結婚の約束は破ったり棄てたりしない
その横断歩道は、もう何度目かの青信号に変わった。拓人は通路の端でずっと、信号待ちの車の列を見ている。
「まだ怒ってるの?」
美咲はおずおずと、唇を引き結んだ険しい表情の拓人に問いかける。
「怒ってない」
そう返す拓人の言葉は、過去の激しい驚きと憤りを経て些かの疲労感を否めなかった。
美咲は悲しくなる。以前の拓人は無条件に明るくて、いつも笑わせてくれた。彼の周りには多くの人が集まり毎日が夢のように幸せだった。
でももう彼は誰にも会わない。誰の云うことも聞かない。頑なに全てを拒絶した。
そしてそうさせたのは他でもない美咲自身だった。
「ごめんね。ごめんなさい」
どうしたらいいのかわからず、美咲はそう呟く事しかできなかった。
「謝んなくていい」
拓人もまた困惑していた。愛する美咲をこんな風に悲しませたい訳じゃないのだ。ただ、どうにも納得がいかなかった。
信号の色が変わって、立ち尽くす拓人の目の前をトラックが轟音と共に通り過ぎた。工場地帯に続くこの幹線道路は、一日中ひっきりなしに大型車が往来する。
「謝んなくてもいい。だから……だから婚約は破棄しない」
美咲は泣きたくなる。長い長い片思い。そして拓人は美咲を見つけだし、選んでくれた。将来も誓い合った。
でも。
「結婚はできないの」
絞り出すような美咲のその言葉を、拓人は憮然として聞く。拓人が拒絶する限り、この話は永遠に平行線のままだ。
「もう、やめよう。それより美咲、腹、減ってる? いくら好物でも流石にケーキはもう飽きた?」
暗い空気を打ち消すように、一転、拓人は意識して陽気な声を出した。美咲の大好きだったケーキを、あの日からもう何十個、拓人は買ってきた事だろう。
「そうだね。もう一生分食べたかな。食べ物も飲み物も十分だよ」
美咲も努めて明るい声を出す。せめて今この瞬間だけでも、昔のような楽しい時間にしたかった。
「そう思って今日は花にした。俺ってすごい?」
拓人は提げていた大きな紙袋から、サンザシの花束を取り出した。すでに沢山のお菓子やジュースや花の手向けられた道路の片隅に、また一つ綺麗な花束が加わる。
「ありがとう」
美咲は泣き笑いで、そう大好きな拓人の耳に囁いた。
拓人は後ろ髪を引かれる思いで、今日もこの場を後にする。
また来てねとは云えない。
もう来ないでとも云えない。
ガードレールの傍の白い花びらが、いつまでも静かに揺れていた。
〈了〉
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