一人目 末っ子、長次
おお! 待ってたぞ!
おぬしが兄上のことを知りたいという者だな!
ふっふっふ、先程夜食の支度もするよう申し付けた。心配はいらぬぞ。
…何故夜食?だと?
兄上についての話が聞きたいんだろう? 今からでは全く時間が足りぬぞ?
夕食の時間までで結構!? 馬鹿な、一割も話せないではないか!
まぁ、よい。後日じっくり聞かせてやる。有難く思え。
兄上はおぬしも知っての通り………なに? 本当に全く知らない?
…一体どこの山奥に住んでいたんだ。信じられぬ。
いやしかし知らぬなら致し方ないな! 俺が教えてやろう!
声が弾んでいる? 気のせいだ。
兄上はな、何でも出来る完璧超人な凄いお方だ。
まず賢い!
戦術は勿論、政も得意だ。信忠兄上もぞっとするほど得意だが、兄上の教えらしいからな。つまり兄上が凄いということだ!
医学や薬学についても博識だ。医者でないのに人体の仕組みや西洋医学の基礎を、日ノ本の医者に教えておられる。俺が生まれる前は医者なぞ胡散臭い者の類いとして扱われていたらしいぞ。病にかかれば祈祷師を呼んでいたのだと。有り得ぬよな。
農工業にもお詳しいのだぞ! この数十年で飛躍的に生産率が跳ね上がったのは兄上のお陰だと信忠兄上が言っていた。…あ、これ秘密なんだった。兄上はけんきょだから功績に繋がるものは全部父上の手柄ってことにしておられるのだ。だから誰にも言うでないぞ!
次に見目が良い!
兄上は男の俺から見ても男前だ。身体は締まっているし、今でも各国の姫君から縁談が舞い込んできているのを見るぞ。あと声が良いと姉上たちや侍女らが騒いでおった。
他にも色々あるが、何と言っても!
兄上はお優しいのだ!!!
体術や剣術の稽古を頑張れば必ず褒めてくれるし、手製の菓子をくれるし、俺の話を笑顔で聞いてくれるし、本も読んでくれる!
兄上の本は面白いんだぞ。
主人公が民を困らせている悪者を捕らえて生涯強制重労働の刑に処す話が一番面白くて好きだ!
悪いことしたら自分に返ってくる。兄上がいんがほーおーと仰っていた。
だから俺も自分がされたら嫌なことはしない!と兄上に宣言したら頭を撫でてぎゅうってしてくださった。へへ。
二十八も離れているせいか、兄上は俺に甘い気がするな。
…む? うむ、正直兄上の子でも問題ない年の差だ。年上の甥もいるぞ。余り深く訊いてくれるな。
他所でこの年の差だと、名前しか知らなかったり顔見知り程度で交流は余りないそうだ。
初めてそれを聞いた時は本当に驚いた。
兄上はいつだって会いに来てくれるぞ?
今は同じ城に住んでいるが、俺がこの城に移ったのは五歳の時だ。
それまでは父上が築いた安土城におったのだが、兄上が一緒に住もうと仰ってくださってな。
物心ついた時から遊んでくれて教えを授けてくれる優しい大好きな兄上とずっと居たかったので、俺はこちらに移り住んだのだ!
月も一緒だぞ。
…ああ、月というのは俺の姉だが数ヶ月だけだ! 生まれ年は同じぞ、あやつなぞ姉とは呼ばぬ!
とまあ、そのような経緯で俺はここに居る。
む? いいや違うぞ?
城の主は兄上でなく、信忠兄上だ。
兄上は信忠兄上の家臣であられるからな。兄上自身は城を持っていらっしゃらない。
父上や信忠兄上は一国一城の主になってもらいたいようだが、他ならぬ兄上が望んでおられないからなぁ。
いつだったか兄上に伺ったことがある。
「兄上は、欲がないのですか?」
金が欲しいとも、城が欲しいとも、国が欲しいとも、天下が欲しいとも仰られない。
何でも出来て、大体のことを叶えられる立場で、その力があるのに、兄上は何も欲されない。
願いと口にされるものは、結局織田家の為、民の為になるものだ。
本当に望むものはあるのだろうか?と疑問に思っても不思議ではないだろう。
「勿論あるさ。私だって人間だもの」
「なにをお望みですか!?」
身を乗り出す俺に、兄上は微笑んでこう仰った。
「縁、私は皆が幸福であることが、唯一の望みだよ」
兄上にとって天下ですら細事。兄上はもっと上を見ておられる。
皆が…誰もが幸福な世界という、途方も際限もない願い。
それが完璧で無敵で最高の兄上の望み。
俺はその時決めたのだ!
少しでも兄上のお力になろうと!
兄上の望みを叶える手伝いが出来るよう、精進するばかりだ。
…っ! まずい!
おぬし、今から誰か来て俺のことを訊いてきたら知らぬ存ぜぬを通せよ!
よいか、絶対に俺がここにおったことを言ってはならぬぞ!
何故か理由を言わねば口が滑るかもしれない? …おぬし中々良い度胸をしておるな。
…………実は勉強の時間を抜け出してきているのだ。
致し方ないだろう! 嫌いなのだ!!
兵法から書から算術まで、どの範囲の勉学も兄上が手ずからお教えくださるが、これだけは!!
兄上は好きだが、勉強は嫌いだ! 大嫌いだ!!!
特に算術! 空間図形とかまったく分からぬ!
信雄兄上や信孝兄上には「兄上の教えを受けて分からねぇ!? お前脳みそ入ってんのか!?」「一度診てもらったほうが…」と驚かれて真面目に心配された。余計な世話だ。
よいのだ! 俺は武術を磨いて将来兄上の役に立ってみせるから!
理由を話したのだから、絶対に口を滑らせるでないぞ!
…何故そんなに逃げたがるのかだと? 質問が多いなおぬし!
兄上はいま越中におられるから、臨時の教育係が付いているのだ。兄上から逃げることは不可能だが、他の者なら造作もない。
嫌気が差して隙を突き逃げてきたのだが、勉強を怠けると兄上に叱られるのだ。
父上のように雷が落ちたかと思うくらい激しく怒るのではないのだ。
笑顔で「縁は可愛いから、ちゃんと身を守る術を覚えようね」と引きずられて、問答無用で三時間休みなしに算術を叩き込まれる。
何よりも恐ろしいのだぞ…。うぅ…。
これで理解したな!?
では、俺は逃げっうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………
・織田長次
幼名、縁。
織田信長の二十二人目の子。
生年生母ともに不明。
1574年から1582年の間に生まれたとされる。
1582年、本能寺の変にて父信長死後は、豊臣秀吉に引き取られ馬廻として仕える。
1600年、関ヶ原の戦いで戦死。
・サブタイトル
『ニホンゴムズカシイネ』