第八章 花嫁奴隷 救出クエスト 六日目
十一月一五日夕刻、リックとヘリアンソスは正装して馬車に乗っていた。“正しい”化粧を施し、黒いドレスに身を包んだヘリアンソスの艶やかさにリックは瞠目してしまった。
────なんて美しいひとだ。これは姉上に匹敵するほどだ。
馬車はゆっくり帝国軍兵舎に近づき、静かに停車した。御者を務めるトラスニックが小声で合図した。
「いよいよです。幸運を!」
うなずき、リックとヘリアンソスは馬車を降りた。いかにも芸能全般に通じた世話役という外観を装い、リックが歌手ヴィオラをエスコートするかたちで検問所に着いた。
「えー、本日公演予定のヴィオラ・クレートラーとその世話役レフリック・ティラールです」
二人分の身分証を提示する。ローライシュタイン大公国発行の身分証は帝国のそれとフォーマットが異なっており、目立つことから、検問所の憲兵は不審そうな目で二人を凝視した。だが、胸元が大きく開いた扇情的なドレスを着るヴィオラの艶姿に圧倒されたか、すぐにその頬は緩んでしまった。
帝国とローライシュタイン大公国が戦争状態にあっても、民間交流や交易は別である。実際、ローライシュタイン大公国の行商人も数多く入国しているので、ローテーションを組む憲兵にとって身分証の確認作業はルーチンワークであった。
身分証に問題はないことから、憲兵は公演リストに目を通した。
「うん? 今日はリノン・シャンタールの公演だとリストに記されているぞ。しかもヴィオラ・クレートラーという名はリストにない」
「ええぇっ?」
リックは大げさに驚いてみせた。
「そんなはずはありません。我々は帝国のしかるべき部署から承認を受けて本日うかがったのです。忙しいスケジュールをやりくりして、やっと時間を取ったんですよ」
「だがリストにないのだから、通すわけにはいかん」
憲兵の声が険しくなった。
「あなた、分かっておられるのですか。ここにおられる貴婦人はエルマグニア全土に名を轟かせたオーケストラ指揮者ブラット・クレートラーの愛娘にして、高名な歌手ヴィオラ・クレートラーなのですよ。手違いがあったら、あなたの上官まで首が飛びますよ」
ブラット・クレートラーという名に小役人は震え上がった。エルマグニアの先代元首ディアール・レキシントンの御前でオーケストラの指揮を執ったこともある巨匠の名はあまりにも重いものだった。
「わ、わかった。すぐに確認を取るので、少しだけ待ってくれ」
あわてて伝令が送られた。
しばらくしていかにも事務官という風情の五〇代と思しき男が駆けてきた。
「ハァハァ」と荒い息をつきつつ言葉をつないだ。
「これはたいへん申し訳ありません。巨匠ブラット・クレートラーの御息女がいらっしゃったというのに、こんなところで立たせてしまいまして。どうぞこちらへ────」
まずは事務棟に併設された応接室へ案内された。
リックとヘリアンソスはそこでソファに腰かける前にもう一度(偽の)自己紹介をした。
系図を見せるまでもなく、事務官エデルはすっかり信じ込んでしまったらしく、板ばさみ状態に陥り、困惑の表情を示した。
「あのですね、やはり我々が持つリストにヴィオラ・クレートラーというお名前はないのです。本部に照会しようにも、もうこんな時間ですから、今日は無理です。改めて明日以降来ていただくわけにはまいりませんか」
「・・・非礼にもほどがある」
リックはわざと立腹した態度を見せた。
「あなたはこちらの歌姫がどれほど多忙か分かっていない。それだけじゃない。対応のいい加減さを見るに、ブラット・クレートラーの娘という事実も疑っているのではないですか」
そしてローライシュタイン大公国発行の系図を見えるように提示した。
「・・・・とんでもありません! 疑うなど。ただ、本日はリノン・シャンタールという歌手が音楽ホールで歌うことになっており、我々としても会場をご用意できないのです」
エデルの面が緊張で汗だくになっていることが見て取れた。
そんな押し問答をくり返していた矢先だった。エデルの許に再び伝令がやってきた。なにやら耳打ちしている。それを聞いたエデルの顔が見る見るうちに青くなった。
伝令が去った後、エデルは体を折り曲げて謝罪した。
「たいへん申し訳ありませんでした。たった今、リノン・シャンタールは本日来られないとの伝言が届きました。それと、我々の事務処理にもおそらくミスがあったと思われます。つきましては、改めまして本日、音楽ホールで歌声をご披露していただけませんでしょうか」
リックは内心ニヤッとほくそ笑んだ。
────バルコスキがうまくやったらしい。
そのバルコスキだが、本日公演予定のリノン・シャンタールの馬車を尾行して渋滞で一時停車したところを見計らい、車軸に細工を施したのだった。数百メートル進んだところで馬車は急停車した。車輪が一つ回らなくなったのだ。不具合を確認するため、御者と世話役の男が下車した。それがバルコスキの真の狙いだった。脇を徒歩で通り過ぎる一瞬の間に、バルコスキは世話役の首筋に麻酔薬を打ち込んだ。
