4.なんだかいい感じ?
「今日は何にする?」
「そうだなあ。思いきり怖いのがいいな」
夕食の後、二人で散歩がてらDVDを借りに行く。これがこの三日間の日課になっていた。見終わると、ひとしきり感想を言い合ってから寝る。さすがにあれ以来同じベッドに入ってはこないが、ひのきは私のベッドのすぐ下に蒲団を敷いて寝ていた。
ひどく寝付きのいい子で、「お休み」と横になった途端、気持ち良さそうに寝息を立てる。
今日はひのきの要望でホラー映画を見た。彼はホラーマニアだったのだ。見終わって十二時近くになると、彼は大きな欠伸をして、
「ゴメン。眠くなったから寝るよ」
と、横になり五分も立たないうちに寝息を立てた。
私はと言えば、ホラー映画のせいですっかり眠気は覚め、一人取り残された気分だった。
しんとした部屋の中にいたら、ふいに須田さんの事を思い出した。須田さんは恋愛物が好きで、泣くために見るんだと言っては、私の前でもポロポロと涙を流していた。あれから会ってないけどどうしているだろう。
「別れて欲しい」
あの時須田さんは、悩み抜いた末に、やっとの思いでその一言を口にしたに違いない。
それを私は焼鳥を頬張りながら、あろう事か保留にしてしまったのだ。
あれ以来電話もない。こちらから携帯に電話しようか。
けれど、もし連絡がついて会ったとしても、その時点で別れは決定的になってしまう。
今でも決まったようなものだけれど、会わなければそれだけ別れは先になるような気がする。……もうこのまま二度と会えないかも知れない。
考えていたら、須田さんの顔や手、紺のスーツが急に恋しくなって泣きたくなってきた。
「だめだ。だめだ」
ビールでも飲もうと冷蔵庫を勢いよく開けた。その瞬間、急に大事なことを思い出した。
―明日は学校―
私は担任を持たない臨時の美術教師だけれど、それでも行かない訳にはいかない。
問題はひのきだ。いくら打ち解けたと言っても、一人ここに残していくには抵抗がある。
そうかといって、私が帰るまで締め出すのも可哀相。
「やっぱり信じてないんだね」
と、またあの子犬のような瞳で私を見るかも知れない。
「どうしようかなあ」
ベッドに腰かけて、小さくつぶやくと、
「何が?」
足元で、ひのきがパチっと目を開けた。
「起きてたの?」
「いや、今起きた。姉さんの声で」
「ずいぶんとタイミングがいいいわね」
「うん、どうしようってどうしたの?」
私が明日は学校だと言うと、ひのきは事もなげに、
「じゃ、僕、東京見物してくる。行ってみたい所あるし」
「いいの?」
「だって、僕一人、ここに残るわけにはいかないでしょ?」
強引に上がり込んできた割には素直に聞き分けてくれた。
「どうしようってそのことだけ?」
「うん、一応」
「じゃ、問題解決。おやすみ」
ひのきはそう言うと、タオルケットをかぶってしまった。
次の朝、何となく鼻をくすぐる甘い匂いで目が覚めた。
ハッとして起き上がって枕元の時計を見た。七時を回っている。
「やばい!寝坊した。ひのき!」
が、下にいない。
「あれ、ひのき出かけちゃった?」
急いで起き上がった私の目に飛び込んできたのは、テーブルの上のご飯と卵焼き。そしてちょうどお椀に味噌汁をついでいるひのきだった。
私の顔を見ると、
「おはよう。何時に行くのか分からなかったから起こしていいものかどうか考えちゃった、よ……あっ姉さん、パジャマが」
ひのきが俯いて口ごもる。
「何よ」
と、自分を見て驚いた。何とパジャマの前のボタンが全開だった。いつもの習慣で、ベッドから起き上がった時、全て外してしまったらしい。
「あっ」
私は後ろを向いた。とりあえず下着は付けていたのでほっとした。
「あの……作ってくれたのね。朝ごはん」
「うん、卵焼きだけ」
「ありがとう。でも、もう遅刻なの」
私は時計を見た。どう頑張ってみても間に合いそうもない。
「休んじゃおうかな」
私が呟くと、ひのきは真面目な顔で
「駄目だよ、駄目。早く支度して。あっ自転車持っている?」
「うん」
「じゃ、駅まで乗せていくから。ほら早く」
そう背中を押して、急き立てた。
私は言われるままに急いで顔を洗って身支度をした。せっかく作ってくれたので、一口だけ卵焼きを口にした。ほんのり甘かった。
朝の太陽に照らされた眩しい道を、ひのきが猛スピードで自転車をこいでいく。
「ちゃんとつかまって!振り落とされるよ」
ひのきが怒鳴った。私は彼のお腹に思い切り抱きついた。事実、乱暴な運転で、私は本当に落ちるかと思った。それでもひのきの身体は意外にガッチリしていて、何だかくすぐったい気分だった。
