二人目 十女、月明院
お待ちしていましたですの。
え? 何もない空間へ拳を突き出していた?
気にすることないですの。ちょっとした浄化ですの。
そんなことより喉が渇いてないですの? お茶を用意させましたからどうぞですの。
…ああ、作法とかは気にしなくても大丈夫ですの。お茶はお茶でも抹茶ではなく緑茶ですの。緑茶の原料は抹茶と同じ茶葉ですけど、製法が少し違いますの。
これは兄上様が誰でも気軽に飲めるように、と広めたお茶ですの。
既に民間にも流通し始めているようですし、貴方も近いうち家で飲むことが出来ますの。
さて、兄上様のお話を致しますの。
兄上様はお馬鹿な方ですの。
…先程聞いた話と違う?
縁は兄上様に憧れていますの。わたくしとは見方が違うですの。
ならば。
貴方、単騎でこの岐阜城から越後まで行こうと思いますの?
織田家の直系ですの。
兄上様は自分は後継でないからと仰いますが、織田家の切札・鬼の子・奇才などと呼ばれる超重要人物ですの。
街中を歩くのだって護衛が何十人と着きますの。
そんな方が普通お供も連れず! たった一人で! 国を跨いで駆けますのよ!?
有り得ないですの。本当に兄上様はお馬鹿な方ですの。
…そんな危険なことをしてまで何をしに行った、ですの?
兄上様がお馬鹿たる所以ですの。
越中にいる冬姉様にお会いに行くついでに、越後の友人にも会っていこうと思い立っただけですの。
ただそれだけの理由で、兄上様はふらりと旅立ちますの。
これがちょっとした旅行だなんて認めないですの。
…………鬱陶しいですの。
貴方に言ったのではないですの。少し、席を立ちますの。しばらくそこを動かないでくださいですの。
人の部屋をうろうろと邪魔ですの。
大人しく…、成仏しろですの!!!!!
ふぅ、突然失礼しましたの。
それでですの、兄上様は……え? 先程の?
気にすることないですの。ただの浄化ですの。
入ってきた時も思ったけど浄化ってなに!?…と言われましても、言葉のままですの。
浄化(物理)ですの。
兄上様がお出掛けされると、霊が近寄ってきて困っちゃいますの。殴っても殴ってもきりがないですの。
…そんなに怯えてどうしましたですの?
おばけが怖い? ふふふ、大丈夫ですの。
部屋にはいませんの、今のところ。
霊関係でしたら兄上様も凄いと言えなくもないですの。
兄上様は全く視えず聞こえず触れずな零感ですけれど、兄上様がそこに存在すれば一帯全て消滅しますの。
…そうですの。兄上様が寝て起きて歩いて笑っていれば、霊は消えますの。
たまにお坊様や霊能力の方が目を剥いて兄上様を視ていらっしゃいますの。
体質なのか能力なのかは分かりませんが、便利な力ですの。
前にお忍びで兄上様と城下を散策していた時、悪霊に取り憑かれた町人が人を襲っていたことがありますの。
護衛が止める間もなく兄上様は町人に向かって走り出し、その気配に気づいた町人が兄上様を視界に入れた瞬間、動きを止めましたの。
兄上様は町人へ微笑むと「やあ」と握手をしましたの。
そして悪霊は浄化され、町人は解放されましたの。
え? 話が飛んだ?
飛んでないですの。これが全てですの。
兄上様に触られて霊が無事でいられる筈がないですの。
それにしても貴方、わたくしが嘘をついているとは思わないですの?
