第七章 花嫁奴隷 救出クエスト 四日目・五日目
十一月一三日朝、再び蓄音機が優雅なリズムを刻んだ。気分がよいのか、ヘリアンソスが小声で歌っている。その歌声にリックは驚きの目を向けた。上手すぎるのだ。
ヘリアンソスを凝視していて間もなく、彼女は地味な顔立ちではなく、化粧で無理やり美貌を隠しているのだと分かった。
リックはそうする理由をヘリアンソスに尋ねた。彼女は下を向き、なにも答えなかった。
「ヘリアンソスが同意するなら、その疑問にはわたしが答えましょう」
バルコスキの声だった。
ヘリアンソスはバルコスキの側を向き、コクリと首を縦に振った。
「ヘリアンソスの本名はヴィオラ・クレートラー、あなたはクレートラーという名に聞き覚えはありませんか?」
リックは少しの間、考えた。
「あっ!」
記憶がつながった。
────ブラット・クレートラー、高名なオーケストラ指揮者だ。
「すると、彼女はブラット・クレートラーの娘!?」
「そうです。そして彼女が諜報活動に身を投じた理由、それもお父上の運命と関係があります」
リックはブラット・クレートラーのことを思い出した。父ゴットフリートに連れられて何度か足を運んだ演奏会、そこは幼き日のザイドリックにとって大きな驚きと感動の空間だった。ブラット・クレートラーの指揮によって奏でられた交響曲の旋律は神の領域にまで達しており、その技巧、美しさは比類なきものであった。いつまでも聴いていたい、そう思ったのはこれが初めてのことである。
だが、その全てが大陸暦九三〇年に勃発したロ帝戦争(東の大国テッサーラビウス帝国とローライシュタイン大公国との戦争)によって引き裂かれた。当時リックは一三歳だった。
テッサーラビウス帝国は文化や芸術、伝統などをいっさい尊重しない暴戻な覇権国家であった。首都シュタインズベルクにまで攻め込まれてローライシュタイン大公国は降伏寸前、その最中、ブラット・クレートラーは避難民、楽団員が退避した音楽ホールを護って殺された。民間人に対しても何の容赦もしない、それがテッサーラビウス帝国、ノジェスタ・フィルス議長の考えだった。
最終的にローライシュタイン大公国は同盟関係にあったエルマグニア連邦(エルマグニア帝国の前身)の参戦によって救われたが、ブラット・クレートラーも全焼した音楽ホールも戻ってこなかった。当時、一〇代後半だったヴィオラにとってそれは悪夢ともいうべき記憶だった。
数年後、ヴィオラは諜報部隊に入隊することを志願した。テッサーラビウス帝国への復讐、それが彼女を衝き動かす原動力だった。しかしテッサーラビウス帝国は鉄の防諜体制を敷き、諜報活動に対する防御力は大陸随一、とても新米諜報部員が潜入できる国ではなかった。ゆえにバルコスキはまずエルマグニア帝国での諜報活動を彼女に勧めた。あまりにも目立ちすぎる美貌は活動に不向きなので、地味な化粧を施すことも徹底させた。
「お分かりいただけましたか。彼女の決心を。ヘリアンソスは生命を懸けてその任務を全うするでしょう。それが亡きお父上への誓いなのです」
リックはヘリアンソスの想いを理解した。仲間との絆が一段と深まったと確信した。
「有力な作戦を考えたので、皆に聞いてもらいたい」
朝食後しばらく経って、考えを整理したリックはその場にいた全員の前で話し始めた。
「昨日の夜、話した仮説が正しいと仮定する。それが第一プラン続行の必須条件だ。異論はないかな」
だれからも異論は出なかった。
「さて、ハインドラーと接触する手段だが、帝国軍兵舎内の音楽ホールを利用しようと思う。わたしが潜入した際、音楽ホールではなんらかの演奏が行われていた。当然プロによるものだろう。そこでだ、ヘリアンソスに歌手として歌ってもらう」
「!!!」
リック以外全員が呆気に取られた。一番驚いたのは当のヘリアンソスだった。
「わ、わたしは・・・プロではありません。大勢の前で歌ったことはありますが、それも昔のことです」
「今は自信がないか?」
リックは真剣な目で問うた。
「いえ、その・・・自信は・・あります。ただ、仮にヴィオラ・クレートラーと名乗ったとして、帝国軍が受け入れてくれるはずがありません。無名どころか只の素人ですし────」
「ロデリック、潜入は隠密行動が基本だ。間諜が歌手として乗り込むなど聞いたことがない」
百戦錬磨のバルコスキが否定的な見解を示した。
「だからこそ、やる価値がある。まさか帝国側も歌手とその世話役が間諜だとは思うまい。わたしが世話役を演じる」
「しかしどうやって売り込むのですか。無名の歌手が歌わせてくれと言って通用するとは思えません」
トラスニックもまた否定的だった。
「帝国側は自国内の音楽家のリストアップはある程度済ませていると思うが、ローライシュタイン大公国の音楽家についてはほとんど情報を持っていない。しかし数少ない例外がブラット・クレートラー、すなわちヘリアンソスの父親だ」
「あっ!」
バルコスキが声を上げた。
「つまりエルマグニア全土に名を轟かせた巨匠ブラット・クレートラーの娘ヴィオラ・クレートラーが公演にやってきたと伝えるわけですね」
「そのとおりだ」
「ですが、彼女がブラット・クレートラーの娘だと、どう説明するのですか。詐欺師の売り込みと思われては心外ですし」
「その点は問題ない。わたしの右手が大きな意味を持つ────」
リック以外全員が怪訝な顔を見せた。
「セドロは書類偽造のプロだったな。まず、ヴィオラ・クレートラー本人を証明する系図を作成する。それにわたしが署名すれば、完全な公式書類となる。通常、署名の偽造は難しいが、大公国を代表する姉上、もしくは次席代表のわたしが署名すればその問題もクリアされる。もっとも、まさかわたしが自国の公式書類偽造に手を貸すことになるとは予想もしていなかったが・・・」
「おもしろい!」
それまで否定的見解を崩さなかったバルコスキがひざを叩いて賛意を示した。
「ロデリックに加わってもらったことで、諜報活動に幅が出ました。これは試してみる価値がある。とはいえ、ヘリアンソス、おまえはどうなのだ。音楽ホールで歌う自信はあるか?」
「・・・・」
ヘリアンソスは逡巡しているようすだったが、まもなく決意を固めた。
「やります。音楽家を継いでほしいと願った父の想いを果たす、またとない機会です。ぜひやらせてください!」
作戦決行が固まった瞬間だった。
あとは、どのように公演を滑り込ませるかが問題だった。一ヵ月後の公演では意味がない。可及的すみやかに予定に組み入れてもらう必要がある。その対応策としてバルコスキが一計を案じた。
「公演予定の歌手がアクシデントで来られなくなれば、代役が必要になります────」
「つまり・・・アクシデントを起こすのですね」
トラスニックがニヤリと口元をほころばせた。
五人はそれからしばらく協議を重ねて成案を得た。
「よし、それでいこう。忙しくなりそうだ」
バルコスキの言葉と同時に一同は解散し、各自準備に入った。
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