第二章 トレードオフ
アーヤは普段から自己主張をほとんどしない。相手の意向を聞き、バランスの取れた対応をすることで、大公国軍内部では絶大な信頼を寄せられていた。そのアーヤが今度ばかりは妥協しない態度を取った。
内容が内容だけに、和平の交渉条件は極秘扱い、協議への参加者もエリーゼ、リック、アーヤの三名だけとされた。
「わたしはあの男の許へ嫁ぐことだけは絶対にいやです」
会議室にアーヤの声が響いた。エリーゼ、リックは黙って聞き入っている。
「たとえ帝国内へ単身突撃せよと命ぜられたとしても、わたしは喜んで従います。ですが、人質のごとくあの男の玩具にされるのなら、わたしは死を選びます」
アーヤの決意は固かった。
リックが口を開いた。
「アーヤ、現在の状況を客観的に整理してみよう。そこからなにかが見えるかもしれない」
同意を得て、リックは続けた。
「帝国元首フォイエル・ドラスが提案した四条件は以下のとおりだ」
一、 ローライシュタイン大公国は内戦前の五カ国連邦制時代と同様の立場でエルマグニア帝国に復帰する。
二、 戦争責任はお互いに追及しない。また、賠償金も同様に請求しない。
三、 帝国内各国の自治権はこれまでと同様保障される。
四、 外交・国防は帝国の専決事項とし、帝国内各国は元首の決定に従う。
「マグナー・ホルギンはエルマグニア帝国とローライシュタイン大公国との間で和平協定を結び、戦争を終結させる仲介役をドラス元首に対して願い出た、と会議の冒頭で語った。この交渉の帝国側代表にホルギンが就いたのは確かだ。提案書にその旨が記されている。
では、ホルギンの恥知らずな条件付けは帝国側の正式な承認を得ているのか。わたしは得ていないと思う」
アーヤ、エリーゼがピクッと眉を動かした。
「ドラスから帝国側交渉代表に任ぜられたことを利用して、この機会に個人の願望を満たそうとしている。唾棄すべき人物だ」
「そこまで分かっておられるのなら─────」
アーヤが口をはさんだ。
「だが、証拠がない。それとフォイエル・ドラスにとっては“許容範囲”と認められる可能性も考えられる。ベアヴォラーグ同盟総裁にはそれだけの権力がある」
八方ふさがりとなって、アーヤは天を仰いだ。
「リック、あなたはどうしたらよいと思う?」
エリーゼが問うた。
リックはしばし沈黙していたが、やがて重苦しい口調で告げた。
「・・今は・・・提案を受け容れるしかない」
アーヤはまさかという表情でリックの顔を見た。今日までの信頼を踏みにじられた、そんな想いだった。
「ここでホルギンの提案を断れば、どうなるか。わたしが諜報部隊から独自に入手した情報によれば、帝国内では現在、精鋭四個師団が編成途上にある。その師団は通常の定員一万名ではなく、二万名で編成されており、各地の兵員養成学校成績上位二割のみを抽出して徹底した訓練を実施中と聞く。これに既存兵力を加えて第二次攻勢をかけられたら、大公国の全戦力である第六師団、第七師団の二個師団では支えきれない。おそらく我が国は制圧される。我々が捕虜になるだけではない。領民は逃げ惑い、国土は寸断され、この地は阿鼻叫喚の地獄と化すだろう」
リックの冷徹な分析は的を射ていた。しかし同時にそれはアーヤにとっての死刑宣告でもあった。
「・・・・リック様、ではあなたは・・わたしにあの男の許へ嫁げと─────」
茫然自失となって問うた。
リックは沈黙しなにも答えなかったが、それは同意と同じだった。
アーヤはその場で泣き崩れた。
「イヤだ! 今日まで守り通してきたものをあんな男に汚されるぐらいなら・・・・わたしはここで自害します」
アーヤの瞳には一片の迷いもなかった。軍人が常に携行している小型軍用ナイフを取り出し、最後につかの間、リックのほうを向いた。
「────さようなら、わたしの愛しいひと」
そして何の躊躇もなく首筋に当てたナイフを斜めに引いた。
「待てェッ!」
リックはアーヤがナイフを手に取った瞬間、動き出していた。
間一髪だった。アーヤは己の頚動脈を切り裂いたと思ったが、それはザイドリックの手の甲だった。
