3.パラス
結局、カリスティとはあれ以上の触れあいも無いまま、私は自室へと戻った。
風邪をひかない内に部屋に戻りなさいと告げた言葉にも、返答は貰えないまま。
何処となく寂しい思いと共に自室の扉を開けてみると、ちょうど私の世話係をつとめている女官が異国の茶を煎じているところだった。
入ってすぐに彼女は振り返る。
すぐに目に入るのは額に生えた黄金の一角だ。その次に、燃えるような赤毛の巻き髪と、鮮やかな緑の目が同時に目に焼きつく。
「お帰りなさいませ、ソフィア様」
明るい声でそういう彼女が世話係になってから結構経った気がする。
「ただいまパラス」
その名を呼ぶと、彼女は満足げに両耳を動かした。
赤い巻き髪。頭から伸びる耳は長く、服に隠れた両足は蹄鉄を打ちつけられた蹄の足だ。髪に見えるものは実はタテガミで、服の下にはさらに同じ色の尾まで隠れている。
愛情の国出身の一角獣種。獣人等の魔族ではなく、彼女は異国で造られ、高価格で我が国に購入された合成生物というものだ。ベースとなっているのは我が国の民ではなく、愛と美を約束されている愛情の民であるためか、その容姿はうっとりとするほど美しい。
一角獣がモチーフとなったのは、愛情の国の研究者が英知の国に友好の意を込めたせいだとも言われているが、詳しい事はよく分からない。
ともあれ、そんな彼女は数年前、十七歳の頃に神殿に買われ、そのままここの神官として働いている。十七歳。つまり、今の私と同い年の頃の事だ。
パラスは不思議な香りのする茶を淹れ、得意げに笑いながら口を開いた。
「今宵のベッドメイクは完璧なのですよ。都の一等地のホテルから声をかけられちゃう日も近いかもしれないわ」
嬉々として彼女は語る。
与えられた仕事をそつなくこなすパラスだけれど、愛情の民の血なのか、ややナルシスト気味でお喋りであるために、神官長室付きの女官からこちらにまわされてしまったのだという噂をニンフがしていた事がある。
誰も彼もおしゃべり好きで少し怖くなる。
まあ、そんなわけで、前の世話係が神殿付きを退任してしまったばかりだったこともあって私の心に空いていた寂しさは、あっという間に埋められてしまった。
前の世話係とは違って、パラスがこの神殿を自ら去る事はないだろう。
世話係をしていた神官は英知の民の血を引く一般人上がりの人間だったけれど、パラスは全く違う。
英知の民の血を引いていないからじゃない。
金で落札された合成生物だからだ。
一角獣をモチーフに作られた合成生物。その価値はとてつもなく高く、競りに出されてすぐに、一流のホテルや莫大な財産を抱える貴族がこぞって落札したと聞いている。
パラスを落札したのも富豪の一人らしい。だが、その富豪はユグドラシルを尊ぶ敬虔な者で、ほぼ寄付に近い形――それでもそれなりの金額でパラスを今の神官長に譲ったらしい。
元の値打ちは、庶民とは無縁なほどに高い。そのくらい金を出しても欲しいと言われていたのが一角獣種という合成生物たちなのだ。持てはやされる一方で、希少さを理由にほぼ幽閉されているらしい。
私とは違った意味で不自由な身分のもの。
けれど、知り合って以降、パラスはこれまで一度も自分が一角獣種である事を恨むようなことはなかったらしい。
――だって見てくださいよ。この角とタテガミの美しさ。
分かりやす過ぎてすっきりしてしまうくらい、パラスは恵まれた自分の容姿を自慢する。
それに対して苛々したり、辟易してしまったりするような事は特になかった。それは、私が飽く迄も英知の民の血しか引いていない証拠なのだろうか。
英知の民は美しさよりも聡明である事を尊ぶ。
それは、青い天使が人々に知恵を与えた時から続いているそうだ。
