1.嘘でしょう?
ある日突然、まるで降って湧いたかのように私に弟が出来た。
茶色の瞳と柔らかな髪を持ち、脳天気で人懐こい癖に、何故か時折、ひどく淋しそうな顔をする。まるで子犬のような少年、それが『ひのき』だった。
「青葉、別れて欲しい」
八月の初め、真夏にもかかわらず、随分と冷たい雨が降る土曜日の夜だった。
ごくありふれた居酒屋のカウンターで、須田さんは、追加の炭火焼き鳥を頼むのと同じ口調で、私の名を呼びそう言った。
「なに?」
私は軽く瞬きを繰り返しながら、彼の顔をじっと見つめた。
それから、何でそんな事をしたのか自分でもよくわからないが、急に右手に握り締めていたつくねの焼き鳥に、思い切りかぶりついた。
カウンターの中では、白い上っぱりを着た店員さんが、くるくると焼き鳥の串を回しながら、事の成り行きを盗み見ている。
「どうして?」
もぐもぐと焼き鳥を頬張りながら、私はその間抜けな一言を、やっと口にした。
須田さんんは、これ以上ないと言うくらい真面目な瞳をして、
「やっぱり妻が……」
「やめて」
私は小さく遮った。
「青葉?」
「それ、今じゃなくてもいいでしょ?」
「え?」
須田さんは、私の言葉の意味が解りかねたのか、戸惑った顔をして私の様子を窺っていた。私は何とかこの場を逃れたかった。妻がいる人なのだ。いつかこの日が来ることも覚悟していた。別れの予感はいつでも胸の奥にあった。けれど、あまりにも突然過ぎる。少しでも先に延ばしたい。
焼き鳥を噛み砕く間、まるで子供のように浅はかで稚拙な策をこらした。
「その話、とりあえず今は保留にしてくれない?だって、そういう話って、もっと場所とか雰囲気とかあるじゃない?居酒屋で、焼き鳥を目の前にしてするものでもないでしょ?」
自分でも変な理屈だとは思ったが、平静を装いながらそう言うのが精一杯だった。
それもそうだと言う風に、カウンターの中の店員さんは頷いていた。さっきからずっと聞き耳を立てていたらしい。
私はその人に向かって、ビールのお代わりを頼んだ。
「よろこんで!」と、大きな返事が店中に響いた。
須田さんは予想外の私の反応に、後が続けられなくなったのか、大きく息をつくと、
「そうか……わかった。ごめん」
と、呟くように言った。
結局その話はそこで打ち切り、後日という流れになって、そのあとも二人で食べては飲み、店を変え、あげくはカラオケにまで行ってしまった。
何でこんな展開になってしまったのかな。
次の日、妙な胸苦しさで目が覚めた私は、隣に寝ているその男性を眺めながら、自問自答を繰り返した。私の身体に、半分顔を埋めるようにして、気持ち良さそうに寝息を立てている彼は、昨日私に別れを切り出したその人ではない。
かと言って、私が失恋のショックに、行きずりの男性を引っ張り込んだのかというと、それも違う。事実別れ話は後日になったので、まだ失恋はしていないのだ。
柔らかそうなクシャクシャの髪に包まれたその寝顔は、まだ幼さの抜け切れていない少年だった。私は、何の遠慮も無く私にへばり付いているその少年を、脇へと押し退けると、二日酔いで重い身体を起こして、ベッドから降りた。
枕元の時計を見ると、もうお昼になろうとしている。
ひどく喉が渇いていて、頭がガンガンとしていた。身体も汗ばんで気持ちが悪い。
そういえば、お風呂も入らずに寝てしまったのだ。この少年のせいで……
冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出し、一気に飲み干すと、昨日からの事の成り行きを思い出してみた。
昨夜あれから、送っていくよという須田さんを断って、一人でアパートに帰った。
部屋の前に誰かが座り込んでいる。私に気がつくと、ハッとしたように立ち上がり、ペコリと頭を下げた。私はずいぶんと酔っ払っているのが自分でもわかったので、部屋を間違えたのだと思い、もう一度部屋番号を確かめた。
二〇二号室、合っている。
少年は面白そうにくっくっと笑いながら、
「合ってますよ。ここはあなたの部屋です」
私は少年を上から下まで、入念に睨め回した。
紺のチェックのシャツにダブダブのジーンズ姿、見るからに十七、八歳のいまどきの少年。
しかし、どうしても思い出せない。この年代の知り合いといったら生徒しかいない。私は高校教師だった。しかし生徒が部屋を訪ねてくるほど、慕われているとは自分では思えない。
「えーと、ごめんなさい。君は誰?何年何組?」
「あやまることないです。初対面だから。僕はあなたの生徒じゃありません。由良ひのきと言います。高村青葉さん、あなたの弟です」
「なに?」
「初めまして、お姉さん」
「だから、なに?」
「あの、お姉さん?」
「これって何かのセールスなの?それとも新興宗教の勧誘か何か?ひょっとしてストーカー?新手の詐欺?しかもこんな夜遅く。
全部間に合っているわ。あなた高校生でしょ、子供がそんないかがわしい事するものじゃない。早く帰りなさい。親が心配するから」
「驚いたな。そんなに酔っ払っていても、心は先生なんだね。それ職業意識?それに夜遅くって言うけど、僕、昼間からずっと待っていたんだ。お姉さん帰ってこないから」
私は、アルコールでそうとう鈍っているであろう思考を、目いっぱい巡らした。いったい何だろうこの子。やっぱりいたずらの類かな?そうすると目的は……お金?