霊視なんて非現実的ですの。わたくし視えていなかったら、絶対信じておりませんの。
……兄上様もすぐに信じてくださいましたの。気が触れたと言われる覚悟でしたのに。
「そうか、月の世界は賑やかだなぁ」
「賑やかどころではありませんの。気持ち悪いものばかりですの」
「そこで怖いって言わないのが月らしいなぁ」
「怖がれば霊の思うつぼですの。負けた気がしますの。それは癪ですの!」
「はははは、そうかぁ」
そう笑ってばかりでしたから、本気にされてないのだと思えば翌日に。
「月」
「兄上様?」
「とびきり可愛くて強い私の自慢の妹に、贈り物だよ」
どう手に入れたのか矢鱈眩く光り輝いている御守りを贈ってくださいましたの。
御守りは小さいですが結界を常時発動しますの。しかも御守りを握って殴れば、浄化出来ると気が付いた時は本当に驚きましたの。
うじゃうじゃ蔓延って邪魔で迷惑でしかない霊をこんな呆気なく倒せるなんてと。
生まれてこの方ずっと視えていた気持ち悪いものを排除できた喜びといったらなかったですの。
「兄上様! 聞いて下さいですの! この御守りで霊を殴ると浄化できましたの!」
「おお、月は凄いなぁ。役に立っているようで何よりだよ」
喜びのまま報告をすると、兄上様は笑顔でわたくしの頭を撫でてこう言われましたの。
「月曰く私が居れば霊を浄化出来るのだから、ずっと一緒に居てあげたい……むしろ居たいけど、そうはいかない時もあるからね」
「ずっと一緒は流石に嫌ですの」
「月は照れ屋さんだなぁ。…だから、月には『攻撃は最大の防御』という言葉を贈ろう」
こうして護身術に空手も加わりましたの。
兄上様の護身授業では、柔道、合気道、武器術が必修科目ですの。
刀や薙刀、弓、投擲具などの武器を一通り触り、その中で一番自分に合ったものを極めますの。
授業内容は殿方も女子も同じですの。縁とはよく一緒に組手をしますの。
はしたないと言われる方もおりますが、兄上様は常々仰いますの。
「危機が迫ったいざという時、真に頼れるのは己のみだよ」
護衛がいるからと油断も過信も慢心もしてはいけない。絶対などこの世に存在しないから、と。
「私はお前たちが死んだらとても悲しい。だから、厳しく鍛えるよ」
その結果と言えましょうの。
三の姉様…秀子姉様は馬上から弓を百発百中射られますのよ。兄上様がのびのびと秀子姉様にやりたい事をさせ、才を伸ばした結果ですの。
逸話として、結納初日に旦那様へ弓勝負を申し込み見事勝利。旦那様に自分の武術稽古や軍議の参加を認めさせましたの。
秀子姉様は活発な方でいらっしゃいますの。ええ。
あら? 話が逸れましたの。失礼しましたの。
とまぁ、兄上様直伝の拳と御守りがあれば、生まれたての邪神程度なら浄化出来ますの。
…話を聞くに兄上様は賢そう?
まぁ! きちんと話聞いてなかったですの?
兄上様はお馬鹿な方ですの!
でなければ、あのようなことを仰ったりしませんの。
「月は今まで誰にも、霊が視えると言ったことがないだろう?」
御守りをお渡し下さった時、兄上様がそう言いましたの。
「当然ですの。そんなことを言えば奇病だ何だと騒がれて幽閉されるのが落ちですの」
「月は冷静だなぁ」
霊とは人ですの。
現世に未練を持ち、死を理解できず彷徨う哀れな魂。
未練とは、大体が負の感情からくるもので。
とてもとても、醜悪極まりますの。
人とは魂になっても不潔なイキモノなのだと、悟ったのは齢三つの頃。
「月の懸念通りだと思うよ。世の中は多数が常識だしね」
「知っていますの、だから…」
「でもね、私は寂しかったよ」
いつだって穏やかで笑顔な兄上様の、初めて見る曇った表情。
「私に一番に教えてくれたのは嬉しいが、五年もおまえが苦しんでいたことを知らないままでいたなんて。寂しかったし、…自分が不甲斐なかった」
ほら、やはり兄上様はお馬鹿な方ですの。
人間に悲観して幻滅して絶望して。
それでもわたくしが世を儚まないのは、兄上様がいらっしゃったからだと、知らないですの。
わたくしが何かに魘されていたことや、原因を教える気がなかったことは、ご存知だったくせに。
何も言わず見守って下さって、ひたすらに愛情を伝えて下さって、ようやくわたくしは話す決心がつきましたの。
それなのに、不甲斐ないなどと。
本当、お馬鹿な方!
っと、いらっしゃいですの。
いま客人がいますの、待っててもらっても良いですの? ありがとうですの。
…顔が青いですけど、どうしましたの?
何もない空間に話しかけるから……あぁ。
こちらはわたくしの友人ですの。怖がる必要はないですの!
えっ、だ、大丈夫ですのっ!?
・月明院
織田信長の二十一人目の子。
生年生母ともに不明。
月明院は法名であり、名は不詳。
徳大寺実久の継室。
1608年、死去。
サブタイトル『二話目で世界観ぶっ壊しスタイル』