賢く、冷静に、透明な水を見つめるように物事を見通していく力こそ、英知の天使の慈愛を受けた人々がもっとも尊ぶもの。
それを私もまた実感していた。
だからこそ、カリスティのことが分からないという事態が私を苦しめる。
パラスの淹れてくれた茶を貰いながら、私は静かに溜め息を吐いた。勇敢の国で育ったという渋い茶の味が、淀んだ頭に沁み込んでいくようだった。
「カリスティとね、ちょっとだけ会話できたんだ……」
さり気なく話を切り出してみると、パラスは横に座りこんで静かに私を窺った。何も言わず、ただ長い馬の耳を動かして私の話を促している。
獣人とは違って隠す事も出来ない角が部屋の明かりを受けて煌めいている。
「愛情の国であるっていうお祭りの話をしたの。一角獣の展示にちょっとだけ興味を持ったみたい」
「そうですか……カリスティ様は一角獣がお好きですものね」
パラスがそう言ってそっと笑う。
一角獣種というものが神殿に引き取られた日も、私はカリスティと会話をしていた。あの時はまだ、カリスティの笑顔を頻繁に見ていた気がする。
私は十歳ほどで、カリスティは僅か三歳ほど。
今度、一角獣が来るんだって、と、大人達から聞かされたままにカリスティに語ってみれば、彼女は目を輝かせてこう言ったのだ。
――アイギス以外にも一角獣っているんだね。
無邪気なその声をいつから私は聞けなくなってしまったのだろう。
「でも、あんまりお喋りしていたら、カリスティが『都に行きたい?』って聞いてきたの。そうじゃない、カリスティと一緒に居る方がいいってすぐに言ったけれど、もしかして、不安にさせちゃったのかしら……」
「思い悩む事はありませんよ」
透かさずパラスは言った。
「カリスティ様もお分かりのはず。……アテナ様と一緒にいることが嬉しくて堪らないのですよ」
――アテナ。
その名前を耳にして、私は思わず息を潜めた。
耳をそばだてても、外からはなにも聞こえてはこない。戸惑い、恐れる私を見て、パラスは得意げに笑いながら耳をしきりに動かした。
「大丈夫です。誰も聞いちゃいませんよ」
そうは言ったけれど、危なっかしい事には変わりなかった。
私の名前は封印されている。
引き取られてすぐにソフィアという名前を与えられたのは、もう二度と生みの親の元へ戻れない事の証でもあった。
私をアテナという名前で呼べるのは、限られた時、限られた者だけである。
勿論、その中に世話係とはいえ一介の神官に過ぎないパラスは含まれていない。
ガーディアンの一頭であるニンフであっても、この神殿の要であるカリスティであっても、私をアテナと呼ぶ事は許されていない。
全ては神官長の命令だった。
ソフィアという名前をくれたのは、先代の神官長。当時、その神官長を守る幹部であった今の神官長もまた、先代の意思を引き継いで私の本名を封印し続けている。
もしもパラスがこうやって不用意に呼んでいると分かれば、ただじゃおかれない。
そんな事は分かりきっているはずなのに、パラスはその長い耳が集める音を頼りに機会を窺っては、私に大好きな本名を聞かせてくれてしまうのだ。
実はそれは私が心の底で望んでいることでもあった。
父母に愛された証であるアテナという名前。その名前を否定せず、ただ単に呼んでくれるパラスの存在は、不安定な私にとってとても有難いものだった。
「パラス。あなたはやっぱり変わっているわ。魔術でも使えるみたいに私の心を癒してくれるのだもの」
「魔術だなんて大げさですよ。私は何の魔力も持たない凡人なのですから」
「まるで、本物の一角獣みたい……」
心を癒す術を身につけている一角獣種。
愛情の国の技術者の心血が注がれただけあるのかもしれない。
けれど、パラスは苦く笑うとゆっくりとその頭を横に振るのだ。