目の前の少年は、いかにも無垢という顔して突っ立っている。
「さっきからお姉さん、お姉さんってうるさいわね。私に弟なんかいないわ。いい加減にしないと警察呼ぶわよ」
「高村青葉、二十七歳、独身。父、高村秀一、母、高村奈美子、兄、高村大樹、敬称略」
彼は一気に言うとにっこり笑った。私は息を飲んだ。それはまさしく私の家族の名前。
「何でそんな事!どこで調べたの?」
「落ち着いてよ。どう説明すればいいのかな。とにかく僕は、あなたのお父さん、高村秀一の息子なんだ」
彼は平然と言う。
何、何、何言ってんだ!このガキは。私は思わず後ずさった。
「そんな事あるわけないでしょ。あなた何者なの?いったい何が目的なの?」
「そうだよね。急にそんな話してもね。それなら……」
と、彼は下げていたバッグを開けて、ゴソゴソと何かを探し出した。
すわっナイフ!拳銃!っと身構えたら、古びた一枚の写真を取り出し私に差し出した。
「えっ?こ、これ!」
思わず声を上げる。そこに写っているのは、紛れもなく私の父!しかもかなり若い。
そして隣にいるのは……
「ね、これ僕幼稚園だけど、面影あるでしょ。それから父さんの高村秀一、そして一番はじが僕の母さんの由良節子」
いかにも仲のよい親子連れ風に、動物園のライオンの檻の前で、三人は笑顔で写真に納まっていた。裏をひっくり返すと、
『ひのき五歳、両親と動物園にて』と、添え書きがあった。
「あなた、本当に父さんの……」
私は言葉を詰まらせた。もちろんにわかには信じられない。だけどこの写真の人は間違いなく父。あの父さんが……
私の頭の中に、真面目で実直で素朴な父の顔がグルグルと渦巻いた。
「信じてもらえましたか?って、その顔では無理なようですね」
「当たり前でしょ。あなたの言っている事は、どう考えてみても私には信じられない。だってそうじゃない?いきなりそんな弟だなんて」
「そうだよね。やっぱり突然来て、こんな話しても信じてもらえる訳なかったんだよね」
ひのきと名乗るその少年は、寂しげで甘えるように、それでいてどこか芝居じみた表情をした。それから深く息をつくと、言いづらそうに口ごもりながら、
「ところであの、もう夜中の三時なんだよね」
「えっ?」
「だからその、入れてもらえないかな、中に」
確かに腕時計を見ると、すでに三時を回っている。いつまでも、ここでこうしてもいられない。だからといって、この得体の知れない少年を部屋に上げるのはどうかと思う。私は一人暮らしなのだ。
しかし弟かどうかは別にして、この子は私の父と写真に納まっていたのだ。とりあえずは。
「あなた、どこから来たの?」
「長野」
「ながの!嘘でしょう?」
少年は胸のポケットから学生証らしきものを取り出して見せた。
『長野県立M高等学校 二年三組 由良ひのき』と、そこには彼の顔写真と共にあった。住所も長野市になっている。嘘ではないらしい。
どうしよう、できればこのまま追い返したいが、相手は高校生である。どこかホテルでも、でもこんな時間では……
「あの、これ」
彼、ひのきは自分の持っているバックを押し付けてきた。
「なに?」
「中身点検していいよ。何にも怪しい物入ってないから。何だったら預けておく。ポケットも調べていいから。だから、駄目かな?」
ひのきは私の表情を窺うように言った。
「うーん、そういう問題じゃないのよね」
と、言いながらも、私はバッグを開けて中をかき回してみた。確かに危険な物は無いようだ。着替えと洗面用具、教科書らしき本が数冊、そしてバッグの底には貯金通帳とカード。
「あっそれも預けるから。中、見て」
開くと、由良ひのきの名前で三十万近く。
「バイトして貯めたんだ」
どうやら、強盗の類では無いのは確からしい。
私はため息を一つつくと、ドアの鍵を開けた。何が何だかわからないが、そう悪い子ではないらしい。それにいい加減疲れてきた。
私は酔っ払いで、今は夜中の三時なのだ。頼みの綱はあの写真だけだが……
「サンキュ」
ひのきはうれしそうに笑うと、私の後についてきた。笑顔が結構可愛らしかった。
ワンルームのその部屋に入ったとたん、
「意外とせまいんだね。教師ってあんまり儲からないの?それともケチなの?」
「大きなお世話よ。東京ではこれが普通なのよ……って、あなた!」
「ひのきだよ」
「何でもいいわよ。それよりどうして私が教師だって知っているの?そういえば、最初に私の生徒ではないって言ったわね」
「父さんから聞いた」
「父さん……」
いよいよ真実味を帯びてきた。私は食卓の椅子に力なく座り、頭を抱え込んだ。
「頭、痛い」
「飲みすぎじゃないの?」
「あほ!あんたのせいよ」
「あのさあ」
「なに?」
「もう、明日にしない?僕、今朝五時に出てきたんだ。眠いよ」
「そうだね。私も眠い」
トイレと風呂はあっち、キッチンはそこ、布団は押入れ、後は適当にして。と、ぞんざいに言うと、私はそのままベッドにもぐり込み、そのまま深い眠りに落ちていった。