スーパーの怪1
ここか、と私は思った。
自分の家の近所に、こんなスーパーがあるとは知らなかった。
元城下町だったせいか、道路は入り組んでいて、一つ筋を間違えると、とんでもないところに出てしまう町だ。
まだ初夏の4時過ぎなのに、何となく、店が全体に薄暗い。
客のいる気配も、店主のいる気配もない。
「ごめんください」と私は、仕方無く言った。
「春子、ちょっと行って、手伝ってやれ」と教室の終わった後で、隆さんが言った。
隆さんは、私の住んでいる家の家主。
週に三回は、家の中の一番広い和室で気功を教えている。
年齢は、私よりも六才は年上のくせに、私よりも二十才は若く見える。
あんまり悔しいので、私も気功を習おうか、と思ったことも、一度や二度ではない。
が、元々いばり屋の隆さんに習うのは、また、隆さんの弟子になるのは、自分のプライド(?)が許さない気がする。
「何言うてるんですか。
ちょっと行って手伝ってやれて言うたって、私、スーパーでなんか働いたこと、ありませんよ」
「急に人がやめて困っている、と範子が言っていた。
猫の手でも借りたいみたいだ」
……私は、猫の手か……
範子というのは、隆さんの妹さんで、私の飲み友達。
隆さん同様、この家の家主でもある。
「猫の手でもいいんやったら、範子さんか隆さんが手伝ってあげたらいいやないですか」
「範子は習い事の時間と重なっているし、オレは、教室と重なる」
何を偉そうに、と私は思った。
「教室は、週に三回やねんから、それ以外の日に行けばいいやないですか」
「ところが、頼まれて、それ以外の日もコミュニティ・センターで教えることになった」
フーン。
ということは、隆さんも、一度は、スーパーで働こうと思ったわけか、と思うと、急に可笑しくなった。
レジを打っている隆さんを想像すると、可笑しくてたまらない。
似合わない。
絶対確実に似合わない。
偉そうな顔をしながら、きっと打ち間違えて、慌てるに違いない。
アッハッハッハ、と笑おうとしたとたんに、隆さんに、頭をゴンと殴られた。
「な、何するんですか!」
本当に乱暴な男だ。
「詰まらない妄想で、人を笑い物にするな」
「もう、勝手に、人の考えてることを盗み読みしないでください」
そうなのだ。
隆さんは、読心術もできるのだ。
「お前の考えることぐらい、誰にでもわかる。
ザアザアとザルみたいに思考が流れ出している」
「し、失礼なこと、言わんといてください」
しかし、隆さんの弟子である、自分の息子にも、私の考えは読まれっぱなしだ。
そんなに締まりのない、思考形態なのだろうか……
どうも、毎度毎度言われていると、そうではないか、と思ってしまうのが怖い。
「きちんと給料ももらえるし、毎日、食って寝てばかりだと、完全に豚になるぞ」
「ほ、ほっといてください」
この野郎、私の一番痛いところを……
しかし、『きちんと給料ももらえる』というフレーズは、しばらくの間、私の頭の周りを、ブンブン言いながら飛んでいた。
私は、元失業中だった、ド貧民。
今住んでいる家と隆さんの教室の維持管理という名目で、生きていくのに必要最低限の給料はもらっている。
けれど、それって、金持ちのお情けみたいな気がしないでもない今日この頃、心の奥の方で、自尊心が悲鳴をあげていた。
よし、働いて、お金を稼ごう、と私は思った。
「いい心がけだ」と隆さんが言った。
もう、ほんまに、人の考えを勝手に読まないでちょうだい。
「お前なら、絶対に大丈夫だ。
範子に地図を書いてもらえ」
一体、何が絶対に大丈夫なのか……私は帰って行く隆さんの背中を茫然として見送っていた。
とその時、『人形も行く』という声が聞こえたので、ギョッとした。
あーあ、また、ややこしいのが出て来た。
息子の可愛がっている美形の日本人形だ。
最近では、空中浮遊に加えて、人形版瞬間移動まで習得してしまった模様。
もう少し言えば、この人形にも、私の思考は読まれている……
「あのね」と私は、子供に言うように言った。
「私は、遊びに行くのと違うのよ。
働きに行くの」
『人形も働く』
あんたは、別に、身体を動かさんでも、太ったりせえへんでしょ、人形なんやから。
『人形も働く』
別に働かなくても。
食べていかないといけないわけやなし。
『人形も働く』
ダア。わからん人形やな。
ま、人形やから、仕方がないか。
「あのね、あんたにレジが打てる?」と私は、人形に対して、大人気ないことを言った。
『レジはわからない』
「そうでしょう」と人形相手に、どこかで勝ち誇ってしまう自分が嫌い。
「お客さんに、『いらっしゃいませ』とか言える?」
『言える』
「言えても、お客さんには、聞こえないでしょ?」
そうなのだ。
人形の話すことばを聞ける人間なんて、隆さんと息子ぐらいのものだ。
最近では、私も仲間入りしてしまったが……
『人形は言える』
「お金の計算とかもしないといけないけど、できないでしょう?」
『お金はわからない』
「ね、そうでしょ?