「クゥッ!」
痛みにリックは顔をしかめた。激しく鮮血が滴り落ちたが、手の甲だったことが幸いして大事には至らなかった。
あわててエリーゼが弟の手にハンカチを巻いた。
リックはアーヤの軽率な行動をいさめた。
「アーヤ、今はまだ解決策を見出せない。だが、可能性は捨てていない。我々には時間が必要だ」
ナイフを取り上げられたアーヤは床に突っ伏して号泣した。
どれほどの軍事的苦境に陥っても決してあきらめず、そのたびに策を講じて生き延びてきたアーヤがこのときばかりは子供のように泣いていた。権力者によるパワーゲームには対抗するすべを知らない。それがアーヤの弱さでもあった。
「この交渉事には裏がある」
リックがつぶやいた。エリーゼとアーヤは次の言葉を待った。
「証拠があるわけではない。だが、あのフォイエル・ドラスがホルギンに完全なフリーハンドを与えるだろうか。あの男の目的はエルマグニアの覇権をアレイアウス大陸に打ち立てること。古の格言『小人閑居して不善をなす』を地でいくようなホルギンの振る舞いを承認するはずがない。そこに攻略の糸口がある」
リックの双眸は大敵を相手に蒼く燃え上がっていた。
「アーヤ、苦しい気持ちはよく分かる。だが、堪えてくれ。ここで交渉を打ち切れば、我が国の命運は尽きる。しかし真実を解明する時間さえあれば、可能性はゼロではない」
リックの説得をアーヤはどんな気持ちで聞いたのか。アーヤはおもむろに問うた。
「リック様、仮にわたしがあの男の許へ嫁ぎ、そこでしばらく経ってから謀略が判明したなら、わたしは救われるのでしょうか?」
「もちろんだ。そのときは真っ先に迎えに行く」
アーヤは諦観した表情で続けた。
「それは何の救いにもなりません。マグナー・ホルギンに全てを奪われて、残るのは魂を失ったわたしの体だけです。それに謀略などなかったら、どうなるのですか? わたしは一生をただ彼の地で終えるだけの骸となります」
アーヤの瞳に宿る絶望の色、それを感じ取り、リックは二の句が告げなくなった。
「分かっています、十分なほど。この国が直面する危機は容易なことでは避けられません。ただ、わたしは一言、リック様に言ってほしかった。アーヤ、わたしを信じろ、と」
それだけ伝えると、アーヤは重い足取りで会議室から出ていった。リックとエリーゼはただそれを見送るしかなかった。
アーヤが退出した直後から、会議室では大公エリーゼが険しい顔で実弟ザイドリックを詰問する時間が続いた。
「リック、あなたはなぜあのコに悲観的な未来ばかり示したのかしら。最後にアーヤが語ったとおり、希望を持たせなければ、あのコはきっと死んでしまう」
「姉上、では何の根拠もなく、わたしを信じろと言うのですか。そして次の台詞にこう付け加えるのですね。だいじょうぶだ、たぶん─────」
リックは空手形のような文句を伝えることに戸惑いがあった。だから、それがこの局面では役立つとしても口にすることができなかった。
「リック、あなたは女の気持ちがわからないのね。こんな状況だからこそ、あのコはあなたに励ましてもらいたかったのよ」
リックは沈痛な表情を見せた。
「それに、気づいているでしょう。あのコの気持ちに。この局面がアーヤにとってどれほど残酷で絶望的なものか、あなたは分かっているのではなくて?」
姉の言葉がザイドリックの心を鋭くえぐった。
悄然と会議室を出たリックに執事長シベリウスがメモを手渡した。
「閣下、エアリーズ師団長より伝言を承っております。お改めください」
リックはすぐさまそれを確認した。
『閣下の御手を傷つけてしまったこと、なにとぞお赦し願います。今夜二三時、大公国司令所を訪ねます。どうかお一人でお待ちください』
大公国司令所、そこは戦時に軍指揮官が作戦を協議する場であった。大公宮殿イーグルライズに隣接しているが、宮殿の外からも出入りできる。平時は使用しないが、師団長以上の幹部は合鍵を持っているので、入室ができる。中は作戦図を確認する大テーブルと椅子、それに宿泊可能な簡易宿舎が併設されていた。
リックは二三時少し前に大公国司令所へ入り、椅子に腰かけてアーヤの来訪を待った。
