表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

プレリュード(前奏曲)

この音が、私を導く。


 月が優しく現世(うつしよ)を照らす真っ白な夜に、私はどこからか聴こえてくるピアノの()に、そっと耳を傾けていた。


 それは古き良きあの時を思い出させた。と、同時にやはり過ぎ去った日々は戻って来ないという、厳然たる事実まで私に突きつけてきた。


 『似ている』という言葉は、全くの別の物であるという前提を含んでいるのだから……。


 正直、この音を聞くと悲しくなってしまうのも事実なのだ。もうこれ以上同じ夢は見ないと、あれほど心に誓ったことを忘れた訳ではなかった。




 ああ、まったく。それでも、私は想ってしまったのだ。




「それでも……、それでも似た夢くらいなら見てもいいわよね?」




 幸い、ピアノの音は、その可能性を感じさせてくれた。

 弱いようでたしかな力強さを持つピアニッシモは小鳥の羽を連想させ、どこまでもどこまでも澄み切った青空へと私を連れていき、それはあの頃の空に似た心地良さを私に与えた。

「婆様……」

 私はその音に導かれる様に、知らぬ間に、一歩ずつ一歩ずつと、確実にその音のする方へと引きこまれていった。










 観客はいないし聞こえてくる喝采は虫の音ばかり。それでも僕は気にせずピアノを弾き続けていた。薄暗く、広々とした部屋にはピアノしか置かれてなく、床は傷だらけのフローリングで所々ささくれ立っていて、何か空気が冷たい感じがする。多分、見る人によっては大層可哀想な部屋に見えるだろう。

 だが、僕はこの空間をとても気に入ってる。

 照明が月明かりだけとはなかなか洒落ているだろう? スタンド式のライトは在るが、今は消している。邪魔だったカーテンも全て取っ払ってしまった。この部屋に今あるのは、ピアノとその音の紡ぎ手である僕だけ。それで十分、それ以上はかえって重荷となってしまう。僕はこの空間を気に入ってるのだ。ドビュッシーの『月の光』を弾きながら、ちらりと窓の外を見上げる。



 今夜は綺麗な満月だ。



「お月様がご拝聴とは気合いが入るねえ。うん?」

 窓の下の方で、何か黒いものがもこもこと動いていた。よく見ると、黒猫だった。

「おっと、悪い悪い。君も聞いていたのか」

 窓を開けて、その猫を抱いてやる。歳は多分、相当いっていて、細身の体から伝わる感触は弱々しい。しかし、毛なみは綺麗で、黄金の瞳は月光のせいか燃える様にユラユラと色を変えていく。何か引き付けられる物を持つ、そんな猫だった。

「君は……おっと、レディーでしたか。こりゃ失敬。どうだい、君も何か弾いてみるかい?」と冗談で椅子に黒猫を降ろす。当然、何も期待してなどいなかったが、彼女は精一杯体を伸ばして鍵盤に手を乗せ、ある有名なフレーズを弾き出した。

「エリーゼのために……か。上手いもんだな」

 目の前でピアノを弾く黒猫。なかなか絵になってるではないか。

「凄いな、君は。でも、知ってるかい」と、彼女に問い掛けた。

「本来、この曲は『テレーゼのために』と呼ばれるはずだったんだ。この曲をベートーベンが後のテレーゼ婦人に贈ったんだよ。でも、字が汚くて『テレーゼ』を『エリーゼ』と誤解されたんだよ。間違った名前で自分の曲が広まるって、作曲者としてはどうなんだろうね?」

 ハハ、と僕は一人で笑った。自分の知識に若干の優越感を感じたが、当然、猫に愛想笑いなんて求めていなかった。













「知ってるわ」










「……へ?」

 驚くほど間抜けな声を出してしまった。降って沸いたような声の主を捜すため部屋をきょろきょろと見回してみたが、当然誰もいない。

「ベートーベンは主治医であるジョバンニ・マルファッティの姪であるテレーゼ・マルファッティに恋をした。彼はその時40歳で、テレーゼは18歳。ベートーベンは想いを伝えるためにテレーゼのために歌を贈るが、あっけなく撃沈。いくら綺麗な曲でも、汚い字で書かれた楽譜を見たら気分が萎えちゃったんじゃないかしら? まあ、とは言ってもあんな偏屈そうなおじさんは相手にされないだろうけど」

 クフフ、と彼女は元々細い目を更に細めて笑った。

 ……あれ、猫って声を出して笑ったっけ?




「さっきの演奏を聞いてたけど、貴方、左右の手で音の大きさが違い過ぎるのよ。だから曲のバランスも悪くなるし、滑らかな感じも出ないじゃない。しかも肘が生かされてないから手弾きになってるのよ」




 声のする方には、ピアノと黒猫しかいない。




「この曲であの程度では、まだまだね。それに多分、貴方、しっかりした先生にも習ってないでしょ? ……そうね、私でよければ教えてあげてもよくってよ?」



 とん、と椅子から軽やかに飛ぶと、ピアノの上に降り、彼女は僕にその黄金の瞳を向けて、『語りかけてきた』。

 僕は動揺している気持ちを無視して、なんとか声を出した。

「き、君は一体……何者なんだ?」

「私?」




 彼女の声はよく響き、闇を切り裂いて僕の耳にしっかりと届いた。




「テレーゼ。前の飼い主からは、そう呼ばれていた。私、結構この名前を気に入ってるの。だから貴方もそう呼んでくださらない?」



いよいよ始動!ですね。これから長い物語の始まりですが、お付きあい頂けるよう頑張りたいと思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