駅に着くと、彼は私の乱れた髪を撫で付けると、
「じゃね」
と、クルリと向きを変え、またフワリと自転車にまたがって帰っていった。白いシャツを風になびかせていく後姿に何だかじんとしてしまった
が、突然Uターンをしてきたかと思うと、真面目な顔を近づけ小声で
「姉さん、結構胸あるんだね」
「なに!」
「さっき、グイグイ押し付けてくるから、びっくりしちゃった。今朝もビックリしたけど」
私は手に持っていたバッグを振り上げた。が、ひのきは私の横をすいっと滑るようにすりぬけた。
「こら!」
私の声に彼は振り向かず、手だけをヒラヒラを振って行ってしまった。
夏休みの学校は退屈だった。
ひのきのお陰でほんの少しの遅刻ですんだし、とりたてて重要なことは何もなかった。
学校は進学校で、みんな頭の良い小利口な生徒ばかり。夏休みに問題をおこすような子はいないのである。
美術科研究室で、主任の先生と二学期の打ち合わせをしながら、窓の外をぼんやりと見ていた。今頃、わが弟はどこで何をしているやら、迷子になどなっていないかな。
たいした用事もない割に帰りが遅くなってしまった。校門の所で国語の坂井教師に呼び止められた。
二、三度、誘われて一緒に食事をしたことがあるのだが、話し出すと妙にテンションが上がって回りが見えなくなる癖があった。それもいかに自分が多くの作家に精通しているかという自慢ばかりで、はっきり言って退屈だった。一度、高村さんはどんな本が好きですか?と聞かれたので、正直に
「ドラゴンポール」
と、答えたら妙な沈黙を誘ってしまった。
一緒に帰るとはひとことも言っていないのに、なぜか隣に並んで歩き出した。
「僕の家には書庫があって、休みの日には一日中そこにいるんです。今度いらっしゃいませんか?高村さんに読んで欲しい本が沢山あるんです。坂口安吾とか」
「えっ誰?」
知ってはいるけれど、敢えて知らないフリをした。
「そこで飲むコーヒーはいいですよ。本に囲まれてコーヒーなんて最高ですよ」
めげない奴だな。このまま黙っていると、家まで連れて行かれそう勢いだ。
「あの、私」
ここで失礼します。と、言いかけた瞬間、
「姉さん」
と、後ろから声がした。振り向くと、ひのきが大股で走ってくる。
「ひのき、どうしたの?」
「来ちゃった」
ひのきは、へへへと笑って頭を掻いた。
「来ちゃったって、よくここが」
「携帯の番号は聞いてないし、家に電話したら、まだ帰ってないみたいだったから。でもまさかちょうど良く会えるとは思わなかったけど」
そう言うとひのきは、私の隣にいる坂井に向かって、「あっどうも」と、頭を下げた。
坂井は怪訝そうに、私とひのきを交互に見比べていた。
「あっ坂井先生、この子私の弟なんです」
坂井は、
「はあ弟さん?居たんですか?高村さん一人暮らしでしたよね。」
と、不審げな顔をした。
「ええ、今夏休みで田舎から出てきたんです。だから色々忙しくて、それじゃ坂井先生、
新学期にまた」
私はひのきの腕を掴むと早足で歩き出した。
ひのきは、あれ?あれ?と、私に引きずられていった。
「姉さん、いいの?」
「いいのよ。別に一緒に帰るつもりなんか無かったんだから」
「そうじゃなくてさ」
「あの人、退屈なんだもの」
「だから、弟って言っちゃって」
「え?」
そこで私は始めてその事に気がついた。
「大丈夫?」
ひのきは心配そうに私の顔を覗きこんだ。
家族関係が学校で問題にされるという話は聞いた事がないから、たぶん大丈夫だろう。それに……
「弟なんでしょ?」
「弟だよ」
「じゃ、平気でしょ。それよりよくわかったわね、ここが」
「うん、交番で聞いた。ちょっと見てみたいと思ってさ。そしたらちょうど良く、姉さんが誰かと歩いているのが見えたから。声かけちゃ悪いかと思ったんだけど、なんか姉さん迷惑そうにしていたから。まずかった?」
「とんでもない、グッドタイミング」
「やっぱりね。そうだと思った」
「それより、東京見物してきたんでしょ。どこ行ったの?」
ひのきは嬉しそうに頷くと、上野動物園、浅草、池袋、原宿と、指を折った。
「何それ、まるで子供の修学旅行ね」
「うん」
ひのきは不意に黙り込んで、夕焼けに目をやった。私より頭半分くらい高いその横顔の、なだらかな鼻梁から顎へと続くすっきりとした線が好ましかった。私の顔立ちは母親似とよく言われるように真ん丸いが、この子と共通する部分があるのだろうか……




