第三章 虚無の世界
十一月七日の深更、大公国軍兵舎へ戻ってきたアーヤはそのまま師団長室に引っ込んだ。翌日になって師団の士官が勢ぞろいしてもアーヤはそこに姿を見せなかった。体調が悪いのではないか、心配した連隊長のドーラとラフィーがアーヤを呼びに行った。だが応答はなく、中からは嗚咽が聞こえるばかりだった。
只事ではない。
二人は即座に気づいた。帝国と大公国との和平交渉内容は連隊長以下の将兵にはいっさい伝えられなかったから、それが原因だとは分かるはずもなかったが、あのアーヤが、・・・どんなに苦しい局面でも弱音を吐かないアーヤが泣いている。親友の二人には為すべきことが見えていた。
それから二人は扉の前で途切れることなくアーヤに語りかけた。
「アーヤ、あなたがこんなに苦しむなんて、あたしにはとても想像できなかったけれど、考えてみるとアーヤもおんなじ女のコなんだよね。つらいこと、苦しいことは代わってあげられない。だけど打ち明ければ、きっと少しだけ楽になるよ。あたしに話してもらえないかな」
まずドーラが話しかけた。間を置かず、ラフィーが続けた。
「アーヤ、あなたと戦場を駆けめぐった日々、あれはわたしにとって奇跡の時間だった。ダーグナスリイトの包囲戦、そしてそれに続く壮烈なデュエル(一騎討ち)。あなたがいなければ第六師団は間違いなく壊滅していた。あのとき、あなたは皆を勇気付けた。今度はわたしたちがあなたを勇気付けるときだと確信している。だから、もう一度姿を見せてほしい」
二人は昼夜を分かたず説得を続けた。アーヤの苦しみを共有するため、食事を取らず、水だけで一日を過ごした。
一方、アーヤが伏臥する師団長室のベッドルームは想像を絶する惨状を呈していた。涙、汗、涎、そして嘆き悲しむたびに突如表れる凄まじい吐き気の連続に、ベッドは獣の巣と化していた。食事を取っていないので、一日経過した後は何度も胃液を吐いた。
悪臭と嘔吐物に囲まれて、アーヤは自分が女という自覚さえ失いつつあった。いや、人であることさえ見失っていたのかもしれない。少しだけ正気に戻ると、リックのことを思い出した。
一五歳の少女が川原で途方に暮れている。もうどこにも行くあてがないのだ。橋の下に移動しようとした瞬間、彼女は大量の血を吐いた。結核に侵されていたのだ。冷たい地面に横たわり、彼女は血だまりの中でただ死を待っていた。
突然、だれかが少女を助け上げた。馬車に揺られて移動している感覚、暖かいお湯の心地よさ、気づいたとき、彼女アーヤ・エアリーズは救われていた。ザイドリック・ローライシュタインの手によって。
どれほど時間が経ったのだろう。おそらく数日は嘆き悲しんでいたに違いない。臭気ただよう異様なベッドルームでアーヤはわずかに身を起こした。
「ウニャーン」とアーヤが飼っているネコのチャチャが近寄ってきた。
「チャチャ、お母さんを心配してくれるの。ありがとう」
半身を起こしてチャチャを抱いた。
────リック様は無力の女工だったわたしを助けてくださった。対等に愛してもらえないからといって、わたしはなにを憂えていたのだろう。
ドアの外側ではなおもドーラとラフィーが語りかけている。
────わたしにはすばらしい親友がいる。お慕いするひとも・・・。行こう、みんなの許へ。
鍵を外す音が聞こえて、まもなく扉がギィッと開いた。そして中からアーヤが姿を現した。十一月一〇日早朝のことだった。
「ア・・・アーヤァァァ──────ッ! ありがとう。出てきてくれて」
ザラザラの髪のアーヤからは獣臭が漂っていたが、ドーラもラフィーも何一つ気にしなかった。二人はアーヤを抱きしめて決して離さなかった。
「・・・お腹が空いた」
ボソッとアーヤがつぶやいた。無理もない。二日半も何も口にしていなかったのだ。
「よしっ!」
ドーラが身長一九〇センチの利点を生かして一息にアーヤを抱き上げた。
「メシにするかぁ。だけどちょっと臭いから、その前にお風呂に入ろっ♪」
アーヤがうなずくとドーラはニッと笑って駆け出した。あわててラフィーが後を追った。
