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暗青色の海

作者: 人楽愛一

 暗青色の海


 夢を見ているのだろうと思った。

 目を覚ました時に僕の目の前に広がったのは透き通った暗青色あんせいしょくだった。

 しばらくあたりを見渡し、自分が地に足をつけていないことを知った。足がつかないことで不安定な気持ちに襲われたが、落ち着いた青は僕の心を鎮めた。

 足はなおも地面を求めたが、僕は足の動向に気を配るのをやめた。

 そんなことよりここはどこなんだ。僕は手を足をひたすらに動かして何かを知り得ることを望んだ。

 空に浮かんでいるのだろうか。不意に湧き上がったその考えは今のこの状況に照らし合わせて最もらしい結論に思えた。僕は今、夜になろうとする空の中でもがいているんじゃないか。その考えが確信に至ろうとした時、この考えが違うことを悟った。

 ひらひらと蝶のように動く手に抵抗を感じた。徐々に感覚が自分の元へと戻ってきたのだ。何度も頻繁に手を動かしようやくのこと気づく。これは水の流れだ。水が僕を包んでいる。そこまで考えを進めることができれば後は簡単だ。つまりは僕は海の中にいた。

 海の中それもこの暗さだ、だいぶ底のほうだと思う。舌をデロっと出してみればほのかに塩味がした。それを意識した途端に、目が痛くてたまらなくなった。しみるしみる。

 僕は目をつむったり、必死に手でゴシゴシと目をこすり、そんなことをやっていたらじきに慣れた。目を薄めに開け、やがて大きく目を見開く。海中になれた目は今や潜望鏡のように遠くを映し出した。奇妙な形をした魚たちがうごうごとうごめくのが見え、不気味に体をくねらせた海藻が海底から突き出ていた。近くにチョウチンアンコウが通るのが見えたので、近づいていっておどかしてみた。チョウチンアンコウの体をなでると彼は誘引突起から発光液をほとばしらせた。僕は力強く眩しい光に目を細めた。そのすきに彼はもうどこかへと行ってしまった。

 光がいなくなってしまって悲しくなった。世界はまた元の暗闇に戻り、青色はさらに深いものとなった。

 海底に足をつき、さらさらの足の感触が心地よかった。やることもないので海底を自分の足でぶらつく。行き先も目的地もない、ただ歩く。海底はグロテスクな見た目をした生き物たちや得体のしれないゴミばかりだったが、退屈することはなかった。

 それらすべてが僕には新鮮に思えた。しばらく歩くと多くの砂埃が立っている場所があった。気になって近づいてみる。砂埃の前まできて、少しためらいがあったが中に入った。

 砂埃の中に一歩足を踏み入れると一瞬で視界を奪われる。目に砂が入り開けていることさえもままならない。一歩二歩と進むごとに心臓の高鳴りが感じられる。この先に何があるのだろうか。中心にはすぐたどり着いた。だが、そこに何があったのか。いや、いたのかすぐには理解できなかった。

 人がいた。それもとても古そうな青い軍服を着た人間だ。彼はあごに豊かなひげをたくわえ、肩に紐を通して銃をかついでいた。彼は両手でしっかりとシャベルを握っている。 シャベルで砂を掘り返しては、その掘った場所に柔らかな砂が流入していく。彼はその場所をまた掘るがやはり何度やっても結果は同じ。掘った周りの砂が崩れて穴はすぐに塞がってしまう。これではいつまでやっていても状態が変わることはないだろう。無限地獄にも思えるその作業を、彼はただ無音の表情で黙々と続ける。

 それは彼にとって仕事なのかもしれなかった。

「こんなとこで何をしているのですか?」

 僕は聞く。

「見てわからないのか? 穴を掘っている」

 男は流暢なフランス語で話したが、なぜだか僕にはその意味を正確に理解することができた。きっと、この深海の水の中では自分たちの考えていることなど一瞬のうちに共有されてしまうのだろう。

「なんで穴を掘っているの?」

「これは塹壕ざんごうだよ。敵から身を守るために塹壕を掘っている」

「でも、さっきから延々と繰り返してるその作業、一向に進んでいないですよね。果たして意味があるんでしょうか」

「意味があるかだって?」

 そこで男は大変おかしそうに笑った。「人生に意味がないように、俺の行動にも全く意味なんてないんだ。お前はそんなこともわからずに今まで生きてきたのか」

 男の笑い声はどんどんと大きくなっていく。この地球の底で、彼の声は何重にも反響していく。声は遠ざかり、また彼の口から新しい声が生み出される。それはこの地球という星で永遠とも思われる程に長く続く潮の満ち引きに似ていた。

 彼は言う。

「どんな行いもやらなければ全く進むことはない。だけど、やり続ければ少しは進む。どれだけ進みが悪くとも、塹壕を掘らなければ塹壕を作ることはできない」

 男はそんなこともわからないのかとでも言うようにフンッと鼻で笑った。

「塹壕を掘って誰から身を守るんですか?」

「敵からだ」

「敵とは?」

「……この世の無意味さだ」

 僕は彼の話に何と言葉を繋げればいいのかわからなかった。この世の無意味さ? 何だそれは。もしかしてこいつは狂人なのではないか?

