タイム・アフター・タイム
なんだか、妙に現実味のある夢を見て、ハッと目を覚ました。
心臓がハード・ロックのようなテンポを刻んでいる。しかし、怖い夢、つまり、悪夢を見たわけではない。よく覚えていないのだが、なんだかそう、とにかく現実味があったのだ。
幼馴染で歳が一つ上の、梨元くんが出てきたのは確かなのだが、いつどこで、何をしていたのかはもう覚えていない。
夢とはいつだってそういうものだ。目が覚めた瞬間から、見ていたはずの景色の輪郭が崩れ、時系列が曖昧になり、やがて朝の光の中ですべてが有耶無耶になってゆく。
どうしたものか。それでも自分の心臓だけはしっかりとその恐怖を覚えているようで、相変わらず慌ただしいドラムを叩いているのだから。
窓から差し込む朝の光は、まったくもって夏らしい威勢の良さなもので、俺はグリルの中にでもいるような気分だ。そういえば、焼き魚なんて久しく食ってないなぁ、となぜか考えてしまう。
趣向を変えて屋上付近の踊り場で眠ったのが良くなかったようだ。
そういえば、一度、ロフト付きの部屋に住んでいたことがあった。ロフト付き物件なんていうものは、田舎から出てきたばかりの小僧には憧れの中の憧れ。天にも昇るような気分でロフトへと続く梯子を登ったあの頃。まぁ、今となっては、もういい思い出だ。
ロフトに寝床を構えると、とてもじゃないが暑くて寝ていられない。エアコンがあるにはあったが、冷気は下へ下へと向かうものだ。それは物理の基本だ。ん? 科学か? まあいい。理科で習うやつだ。
理想と現実とのギャップに打ちのめされたロフト付き物件の思い出も、小学校の理科の授業も、俺はすっかり忘れていたということだ。そして、割と大事なことだが、もう夏が始まろうとしていることも……。
とにかく、自分の失念だったというわけだ。こんなにも寝苦しいんだから、悪夢を見るのも無理はない。
……ああ、いや。そうか。もう一つの原因があった。昨夜、久しぶりに、梨元くんと会ったのだった。
向こうはすっかり俺のことなんて忘れていたし、俺も、一目で梨元くんが梨元くんとはわからなかった。もう、ホントに運が悪かったのだ。まさか、あんな再会になるとは夢にも思わないじゃないか。
ブツっという、不快な音が透過率のよくないスピーカーから鳴った。そして、
『グッモーニン! エヴリワン! さあ、今日も新しい朝が来た! 希望の朝だ! 朝礼の時間は三十分後。各自、準備を整えて、地下一階生鮮食品売り場レジ前に集合だ! さて、早速だが、景気づけに今日の一曲目だ。夏の始まりにピッタリなこの曲、ジャニス・ジョップリンで、サマー・タイム!』
流れ始めたのは不穏なギターのフレーズと、掠れた酒ヤケのような歌声。どこが夏の始まりに相応しいのか、理解に苦しむ選曲だ。
それは、ロニーの定時放送だった。ロニーの本名は黒岩哲夫、売れないバンドマンだ。いや、”だった”が正しい。
寝具をそのままに、階段を降りながらドラッグのやり過ぎで死んだ女性シンガーの歌を聴いていると、不思議と鼓動の早鐘はおさまっていった。しかし、ロニーに感謝することはないと思う。
四階のメンズ服売り場で、適当な半袖シャツを見繕って着替えた。付いていたタグを引きちぎると、その値札には税込四千三百二十円と書かれていた。以前の生活なら、決して見向きもしない高級品だ。ジーンズとパンツはまだ三日目なので変える必要はないだろう。
男子トイレで顔を洗い、二階のオシャレ雑貨の店に向かった。
そこですやすやと寝息を立てているのは、タイタンだ。わざわざ三階の家具屋からベッドを運んでまでここに寝床を構えているというのは、彼も酔狂だ。彼の本名は大蔵探介、システム・エンジニアだ。いや、だった。
相変わらず、細っこい輪郭と、癖一つない意固地な髪の毛の為に、なんだかニワトリのような面構えをしている。カピパラの抱き枕にしがみつきだらしなく涎を垂らす彼の安眠を妨げるのは気が引けるが、仕方がない。
彼に頼みたいことがある。……できれば、朝礼までには済ませておきたい。
「ふわああ、ああ。眠い……」
欠伸をしながらも、タイタンはついてきてくれる。
我々が向かったのは地下一階の納品車専用駐車場だった。
ぐちゃぐちゃにぶっ壊された自販機から常温の缶コーヒーを二本取り出し、一本をタイタンに渡した。
「申し訳ありません」
「いや、しかたないよ。気にしないで。……それより、ちゃんと”シメ”ておいた?」