働くのは人間でないといけないの」
『人形も働く』
「もう!
どうやって!」
『人形は綺麗』
もう、ほんまに、それがスーパーの仕事と、どういう関係があるのよ!
『春子ちゃんより綺麗』
ダア。
ムカツく人形やな。
「もう、勝手にしなさい!」
人形とのやりとりで、何となく、実際に仕事をする前に疲れ切ってしまった。
「お母さん、隆さんに聞いたけど、仕事が見つかったんやて? よかったなあ」と隆さんに言われた通り、毎日の日課になっている、午後のジョギングを終えた息子登場。
もう私は、1ヵ月ぐらい働き通しに働いた後のように疲れていた。
「別に仕事を探してたわけやないのよ。頼まれたから仕方無く行くだけ」と言いながら、何となく口調が弁解モードに入っている。
「けど、オレ、お母さんが働くの、悪いことやないと思うけど」
「まあ……ね」
この家の留守番の仕事が見つかるまで、実に三十カ所で、仕事を断られてしまった、五十才(当時、四十九才)の私だった。
まあ……いいか。
当初に比べれば、息子も随分とたくましくなり、今では、隆さんの教室で助手を勤めているらしい。
隆さんの忙しい時には、その代理みたいなものもするようになっていた。
まあ、いい時期か、と私は思った。
数日後、範子さんの書いてくれた、あまりあてにならない地図を頼りに、迷いに迷いながら、目的のスーパーに辿り着いた。
時刻は、午後四時少し過ぎ。
「ごめんください」
声が小さかったせいか、誰も出て来ない。
「ごめんください」
スーパーで、『ごめんください』やて、アホみたい、と自分で自分に突っ込んで、余計に恥ずかしくなった。
「ごめんください」と大きな声を張り上げたとたん、「はいはい」と言う声がした。
「いらっしゃいませ」とニコニコ言われて、つい、周囲の商品を物色してしまう。
いやいや。
買い物に来たわけではない。
奥から出て来たのは、年の頃なら、五十前ぐらいの、でっぶりと太ったおじさんだった。
「いや、あの、買い物に来たわけと違って、あのその、ここで、人手が足りないから、手伝ってやれと言われて……」と何となく、しどろもどろになってしまった。
「ああ、求人に応募ですか。
履歴書を拝見しましょうか」とおじさんの態度はガラリと変わる。
え! と私は、内心パニック状態になった。
猫の手も借りたいというので手伝いに来てやった、と思っていた心は、早くもくじけ、しまった、履歴書なら、以前三十一通書いた残りがあったのに……と悔やんでいた。
「あの……知り合いに言われて来たもので……」
「履歴書も持たんでねえ……
で、そのお知り合いというのは?」
「ええと、あのその……」
どっちの名前を出した方がいいか、ええい、賭だ。
「……佐藤範子さんの」