「狂っている」

「お前がか」

「軍人さんがです」

 青い軍服を着たフランス語を流暢に喋る彼は、やっぱり笑った。笑わないと生きてはいけないらしい。

 彼は一通り笑ったあと初めて塹壕を掘るのをやめて僕のほうを向いた。そうして、また笑った。そうして笑い尽くした後に、彼は言う。

「お前はここにいてはいけないよ坊や。坊やが眠る場所はこんな暗くて、怖い水の中じゃないんだ。君が生きる場所はこんな場所ではなくて、もっと遠くの陸の上だ。お前にふさわしいのは幻想の意味にとりつかれたあの陸の上だけだ。この無意味な深海にお前の脳はふさわしくない。さあ、帰れ」

 フランス軍人はシャベルを僕のほうに向けて構えた。僕は二歩三歩と後ろに後ずさった。彼はシャベルを大上段に構え僕のほうに大声で迫ってきた。

「敵って何ですか!」

「この世の無意味さだ!!」

 突如強大な水流が僕たちを襲った。僕は水流に流されないようにすぐに身を縮こまらせた。だが、彼は僕を襲うのに必死で横腹に思い切り水流がぶつかった。彼は衝撃でシャベルを手からこぼれ落として遠くに飛ばされた。だが、彼は依然として闘志を燃やし続けている。派手に吹き飛ばされはしたがここは水の中、衝撃は少なかった。一歩また一歩と彼は落としたシャベルのほうに歩いていく。僕は彼よりも早くそのシャベルを取らなければ命はないと思ったが、僕の体は恐怖のあまり動かなかった。体が震えるばかりで動いてはくれない。自分の意思とは無関係に体が小刻みに震え続ける。彼はシャベルを取り戻し、ニヤリと笑いながら僕の方を見たが、そこで彼の表情は大きく変わった。

 大きな穴が空いていた。僕と彼の間にちょうど人が入ることができそうな大きな穴がポッカリと。水流によって海底がえぐられたのだ。彼は僕と穴を交互に見つめしばらく思案した後、二三歩助走をし大きくジャンプして穴の上を飛び越え僕の目の前に降り立った。

 僕は覚悟を決め目をつむったがしばらくしても何も起きることはなかった。僕は恐る恐る目を開けた。すると僕の目の前にはシャベルとそれを握るゴツゴツとした男の指があった。

「持て」

 僕はフランス軍人の顔を見た。豊かなひげ、角張った頬、静謐な目、力強く太い眉、そして何より印象的な青い軍服と帽子。その青は深海の深い青よりもずっと明るく輝いて見えた。この深海のどこに光源があるというのだろう? 彼の周りには淡く丸い小さな光たちが集まっていた。僕は目を凝らしてそれらをよく見た。

 チョウチンアンコウだ! 彼の周りに集まる光の正体はチョウチンアンコウの誘引突起から放たれる発光液だった。僕も彼も、その光の眩しさに目を細めた。

 僕は彼の目をじっと見て、彼もまた僕の目の奥を覗いていた。

 僕は彼の手からシャベルを手に取った。彼は満足気にうなずいて後ろに振り向き歩いていく。穴の前に立ち大きく深呼吸をして肺の中にたっぷりと新鮮な水と空気を吸い込んだ。

 そして一息に穴の中に飛び込んだ。僕はそれを当然の光景として受け入れていた。これが最も自然な事実なんだ。僕は穴に近づいていた。穴を覗き込むとフランス軍人は上を見上げていた。だが、もう彼と視線が合うことはなかった。彼はただ真上の、遠く遠くにある空を見つめているようだった。僕も上を見上げたが、そこには暗く大質量な水の塊といくつかの不気味な魚が泳ぐだけだった。

 また水流が強くなりはじめ、多くの砂が穴の中へと流れ込んでいく。

「埋めてくれ」

 僕はそれを聞いて刹那の迷いが生じた。彼はその言葉を僕に向けて放ったのかもしれないし、今彼の元へと砂を送り続けている水流に向かって言ったのかもしれなかった。

 だけど、僕は彼からシャベルを託された意味を考え、彼の塹壕の上に砂をかけた。

 このまま僕が手を出さなかったら、彼はただ大きな穴に飲み込まれた哀れなチョウチンアンコウだ。だけども彼は塹壕の中で死ぬことを望んだ。大きな穴は人の意思が加わることによって初めて塹壕になるんだ。

 彼の膝丈まで砂を入れたとき水流が僕たちを襲う。塹壕の中に大量の砂が流入し、あっという間に隙間を埋めていく。彼の口が埋まる直前に僕は聞いた。

「敵って何ですか?」

「この世の無意味さだ」

 もう全ては埋まってしまった。彼の掘った塹壕を僕は完全に埋めたのだ。

 全ては水流によって均一にならされ、どこに塹壕があったかもわからないほどだ。

 だけど僕は彼がどこにいたかを知っている。

 僕は自分の目の前にシャベルを深く刺した。これが彼の墓標。これもきっとすぐに水流に流されてしまうのだろう。

 だけども、僕は彼がどこにいたかを知っている。

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