3.姉弟って…
「やっぱり取り立ては美味しいね」
たった今、茹で上がったばかりの枝豆をプチプチと口に放り込みながら、ひのきは言った。私は缶ビールを飲み、ひのきはコーラを飲んでいた。夏の暑い一日が過ぎ、開け放した窓から秋を思わせるような涼しい風が時折吹き込んできて、心地よかった。
テーブルの上には、電話で父が送るよと言った枝豆がザルに山盛りだった。土付きのまま送られてきたので、夕方二人で房をはさみで取った。
「小さい頃、枝豆の房を取るのは私の仕事だったわ」
私が何気なく言うと、ひのきは
「僕も。父さんよく持ってきてくれたよ。畑で取れた枝豆とか、茄子とかきゅうりとか」
「そう」
あれから三日、何故かひのきは家にいた。
あの後も、私はどうしても父に本当の事を聞けずにいたので、弟と確認した訳ではない。
まったくの赤の他人かも知れないのだ。
よく考えればとても尋常な事ではなく、早く対処するべきなのだろう。けれど私はこの少年の存在が、どうしても現実のものとは思えず、まるで夢の中にいるみたいな感覚だった。
そしてそれは、私にとって何故かとても心地よいものだった。しかし、いつまでもそうしてはいられない。
「ねえ、あなたの事聞いていい?」
次々と美味しそうに、枝豆を口に放り込んでいく彼に、私は意を決して言った。私はひのきの事をまだ何も知らなかった。
彼は黙って頷いた。
「えーと、まず、どうして私の住所を知っていたの?それから、ここへ来るのを長野の家には何て言ってきたの?誰と住んでいるの?その……お母さん?」
「母さんは死んだんだ。僕が中学生の時。今はばあちゃんと住んでる」
「おばあさんには何て言ってきたの」
「もちろん姉さんの家に行くって」
「えっ?」
「姉さんの家では何も知らなかったかも知れないけど、うちでは姉さん達の事、何でも知ってた。父さんが来る度、何でも話してくれたから。
どこへ行ったとか、何を食べたとか、どこの学校へ入った、何の仕事をしているとか、嬉しそうに。ここの住所も、もちろん父さんから聞いたんだ」
うれしそうに……あの父さんが。
「父さんとはよく会うの?」
「ううん。母さんが死んでからは電話がほとんど。ここへ来る二日前にもあったよ」
えっ?ということは……
「父さんはあなたがここへ来る事を知っているのね」
「あっそれは言ってない」
「でも、来てもいいって、うちの家族に知られてもいいって思っているのね」
「うーん。それは違うと思う」
「どう違うの?」
「どう言えばいいのかな。つまり、知られちゃ困る。けど、知って欲しい」
「なにそれ」
「だからさ、父さんにしてみれば、姉さんの母さんの気持ちを考えれば、なるべく事は荒立てたくはない。でも、姉さんや兄さんや僕は皆同じ自分の子供だっていう、微妙な心境じゃないかな?」
「微妙な心境。あの父さんが」
「まあ、男の身勝手というところかな」
「あなた、結構大人なのね」
私が感心していうと、まあねと、コーラを一気に飲み干した。
「それはそうと、あなたのお母さんも寛大な人なのね。私の家族の話なんか聞いて、怒らなかったの?」
「うん。楽しそうだったよ。母さんてそんな人だったんだ」
「へえ」
ひのきは遠い目をした。その表情が誰かを思わせた。ああ、そうか大樹兄さんに似ている。やっぱりこの子、本当に……
「ひのき」
「あっ」
ひのきは小さく声を上げると、はにかんだように笑った。
「なに?」
「名前呼んだ。今、はじめて」
「あっ」
今度は私が声を上げた。二人で目を合わせて笑った。
「ひのきっていい名前だわ」
「父さんが付けたんだ。青葉もいい名前だね」
「父さんがつけたのよ」
何となく二人で黙り込んだ。
「もっと色々聞かないの?どうやって母さんと知り合って、どうして僕が生まれたとか」
「もう、いい」
やっぱり現実にはしたくなかった。私もビールを一気に飲み干した。
「じゃあ姉さんの事聞いていい?」
「何でも知っているんでしょ?」
「そうだけど、プライベートは知らないから」
「プライベートはプライベート。言えない」
「弟でも?」
「そう、弟でもよ」
「ちぇっ」
ひのきはつまらなそうに口を尖らした。
「うそよ。たいしたプライベートじゃないわ。何が聞きたいの」
私は冷蔵庫から、もう一本缶ビールを取り出した。横からひのきが手を伸ばしてきたので、ピシャリと叩いた。
「痛っ、よっぱらいの暴力教師だなあ。いつもそんなに飲むの?ほら、僕が来た日も」
「ああ、あの日は」
そういえば、ひのきが来たことで、すっかり忘れていた。須田さんと別れ話。