大公国軍兵舎には二四時間利用可能な大浴場が完備されている。訓練、演習、戦役等で疲弊した将兵に対してせめて清潔な空間だけは用意してやりたい。大公エリーゼの意向によって数年前に完成した大浴場は将兵たちの評判がとてもよく、夜間は順番待ちになるほどの活況を示していた。だが早朝となれば、話は違う。この時間帯は人影がまばらで、じっくりお湯に浸かりたい者にとっては絶好のひと時であった。
昼以降、大浴場は時間帯指定で男女が分かれるのだが、早朝はその必然性が薄いので混浴になっている。とはいえ、連隊長のドーラ、ラフィー、師団長のアーヤは特別待遇で部屋に専用バスルームが設置されており、大浴場を使うことはめったになかった。
しかし今日だけは違った。勢いよく大浴場の扉を開いたドーラに続き、全裸のアーヤとラフィーが入ってきた瞬間、場の空気が凍った。
長身、アスリート体型、褐色肌、銀髪のドーラ、彫刻家のモデルのように美しい体のアーヤ、幼児のあどけない体型を残す亜麻色髪のラフィーが並んで歩いているのだ。
それは奇跡の時間だった。呆然と見守る男たちを一顧だにせず、三人は談笑しながら体を洗い合っていた。その場に居合わせた幸運な男たちは後に「女神たちの行水」と呼んで、その奇跡を後世まで語り継いだのであった。
一刻後、食事を終えた三人はラフィーの部屋に集まった。ラフィーが入れた香気立ち上る最高級の紅茶を口にしながら、アーヤはこれまでの経緯を時系列順に説明した。
ベアヴォラーグ同盟のマグナー・ホルギン総裁がエルマグニア帝国の和平交渉代表としてやってくることを聞いていた二人だったが、まさかホルギンがそれほど破廉恥な提案をするなど想像もしていなかったので、アーヤから事実を聞かされたときには心底仰天した。
それから、話は核心に入っていった。リックのそっけない態度に落胆したアーヤだったが、ラフィーがそれに異を唱えた。
「わたし、ジェネラル閣下の気持ちが少しだけ分かるよ。閣下は逆襲の時間を欲しているのだと思う。もしもアーヤを見棄てるつもりだったら、そもそも大公国司令所に来ないはずでしょ。閣下はなにかをつかもうとしている。わたしもこの交渉の裏にはカラクリがあるように感じる。アーヤ、あなたは愛するひとを信じられないの?」
アーヤは下を向いた。
────ラフィーの言うことはもっともだ。リック様はここで交渉が決裂することをとても怖れていた。・・・・でも、信じてよいのだろうか。
唐突にドーラが口をはさんだ。
「あ~あ、だから男は信用できないのよ。あたしといっしょになれば、アーヤは即幸せになれるのにさぁ」
そしてアーヤの顔を覗き込んだ。
「・・・だけど、あたしはアーヤを信じるよ。アーヤが想いを寄せるあのひとがそんな簡単にあきらめるものか。そういや、伝言を預かっていたんだ。ここ数日の出来事に忙殺されて、すっかり忘れていたよ」
ドーラは預かっていた伝言をアーヤに手渡した。リックからアーヤに宛てられたものだった。
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アーヤ、不本意かもしれないが、我々はマグナー・ホルギンの和平仲介に同意した。ホルギンは十一月一六日付で迎えの馬車を到着させると言っている。わたしにとってはこれから一日一日が命運をかけた闘いになる。わたしを信じてベアヴォラーグ同盟へ向かってくれ。それと、アーヤに預けた白馬のティタンを一時的に借り受ける。ティタンの走力が事の成否を左右するだろう。
十一月八日 ザイドリック・ローライシュタイン 署名
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アーヤは何度も何度も伝言を読み返した。目頭が熱くなった。
────わたしはなぜあのひとを信じなかったのだろう。自暴自棄になって己を見失っていた。
リック様、わたしはあなたを信じます。どうかご無事で。
アーヤの表情の変化を周りから見ていた二人は安堵の息をついた。
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