「ちゃんと、アタマは切っておきましたから。大丈夫なはずです」
食道を逆流しそうなコーヒーをなんとか抑え込み答えた。
生ゴミ用のコンテナの隅に、”それ”は置かれていた。
甘ったるい腐敗臭とわずかに糞尿の臭いがコンテナの中には充満していた。
さっさと二人で”それ”を運び出す。ビニールシートと荒縄でぐるぐる巻きにしたそれを……。
俺はアタマの方を、タイタンは足の方を持って、
「やっぱり、外に運び出すしかないですかね?」思わず俺は憂鬱そうな声で尋ねた。
「それが一番でしょ。少々リスクはあるけど……。もうじゅうぶん日は高いし、活性は低いだろうから」
切り落としたアタマが、ビニールシートの中でグラグラと揺れている。
作業を終えると、タイタンに重ね重ね礼を言い、俺は一階のバーガーショップのカウンター席でタバコを吸うことにした。
バーガーショップには先客がいた。五十代の髭面の大男と、日焼けした肌と白い歯のギャップが印象的な女性、……山の夫妻だった。
「よ! おはよう」
「おはようございます」
山の旦那。そう呼ばれている彼の本名は、山本悟朗、小さな建築会社の経営者……だった。
山の奥さん。彼女の本名は山本かおり。そう、山の旦那の奥さんだ。
二人は学生時代、山岳サークルで出会ったのだそうだ。共通の趣味があることが夫婦円満の秘訣だ、と語っていたことがあるが。このご時世、山登りもなかなか行けないだろう。
俺は二人から少し離れた禁煙席に座り一服した。
山の奥さんが温めたコーヒーをすすめてくれた。先ほど、空きっ腹に缶コーヒーを流し込んだばかりで胃がムカムカしていたが、いただくことにした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
山の奥さんから、山登りに持っていくようなアルミのマグカップを受け取る。
ひどく熱いコーヒーだった。舌を火傷しないように、恐る恐る啜る。
スピーカーからは、シンディー・ローパーの”タイム・アフター・タイム”が流れていた。
ロニーの選曲にしては、上等だと思った。
コーヒーの熱い湯気と、甲高い歌声が、鼻腔の奥に残っていた腐敗臭を洗い流してゆく気がした。
朝礼に集まったのは六人。
地下一階の生鮮食品レジ前には、一般家庭で使うようなテーブルセットが置かれている。これも三階の家具売り場から運んできたものだ。
「あ、コトちゃんは夜勤だったんだ」山の奥さんがここにはいない人物の名前を言った。
「そうです。……それじゃあ、さっそくはじめましょう」
俺は大学ノートとボールペンを用意しながら音頭をとった。
そう。この中で俺は、なぜかリーダー的なポジションにいる。
なぜそうなったのか、それはまあ、色々あったわけなのだが。
それでも、年長者であり、会社経営者という実務経歴のある山の旦那さんが適任だと、そううったえたこともあるのだが、「いや、俺は親父から継いだ会社の椅子に座っていただけだから……」と一蹴されてしまった。
「まずは、在庫管理からいきましょうか。何か、一週間以内になくなりそうなものはありますか?」
「隊長ぉ、俺、久々にビールが飲みたいっす!」ロニーがだらけた声を上げた。
「却下!」
「ええ!」
「それだけの為に外出なんてできるか」
ロニーは不服そうにケッとそっぽを向いた。
「なあ」山の旦那が毛むくじゃらの太い腕を持ち上げ発言した。「マヨネーズって手に入らねーかな? 急ぎってわけじゃないんだが、夏野菜が収穫できたらレシピが広がるからな」
「マヨネーズなら、手作りできるんじゃないですか?」タイタンが言った。
「お酢と油はあるんだけどね、卵が必要なのよ」山の奥さんが答えた。
「あ、そうか。それは高級品だ……」タイタンはつぶやいた。
「なるほど、マヨネーズですね……。試しに、卵についての情報も集めてみます。田舎の方のコミュニティなら、鶏を飼育しているところもあるかもしれません」
おそらくマヨネーズくらいならどこかに保管されているだろう。
もしかしたらこの店内に残っている可能性もある。
ノートに、”マヨネーズ”、”卵(仮)”そして、密かに”ビール”……と書き記す。
外出がなければ、日がな一日、俺はバリケードを点検して回る。午前中だけで十か所の点検を終えた。補修が必要な個所は見当たらなかった。近頃は、まったくもって平和なものだ。
ロニーの正午の放送が始まったのを合図に、俺は三階の家具屋に向かった。
