2.本当に弟?
そして朝、私は目覚めた。胸苦しさと共に。
夢うつつの中で、私は隣に須田さんがいるような気がして無意識に手を伸ばして抱きつ
き、そしてハッとした。
違う、抱き心地が!
目を開け隣に目をやると……いるではないか!昨夜いきなり現れ、弟だと言いはって、部屋に上がりこんできた少年が!確か、ひのき。
まさか、私は思わずタオルケットをめくった……が、服は昨日のままだ。ホッとした。
「それにしても」
私は二杯目の麦茶を注ぎながら、まだ目を覚まさない彼を見つめた。
昨夜は酔っ払っていて眠かったから、きちんと考えられなかったけれど、朝になって冷静になってみれば、とんでもない話だ。私に弟だなんて。
私の家族と言えば、新潟の片田舎で細々と農業を営む両親と、今は結婚・独立し、実家の近くに住む公務員の兄だけだ。ずっとそう思っていたし、疑うなんて一度も無かった。
それは母も兄も同じこと。父は本当に朴訥とした素朴な田舎の人で、そんな、外に女の人を作れるような器用な人じゃないはず。もちろん子供だなんて論外である。
第一、新潟で農業を営む父に、何で長野に子供がいるのか。
だけどこの子、私と家族の事、よく知っているようだし、ここの住所だって……それにあの写真、父さん満面の笑みをたたえてた。
しかし、仮にまったくの嘘だとしたら、この子はいったい誰で、目的は何だろう。
わからない……
部屋の中は、熱気で蒸し暑かった。私はエアコンのスイッチを入れた。冷風が部屋の中に一気に行き渡る。それに気づいたのか、寝入っていたひのきがのそりと身を起こした。
「おはよう。姉さん」
彼は私に声を掛けた。私はどう答えてよいか分からず、とりあえず
「おはよう」と、答えた。
カーテンの隙間から漏れる光に目をやると、
「いい天気だね。どこか行かない?」
ひのきはくったく無く笑った。あきれた。
「どうしたの?大丈夫?」
ぼんやりと椅子に座ったままの私を、ベッドから下りてきたひのきが覗き込む。
「大丈夫じゃないわ。それより何で勝手にベッドに入ってきたのよ」
「あっ何にもしてないよ」
「当たり前よ」
「ベッドの方が気持ち良さそうだったから。いいじゃない、姉弟なんだから」
「まだ認めたわけじゃないわよ」
「頑固だね。確かめてみたら」
「どうやって?」
「聞いてみればいいじゃない。父さんに直接」
「そんなこと……」
してもいいのだろうか。でも、今の状況からして、電話して聞いてみるのが一番だ。
とりあえず、父がひのきの事を知っているのは確かなのだから。それにしても、ひのきのこの落ち着きようときたら。ますます私を不安にさせる。
私は受話器を手に取った。でも、何て言えばいいのだろう。
「父さん、よそに女の人がいたんですか?」
そう聞くの?聞くしかないか、やっぱり。押し慣れた番号なのに手が震えた。
「はあい、高村です」
のんびりとした母の声。
「あっ私」
「あら青葉、久しぶりだね。元気?」
「ウン、母さんは?」
「元気だよ。今日は朝から大樹達が来ていてね、てんてこ舞いだよ」
大樹は兄である。母の声の向こうが随分と騒がしい。兄の子供だろう。
「青葉の学校も夏休みでしょ?いつ帰ってくるの?」
「夏休みって言っても、教師は研修とか色々忙しいのよ。それより父さんいる?」
「いるわよ。ちょっと待っててね」
胸がドキドキした。ちらりと目を上げると、ひのきと視線がかち合った。真剣な目、茶色のきれいな瞳だった。一瞬、不思議な感覚に襲われた。何だろう……
「もしもし、青葉か?」
「父さん」
「元気か、変わりないか?」
「うん、父さんも?」
「ああ、今年は天気が良くて、枝豆がよく育っているぞ。明日にでも送ってやろう」
「あのね、父さん」
後が続かない、切り出せない。この父がまさか。あらためて思った。