「いいえ、私は本物なんかじゃありません。飽く迄も、伝説を具現化しようとしたに過ぎない形だけの一角獣です」
「でも――」
やや自嘲気味な言葉に反論しかけたが、パラスの柔らかな視線にそれを制された。
「カリスティ様が望まれる一角獣は間違いなくあなたの方です。だって、あなたとカリスティ様は生まれた時から共に居るべきと天使がお決めになったのだから」
パラスに言われ、私はそっと槍の印のある位置に触れた。
消えることのないその痣の意味は、大好きな父母から引き離された時にはどうしても分からなかった。
理不尽で残酷だとしか思えなかった。
そんな幼い私が一瞬で理解してしまったのは、ユグドラシルの前にぽつんと置かれていたサファイアのような卵を見せられた時だ。
人の形すらしていない卵のはずなのに、それを見た瞬間、私は幼いながらに愛おしさのようなものを感じた。
二年経てば殻はひび割れ、中から私の守るべき妹が現れる。
教育係の魔術師からそう聞かされ続け、私はその日を待ちわびた。
「私が生まれた愛情の国でも、印を持つ御方と果実の御方には強い絆が結ばれます」
パラスは語り続けた。
「たとえ、どちらかが冷たい態度を取ったとしても、その本心は全く違う。お互いに裏切ったり、見放したりするなんて出来ないのですよ」
そういえば、前もカリスティの事で思い悩んでいた私に、パラスは愛情の国の武器である針と愛情の果実の話を聞かせてくれた事がある。
他国の話ではあったけれど、カリスティに見放されているような気さえしていた私には少しだけ心が休まる話でもあった。
そうだ。あの頃は触れようとすると逃げられたりもしたのだった。
まだマシになってきていると思うだけでも心は落ち着く。
ただ、すっきりとはしない。どうしてカリスティがあんな態度を取るようになったのか理由が分からないからだ。
私のせいなのか、それとも、実はそうではないのか……。
知恵を約束されたはずの頭で考えてみても、どうしてもその答えは出てこなかった。
「ともかく、果実と武器とはそのくらいの結びつきを約束されているのですよ。それはどの国も同じ。舞い降りた天使様も、くださった宝物も、何もかも違うように見えるけれど、各国の果実と武器の間に結ばれる絆だけは変わらないものなのです」
――だって、あなた達は二人で一人なのだから。
淑やかに語る一角獣種の美女の姿に、幼い頃にこの目で見上げた教育係の姿が重なる。
パラスの言うような事は幾度となく聞かされてきた。
固い絆。その言葉に何度縋った事だろう。カリスティの笑顔を見られぬまま一日が終わる度に、私は神話に頼ってきた。
歴代の槍と歴代の英知の果実について調べ、その関係が固いものであった事を見る度に、安堵する時としない時があった。
私はもしかして欠陥品なのではないだろうか。
守るべき果実にすら見放されるような。
「アテナ様、そんな御顔をなさらないで」
気付けばパラスの鮮やかな目が心配そうに私を覗きこんでいた。
心優しいユニコーン。その伝説に憧れた人々が癒しを求めて開発した合成生物。見た目の美しさだけではなく、純粋に癒しを振りまける事を求められ、完成した結晶。
それは確かに人工的な美しさであるかもしれないけれど、私にとってはどんなに優れた本よりも便りになる拠り所となり得るものだった。
「カリスティ様はきっとご自分のお気持ちを表に出す方法が分からないだけなのだわ」
澄んだ瞳で言われ、私は静かに頷いた。
異国の茶はとても渋いものだったけれど、それを淹れてくれたこの人の心はとてつもなく円やかで、すんなりと身体に馴染む。
「ありがとう、パラス」
茶の温もりを手のひらで感じながら、私は静かに礼を言った。
「ちょっと気が楽になったわ」
整いきった美を約束された顔に、儚げな笑みが浮かべられた。