キングサイズのベッドに横になっているのは、この店の、もう一人の住人、コトだ。
仰向けで、両手を腹の前で組み、両足はきっちりと揃えた形で、つまりはまるで一本の棒のような姿勢で目を閉じていた。
さながら、眠れる森の美女か……。いや、それにしては格好が問題だ。
黒のタンクトップに、迷彩柄のカーゴパンツ、おまけにコンバット・ブーツを履いたままときた……。
形の良い胸が、規則正しく上下している。
俺は、いつも通り、指をパチンと鳴らした。
それを合図に、彼女の目がパッと開かれた。まるで、アンドロイドが起動したみたいだと思った。
「現時刻と、状況説明を……」コトが、今まで眠っていたとは思えないような鋭い目を俺に向け聞いてきた。
「現時刻、正午を二十分過ぎたくらいだ。状況、まったくもって、異常なし」
彼女は上体を起こすと、乱れたショートの黒髪を両手で後ろに撫でつけた。
彼女の名前はコト。本名、月村美琴。……ああ、それは”旧姓”だった。しかし、厳密にはそれでいいだろう。彼女の夫はもうとっくにこの世にはいないのだから……。
コトは俺の幼馴染だ。なぜかこの東京で、二度も再会した。奇妙な縁だが、その二度目の縁のおかげで、こうして一緒に暮らしている。
一緒に暮らしているというと、……つまりは、”そういう関係”だと言っているようだが、そうではない。
彼女はこのコミュニティ、……つまりはこの店の仲間たちと同じく、共にこの世界を生き残るための同志なのだ。
今は、それ以上でも、以下でもない。
彼女は、自衛隊員……だった。
それも、特殊作戦群という、まるでスパイ映画にでも出てきそうな任務を主とする部隊だったと聞いた。
しかし、それを聞かされたのはつい最近のことだ。なぜなら、そこに所属する者は、家族にすらその事実を伝えてはならないという決まりがあるかららしい。
「飯、食うか?」俺はいつものように軽い調子で聞いた。
「ありがとう……。いつもの場所でいい?」
「うん」
なんだか、いい感じだ。俺の勘違いだろうか。まぁ、なんにしろ、悪くない。
しかし、その時スピーカーから流れ始めたのは、ヴァン・ヘイレンの”悪魔のハイウェイ”だった。
思いっきり水を差された気分だ。やはり、リストからビールは消しておこうか……。
五階のフードコートの一席で、俺とコトは向かい合って食事をした。
俺にとっては昼飯、コトにとっては朝食だ。
今日のメニューは、ご飯と、モヤシだけの味噌汁。シーチキンの缶詰と、キャベツをコンソメスープで煮たものだ。
ご飯と汁物は、山の奥さんが皆の為に作ってくれる。六人の二日分を……。つまりは、山の奥さんの二日に一回の仕事だ。
キャベツのコンソメ煮は、俺が先ほどパパっと作ったものだ。キャベツは山の夫妻が屋上で育てたものだ。コンソメスープの素とシーチキンは、もちろん地下一階にあったものだ。
「昨日、なにかあった?」そう言って、コトは味噌汁を啜った。
「え、なに。別に、……なにもないけど」
俺は役者にはなれないか。
「銃声……。したようだから」コトはお椀を置くと、俺を上目遣いに睨んだ。
それは、コトが夜勤に備え、ひと眠りしていた時のことだ。
まさか、というか、……やはり、聞かれていたか。
「ああ、……バリケードに近づいてきたのがいたから、念のため……な」言ってはみた、が、
ああ、演技力が欲しい。せめて、俺のこの心臓は下手くそなドラムをやめてくれないだろうか。
お前のせいですべてが台無しになりそうだってんだよ!
「そういえばさ……。昨日、梨元の夢を見た」
彼女の右手がピクリと動いたのがわかった。しかし、その目は、俺をしっかりと見据えている。
俺は、後悔した。苦し紛れに切り出した話は、非常によくない。ああ、本当によくない……。
「そうか……。どんな夢だった?」
「わかんない……。よく覚えてないんだけど……。まあ。元気そうだったよ」
なんてバカなんだろう! なんてバカなんだろう! なんてバカなんだろう! 俺は……。
彼女はシーチキンに箸を伸ばした。その手が、少し震えている。
本当に、なんてバカなんだ。
「まぁ、夢は夢だ……」
そう言って彼女はシーチキンを咀嚼しはじめた。
俺は、何も言えなくなった。
梨元が、今もどこかで元気にやっている。そんなことがあるはずもない。
それは、俺が一番よく知っている。
なぜなら、……彼女の、コトの夫……、梨元は……、
今朝、
俺と、タイタンとで、
今朝、
外の駐車場脇の植え込みに、
……。
埋めたのだから。