんま?』とは、これいかに。
「あ、ほんまや」
このおっさん、どっか変じゃないか、と改めて思った瞬間だった。
「レジに立って。レジに」と言われて、レジに立つ。
前二日同様、なぜか、私がレジに立ったとたん、それを待っていたかのように、客が並ぶ。
少しレジに慣れたせいかもしれないけれど、並んでいる客が、私をジロジロ見ているような気がする。
そのうちに、何となく、めまいがしてきた。
食事もせずに、ビールばっかり飲んでいた後遺症?
レジに並んでいる客のうち、三人に一人が、目のせいか、ボウッと霞んで見える。
ああ、もう、これはあかん。
時計を見て、午後7時に、「もう、これ以上あきません。私、帰ります」と、私は、ようやく顔を会わせたオーナーに言った。
そして、エプロンを脱いで、夢遊病のように、タイムカードを押した。
フラフラと帰ろうとする私の背後から、オーナーが言った。
「あ、明日も来てや」と。
「今日は、掃除できなくてすみません」と私も言ってしまった。
「本雇いにするから、明日も来てや」
その声を背後に受けながら、ええ! もしかすると、今日までタダ働きやったん?
と思ってしまった私だった。