男が昏倒するところを見届けることもなく、バルコスキは平然と姿を消した。自分の仕事には絶対の自信があった。
世話役の男がいつまでも戻ってこないことから、不審に思ったリノン・シャンタールは馬車から顔を出し、そして信頼しているパートナーが倒れているところを発見した。悲鳴が上がった。
集中力を必要とするアーティストにとって、これは致命的だった。こんな状態で公演などできるはずがない。かくして、リノン・シャンタールの公演は中止となった。
音楽ホールの舞台裏では開演前の一時間ほどの間に、バック・オーケストラとヴィオラ・クレートラーとの間で綿密な打ち合わせが行われた。オーケストラの演奏者たちにとっても、巨匠ブラット・クレートラーの娘と共演できることはこの上ない名誉だった。当初は予定されていたリノン・シャンタールの公演が急遽キャンセルとなり、困惑していた演奏者たちだったが、リハーサルでヴィオラの圧倒的な声量を聴かされたかれらはいっぺんに彼女の虜になった。
公演時間が間近に迫り、舞台に緊張感が増した。会場は八割の入り。直前で歌い手が代わったのだから、無理からぬことであった。
ヴィオラにとって、これは事実上のプロデビューの場だったが、さすがに巨匠から英才教育を受けただけのことはある。その顔に過度の緊張感はなく、適度にリラックスしているようすが垣間見えた。
一九時ぴったり、舞台の幕は上がった。クラシックの心地よい旋律が流れて、続いてヴィオラがその美声を披露したとき、会場内にどよめきが起きた。響き渡る朗々たる歌声、それは低音域から高音域まで気持ちよいほどなめらかに艶かしく発せられた。
その歌声こそ帝国となったエルマグニアが今までに手にできなかった才だった。空気を振動させるヴィオラの声量は外を歩いていた将兵たちまでも惹きつけた。開演一〇分後には会場は立ち見で立錐の余地もないほど、興奮の坩堝と化していた。
────まさかこれほどとは・・・・
それが偽らざるリックの心境だった。
音楽ホールは空間の使い方を徹底的に研究して造られており、ヴィオラの美声はよりいっそう高められて、聴衆の心を直撃した。一時間の公演はあっという間に終了した。
舞台裏では当初おろおろしていたエデルが泣き出さんばかりに感動して、ヴィオラを出迎えた。
「ヴィオラ・クレートラー様、わたしはなんとお詫びしたらよいのか、言葉もございません。初期のご対応に不足があったことをなにとぞ、なにとぞお許しください」
「いいえ、エデル事務官のお取り計らいによって、わたしは公演を全うすることができました。こちらこそ、感謝いたします」
ヴィオラの謙虚な姿勢がますますエデルを感激させたようだった。
「これからもご都合が合えば、どうか公演にいらしてください」
「スケジュール管理は世話役のレフリックに任せてあります。そちらと協議してください」
「ははぁ。では、レフリック・ティラール様、さっそくではございますが────」
「その前にひとつお願いがあります」
リックは機先を制した。
「はっ? なんでしょう」
「実は以前、帝国軍の連隊長にいろいろとお力になっていただいたことがあり、この機会にお礼を申し上げたいと思っております」
「そうでしたか。で、その連隊長の名は?」
「帝国軍騎兵連隊長ハインドラー・ミルンヒック閣下です」
名前を聞き、エデルはなるほど、という顔になった。
「ハインドラー・ミルンヒック騎兵連隊長でしたか。あのかたであれば、もっともであると合点がいきます。それで、わたしはどうすればよいのでしょうか?」
「この時間で恐縮ですが、ぜひともお取次ぎをお願いしたいと考えております」
「・・・承りました。二〇時過ぎという点が気がかりですが、なんとか取り次いでみます。連隊長室に在室していればの話ですが」
「もしいらっしゃったら、“大公国のリックがご挨拶に伺いたいと言っている”と伝えてください」
「かしこまりました」
エデルは二人に向かって会釈したのち、小走りに去っていった。
────うまくいくといいのだが。今日、ハインドラーに会えなければ、今後の作戦遂行はかなり厳しくなる・・・。
リックは不安を隠せなかった。
一刻後、待合室で待機していたリックとヴィオラに吉報が届いた。ハインドラーはこの時間になってもまだ連隊長室におり、執務中とのこと。そして客人を歓迎すると告げたらしかった。
わずかだが可能性が開けた。エデルの案内でリックとヴィオラは帝国軍兵舎に足を踏み入れた。おおよそ軍人とは無縁の歌姫がナイトドレス姿で歩いている姿を目撃した将兵たちは方々で感嘆の声を上げた。中には先ほどの公演を聴いていた者もおり、かれらはヴィオラに向かって口々に賞賛を伝えたのであった。