「いつもって訳じゃないわよ。あの日は特別。一応聖職者なんだもの」
「生殖?子供産むの?」
私はビールを思わず口から吹き出した。
「あほっ!大人だなんて前言撤回ね。高校二年にもなって。辞書引きなさい、辞書」
私は本棚から国語辞典を取り出すと、ひのきに放り投げた。ひのきはヒョイと受け取って、床に座り込んで胡坐をかくと、せいしょくしゃ、せいしょくしゃとブツブツ呟きながら真面目に探していた。その神妙な様子が可笑しかった。
窓から入る風が、ひのきの髪をフワリと揺らした。その髪を彼はクシャクシャと片手で掻いた。
弟のいる生活ってこんな感じなんだな。兄の大樹は私より五歳年上だが、長男という事もあって、常に大人でどこか尊大なところがあり、近寄りがたい存在だった。
その兄に似た風貌を持ちながら、ひのきは十何年もの隔たりをヒョイと飛び越えて、子犬のようになついてくる無邪気さを持っている。
私は彼が「姉さん」と、私を呼ぶ度に妙なくすぐったさと、馴染んでいく自分の心に戸惑いを覚えた。
「ひのき、お腹すかない?そろそろ夕ご飯作ろうか」
「うん、腹減った」
二人でキッチンに立った。ひのきは勝手しったる様子で戸棚から、包丁や鍋を出し、更に調味料などを、あれこれ並べ始めた。
ひのきはここへ来て三日、ずっと私と行動を共にしていた。買物、料理、洗濯、掃除、常に側に居て手伝ってくれる。
「ひのき、いい主夫になれるよ」
「だろう。僕、家事の才能あると思うんだ」
私は今日の買物袋から、茄子、ピーマン、ひき肉、根しょうが、豆板醤と、一つずつ取り出して置いた。
「どう?今日は何?」
「えっと、マーボー茄子」
「ピンポン!大正解」
「へへ、全勝だね」
ひのきはそう言うと、包丁を握り、ピーマンのヘタを横にポンと切り落とし、実を手の平でトントンと叩いて、中の種を落とした。
「あれっ?」
私は思わず声を上げた。
「何?」
「ううん。ピーマン、そうやって切るんだ?」
私は縦に二つに切ってから、中の種を手でえぐりだす。母がそうしているからだ。
「変?」
「ううん、料理誰に習ったの?」
「えっ母さんと、ばあちゃんかな」
「ねえ、りんごの皮はどうやって剥く?」
「いきなりどうしたのさ?」
「私は切ってから剥く。ひのきは?」
「僕?えーと、グルグル剥いてから切る」
「じゃあ、トマトに何つけて食べる」
「何だよ、醤油だけど」
「私は塩よ」
「どうしたんだよ?」
ひのきは不思議そうに私を見た。
須田さんと初めて一緒にキッチンに立った時、私がピーマンを縦に切っていたら、
「ヘタを横に切ってからの方が種がきれいに落ちるらしいよ」
と、何気なく口にした。誰が言ったの?
私のさりげない問いに須田さんは、一瞬押し黙った後、
「いや、うちの奥さんが……」
と、口ごもった。私はそれ以来、向きになってピーマンを縦に切っている。
「ひのきのお母さんてさ。やっぱり」
「母さんがどうしたの?」
「父さんが、うちの家族の話をするの嫌だったんじゃないかな」
「どういうこと?」
ひのきはさっぱり分からない様子だった。
「何でもないわよ。それより先に茄子を切って、水につけて。アクが出るから」
「うん、わかったけど、さっきの話、何?」
「いいの。気にしないで」
「気になる。なに?」
「なんでもないわよ。女も身勝手だってこと」
「なんだそれ。全然わかりまへん」
ひのきはおどけて首を振った。頭のいい子。
きっと私の反応を見て、それ以上追求しない方がいいと判断したに違いない。
「ひのき、結構苦労人だね」
「なんだそれ」
「ふふふ。ところでひのき」
私はさりげなく話題を変えた。
「夏休みの宿題どうしたの?出てるでしょ」
「あっ、家に置いてきた」
「うそ!バッグの中にあったじゃない?」
私は手近にあった菜箸でひのきの頭をポンと叩いた。
「痛っ、またかよ。なんか姉さん、それ快感にしてない?」
そうかも知れない。いい気分だ。
「宿題の話よ。どうなの?」
「うん、まあ、一応半分くらいは」
「本当でしょうね。後で出しなさい、見てあげるから」
「まいったな。学校でもこうなの?僕、生徒に同情しちゃうな」
「生徒を叱るのが、教師の醍醐味よ。ほら、ブツブツ言わない。手がお留守になってるよ」
「はーい。青葉先生」
ひのきはそう言って笑うと、茄子のヘタをストンと切り落とした。えっそこ落しちゃうの?と、言いかけて止めた。
山盛りのマーボー茄子と、春雨サラダを作った。美味しい、美味しいと、二人で全部平らげた。