「もしもしい」
電話の向こうが急に幼くなった。甥の広樹に受話器を奪われたらしい。
「もしもしい、おばちゃん、あおばちゃん」
広樹は青葉おばちゃんと言えないので、そのまま「あおばちゃん」と、私を呼ぶ。
その可愛らしい声に気勢を削がれ、私はそのまま兄や義姉と世間話をして、電話を切ってしまった。
「どうして聞かなかったの?」
ひのきが私に顔を近づけた。私はグイと彼を押しやった。
「だってあの雰囲気じゃ、ちょっと聞けない」
「そう、それじゃ後は姉さん次第だね」
「何が?」
「信じるも、信じないも」
「そんな簡単にはいかないわよ」
「ちぇっ」
ひのきは口を尖らすと、じゃあこれならどう?と、バッグからもう一枚写真を取り出し、差し出した。
それはまさしく私の写真だった。それも高校入学の時、実家の前で撮った写真で、私は三つ編みに紺のセーラー服姿だった。
「どうしたの?これ」
「もちろん父さんから貰ったんだよ。姉さんだって…」
ひのきは写真をかざしながら、
「可愛いよね、この写真。ずっとこれが姉さんだって思っていたから、昨日酔っ払いが部屋の前に来た時、びっくりしちゃったよ」
「悪かったわね。まさか今でも、お下げでセーラー服着ていると思ったわけでもないでしょ?」
「思った!」
「あほ」
私はテーブルの上に置いてあった新聞で、思わずひのきの頭をポンと叩いた。
「ってえ」
ひのきは大げさに頭を抱え込んで、にやりと笑った。そのやりとりが、あまりにも自然だったので、自分でもハッとして驚いた。
ひのきは気にも留めていないのか、大きな伸びをしてあくびをしていた。
私は何だか気恥ずかしくなって、立ち上がって、部屋のカーテンを一気に開けた。
真夏の眩しい陽射しが差し込む。
ひのきは明るくなった室内を物珍しげに、しげしげと見回した。
「あんまりジロジロ見ないでよ」
「ごめん。女の子の部屋って初めてなんだ」
「女の子って、口のきき方を知らない子ね」
「あっあれ何?」
私の言う事など全然聞いていない様子で、部屋の隅に立てかけてある、カバーの掛かったイーゼルを指差した。
「油絵だけど」
「見ていい?」
と、言うが早いか、カバーを取ってしまった。
「ちょっと、見ていいなんて言ってないわよ」
ひのきはおかまい無しに、絵の前に立って眺めていた。それは、半月前くらいから取り掛かっている、静物画だった。
「これが姉さんの絵なんだ。見かけによらず、ダイナミックだね」
「わかったようなこと言って」
「でも、さすが美術の先生をしているだけあるよ」
「そんなことまで知ってるの……」
「うん、何でも」
言葉も無かった。
私は気を取り直して、少し厳し目に訊いた。
「ところで、いったい何?」
彼は質問の意味がわからないらしく、
「何って何が?」
「だから、いったい此処へ何しにきたの?」
「目的ってこと?」
「そう。仮にあなたが私の弟だとしても、いきなり現れた目的よ」
「仮にって、まだ信じてないの?」
「質問に答えて」
ひのきは、うーんと考え込むと、
「別にない。しいて言えば遊びに来た」
「遊びに来たあ?」
「ウン、夏休みだし。それじゃ駄目?」
「あきれた……追い返されるとか、大騒ぎになるとか、考えなかったの?」
「えっ?あっそうか。そういう可能性もあったんだよね。うん、全然考えなった」
「何で?」
「わかんない。でも現に僕、今、ここにいるしさ」
わかんないのはこっちの方。何て子だ。
「それより腹減った。昨夜から何にも食べてないんだ、僕」
すがるような目つきで、私を見るひのきに負けて、私はキッチンに立った。
「ハムエッグとトーストでいい?」
「あっ僕、卵二つ、半熟ね」
「はいはい」
天衣無縫、傍若無人。屈託のないその様子に、私はすっかり丸め込まれてしまった。