さすが大音楽家ブラット・クレートラーの愛娘だけあり、ヴィオラは悠然とした態度で帝国軍兵士たちに手を振り、愛想を欠かさなかった。ふだんは物々しい空間のはずだったが、そのときばかりは帝国軍兵舎が和やかな雰囲気に包まれた。
目的の連隊長室前に到着した。エデルが扉をノックした。
「お入りください────」
間違いなく、ハインドラーの声だった。
「では、わたしはこれにて」
気を利かせてエデルはそこで退去した。
リックとヴィオラが室内に入ると、そこではやや緊張した面持ちのハインドラーが立ち上がって待っていた。リックはヴィオラを紹介したのち、案内されてソファに腰かけた。
間髪をいれず、ハインドラーがたたみかけた。
「閣下、“大公国のリック”と伝えられたとき、自分は耳を疑いました。公式には両国はまだ戦争中だというのに、どうやってここへ?」
「待ってくれ。順番に説明する。それより、ここにいるのは我々三人だけで間違いないかな?」
ハインドラーがうなずいたので、リックは正体を偽って潜入した経緯を説明した。ハインドラーの顔色が見る見るうちに青ざめていくようすが手に取るように分かった。
「事ここに至った以上、わたしが動くほかなかった。アーヤの生命、運命がかかっているのだ」
「・・・・なんということか」
ハインドラーは絶句した。まさかそんな事態が水面下で進行していたなど、露ほども想像していなかったのだ。ようやくハインドラーはうめくように声をふりしぼった。
「ジェネラル閣下ほどの調査力があれば、すでにご存じだと思いますが、今帝国軍内部では抑えきれないほどにアーヤ・エアリーズ師団長への声望が上がっています。正直申し上げて、戦争継続を選択すれば、内部分裂を起こしかねない状態です。それがあるから、フォイエル・ドラス元首も和平を選択したのでしょう。ただ・・・」
「ただ?」
「────帝国上層部でどのような意思決定がなされたのか、一連隊長である自分には当然知る由もありません。たとえばマグナー・ホルギン総裁がフォイエル・ドラス元首に個人的に掛け合って、その付帯条件込みで交渉代表を引き受けた可能性も否定できません。帝国内部は魑魅魍魎の渦巻く世界です。そこでは私利私欲が国益に優先されることもままあります。官僚機構の決定事項が要所要所で捻じ曲げられることも日常茶飯事です。ゆえに・・・・ホルギン総裁の通常ありえないような要求が通ることさえ無いとはいえません」
ハインドラーは続けた。
「────アーヤ・エアリーズ師団長の部下になりたい。自分の気持ちには寸毫の変化もありません。しかしこれから先に起こることを看過すれば、それは永遠に叶わなくなる・・・」
ハインドラーは覚悟を決めたようだった。
「わかりました。兄に和平条件の詳細を確認してみます。もしも帝国内の官僚機構を司る帝国長官が付帯条件を与り知らぬのであれば、大問題のはずです。たとえ秘密協定が含まれているとしても、帝国長官が把握していないことなどありえません。逆にいえば、帝国長官が知らない秘密協定は守る義務がないということです」
ハインドラーは頭脳明晰な男だった。短時間で自分の使命を理解した。
「いつまでに確認できるだろうか。十一月一六日付でホルギンは迎えの馬車を大公国に到着させると通知した。復路行程を三日と仮定するなら、アーヤを乗せた馬車は一九日にベアヴォラーグ同盟総裁公邸に到着する。今日は十一月一五日、実質的にあと四日しかない」
時間との闘い、リックにとっては一日一日が勝負のときだった。
「明日、さっそく面会を申請します。ただ、帝国長官の職務は極めて多忙であり、実際にいつ会えるのかは確約できません。しかし全力を尽くします。経過報告はどのようにお伝えすればよいのでしょうか」
リックは自分が泊まっている宿の場所を知らせた。
「行商人ロデリック・ザイーブがそこでの身分だ」
「了解しました。では、明日十一月一六日の夕刻までに報告に伺います。同じく行商人の“ハインツ”が訪ねますので、よろしくお願いいたします」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑みを浮かべた。
時刻は二一時を回っていた。用件が済んだので、リックはいったんセーフハウスへもどることにした。所定の手続きを経て、リックとヴィオラは帝国軍兵舎の敷地外へ出た。そこでは心配そうな顔のトラスニックが馬車を待機させていた。
「おかえりなさい。まずは無事のご帰還を嬉しく思います」
「ありがとう。収穫はあったよ」
馬車に乗り込んでから、リックは大きな安堵の息をついた。
セーフハウスではバルコスキ、セドロが任務成功を祈りつつ待っていた。
二二時過ぎ、一堂に会したところで、リック、ヘリアンソスは一連の出来事をできるだけくわしく説明した。
「大きな成果を得ましたね。情報共有が図られたので、今後の対策は明日協議しましょう」
バルコスキの言葉で今日の任務は完了となった。
週三回の更新を行います。月、水、金の予定です。