二三時ぴったりに扉がノックされた。
「入っていい。鍵はかけられていない」
返事が聞こえたのだろう。外套をまとったアーヤが無言で入ってきた。すでに季節は晩秋を迎えて、とくに朝晩は冷え込むようになった。だから、アーヤが外套を着ていたのはなにもおかしくなかった。だが、彼女のまなざしにはあきらかに思いつめた色彩があった。状況を考えれば、無理からぬことかもしれない。
アーヤはつかつかとリックの前まで歩み寄り、目前で立ち止まった。
「バサッ」と外套が落ちる音がした。
その刹那、リックは眼前のありえない光景に瞠目した。
アーヤは一糸まとわぬ生まれたままの姿だった。キズひとつない真っ白な肢体が燭光の中、輝いていた。
意を決したようにアーヤはたたみかけた。
「リック様・・・・抱いて・・ください」
ことばの最後のほうは消え入りそうに小さかった。
不測の事態に直面してリックは狼狽した。ただ、アーヤの躰の神々しいばかりの美しさに視線は逸らせなかった。
「明日の午後、わたしの命運は決します。あの男の許へ嫁ぐことは不可避の状態に陥りました。ならば、その前にわたしにできることはただひとつだけです。
汚される前に、わたしの全てを最愛のひとに捧げたい。どうか後生です。今宵、わたしを抱いてください」
そしてアーヤはリックの胸に飛び込んできた。細い肩がはかなげに震えている。ここまでするのは彼女にとって大きな決断だったに違いない。
「アーヤ・・・」
今リックの前にいるのは大公国軍第六師団長ではない。傷つき打ちしおれた一人の女にすぎなかった。
その姿に心を打たれて、リックは彼女を抱きしめた。心底愛おしいと思った。
「リックさま・・・・」
アーヤはようやく安堵の表情を示した。
どれぐらいの時間、二人はその場で抱き合っていたのだろうか。悠久とも思える時間が過ぎたのち、リックはアーヤとの抱擁を終えて、静かに告げた。
「アーヤ、きみを抱くことはできない────」
陶然とした状態から突然冷水を浴びせられたかのごとく、アーヤは愕然とリックを見返した。
「ウソ・・・ですよ、ね。・・・わたしの命をかけた想いにあなたは応えてくださらないのですか?」
アーヤの瞳はまだこの非情な現実を受け容れられないでいた。
「嘘ではない────」
リックは苦しさを押さえ込むように答えた。
「なぜですか。なぜ、わたしの想いにただの一度も応えてくださらないのですか」
アーヤは取り乱し、すでに冷静さを完全に失っていた。
「・・・わたしはリック様に抱いていただけたなら、その想いだけを胸に、彼の国へ旅立つつもりでした。もはや二度と祖国へ帰れないとしても、ベアヴォラーグ同盟総裁の妻として全力を挙げ、ローライシュタイン大公国を護るつもりでおりました。なのに・・・あなたはそれさえも叶えようとしない。
わたしがきらいなら、そうおっしゃってください。わたしは二度とあなたの前に現れません。こんな惨めな思いをして、この先、生き長らえるほど、わたしの心は強くありませんから────」
張り詰めていた緊張感を一挙に失い、アーヤは思いのたけをブチまけた。
「アーヤ、それは違う」
今度はリックが反論した。
「わたしは聴いていたのだ。ホルギンの囁きを────」
それがなにを意味するのか、アーヤは一瞬にして理解した。顔を真っ赤にして、アーヤはしどろもどろになりながら答えた。
「あ、あれは・・・きっと戯れで訊いただけです。重要なことではありません」
「重要か否かではなく、交渉の前提条件が崩れてしまうことをわたしは懸念する・・・・だから今、アーヤを抱くことはできない。許してほしい────」
こんな断り方があるのだろうか。国家間の交渉事を優先するために、女の心を疎略に扱う。少なくともアーヤにはそう感じられた。
アーヤはぽろぽろと涙をこぼした。もはやこの国に自分の居場所はない。落とした外套を拾い上げると、打ちひしがれたさまで大公国司令所を後にした。
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