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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第3部
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15.アテナ

 どうして。どうして、アテナがわたしに謝っているのだろう。

 指輪は握りしめたまま、アテナは涙を隠す事もなくわたしを抱きしめている。腹立たしくはないのか。怒りを感じたりはしないのか。

「御免なさい、カリスティ。謝るのは私の方よ」

 どうして。どうして、悲しそうな顔でそんな事を言うのだろう。

 アテナは何も悪くないのに。

「私が馬鹿だったわ。あなたの気持ちも少しも考えずに残酷なことをしてしまった。あなたにそこまで寂しい想いをさせていたなんて、気付かなかったのだもの」

「ソフィア……」

 許されている方の名前で呼ぶと、アテナはぎゅっとわたしの身体を抱きしめてくれた。温かくて、心地よい香りがする。もう暗闇しか残されていないわたしに、安楽を与えてくれるかのような感覚だった。

「あなたがこうなったのは私のせい。エリスの言う通りよ。だから、カリスティ。もう自分だけを責めないで」

「ソフィア……わたし……」

 続けるべき言葉が見つからない。

 代わりに零れていくのは涙だった。アテナに縋りつくと、彼女は拒んだりしない。本当はもうずっとこうしていたかった。指輪を捨てなければ、つまらない嫉妬で罪を犯さなければ、こんなにも壁が生まれることもなかったのだ。

 わたしは、馬鹿だった。

 どうしようもないくらい、愚か者だった。

「カリスティ。はっきりと言うわ」

 わたしを抱きしめたまま、アテナは囁いた。

「家族は大事よ。生みの親を簡単に忘れる事なんて出来ない。でもね、それとあなたとは別。比べ物にならないくらい、あなたは違う位置にいるの」

 強く、強く抱きしめて、アテナはわたしに言い聞かせる。

「卵から孵るあなたと出会ったあの時、そして、あなたが私に抱きついて来てくれた時、私は槍と果実というものを理解した。家族なんて槍にはいらないんだって分かったの。私にはね、カリスティ、私には、あなたが居れば十分だったのよ」

 涙が止まらない。止まりそうにない。

 エリスに毒された果実が心臓を震わせている。苦しくて、切ない。悲しくて、でも、今だけはとても幸せでもあった。

「そうね、それがあなた達二人」

 エリスの冷ややかな声で、その幸福も薄らぐ。

「心が通じたようで良かったわね」

 アテナが睨みつけると、悪魔はさも愛おしそうに彼女へと眼差しを向けた。冷静に、この場を支配しようとしている目でもある。

「神々はもうあなた達に居場所を用意していないわ。でも、わたしは違う。わたしなら、あなた達が安心して過ごせる世界を創ってあげられる。さあ、アテナ。わたしに従いなさい。カリスティと一緒に、神々に背くのよ」

 囁くエリスを見つめ、アテナは口を閉ざした。

 わたしを抱きしめたまま、片手には指輪を握りしめたまま。しばらくじっと空を見つめ、そしてユグドラシルを見つめていた。

 何も言わず、何かを考えている。

 その表情は何処か抜け殻のようだった。

「カリスティ」

 しばらくしてから、アテナはようやく口を開いた。

「あなたはどうしたい?」

 わたしとは目もあわさずに、アテナはじっとユグドラシルだけを見つめている。

「神官長は私たちに猶予を下さっていた。でも、その猶予でこんな事になってしまって反省しているみたい。ニンフもヒパティアもぎりぎりまで庇ってくれていたけれど、二人ともあなたにやられてしまって――」

 茫然と呟くその言葉を受け止めるのも辛かった。

「もう、私はどうしたらいいのか分からない」

 ヒパティア、ニンフ。間違いなくわたしが、わたしの意思で、悪魔の力を向けてしまった。ヒパティアがあれからどうなったのかわたしには分からない。アテナも語ったりしない。そしてニンフも、中庭の隅で倒れたきり動いていない。皆、わたしとエリスに怯えて、助けにも来ない。

 神官長はきっと、わたしを早く処分したいだろう。

 さっさと新しい果実をユグドラシルに産ませたいだろう。

「わたしは――」

 どうしたいのか。

 ――素直になりなさい。

 エリスの導きがわたしの中に横たわる大きくて密やかな願いを引きだそうとする。建前も何もない感情。何で蓋をしたとしても変わりはしない、わたしの本質のようなもの。

「わたしは、《アテナ》と一緒に居たい」

 とうとうその名前で、わたしは言った。

「アテナとずっと一緒に居たい。どんな姿であっても、どんな世界であっても、わたしはアテナを恨んだりしない」

 これが、わたしの本音。

 半分毒された黄金の果実がとくんと音を鳴らし、わたしの心を支えている。震えているのは怖いからだろうか。

「そう……」

 アテナは一言だけ呟くと、指輪を握りしめていた手を開いた。ぽとりと指輪が地面に落ちるのを見て、エリスの表情がみるみるうちに変わっていく。

「アテナ――」

 動揺した様子で、彼女はアテナに近寄っていく。

「何をするつもり、アテナ。カリスティの願いを聞いたでしょう?」

 強く迫るエリスの目の前で、アテナは指輪を掴んでいた方の手で槍を生みだした。一角獣の角。素晴らしく美しい、正義とされる武器。

 わたしにとっては安らかな滅亡を教えてくれる優しい案内人。

「分かっているの? わたしならあなた達の苦しみを解放できるのよ。神々なんかに従うのはやめなさい。あなた達に重たいものを背負わせてまで保つ世界なんて存続させてはいけない。それを、分かっているの?」

 一歩、エリスが近づくと、アテナは槍を彼女に向けた。

「――来ないで」

 厳しい口調で言い放つ。

「あなたの指図は受けない。私が何に従うかは、私が決める。それに、私はカリスティの願いを無視するわけではない。これが、この子とずっと一緒に居られる最後の手段よ」

 悪魔を強く睨みつけてから、アテナは槍を振り払ってエリスを追いやろうとする。けれど、エリスは引かなかった。必死な様子で、彼女はわたしを見つめてきた。

「カリスティ。何をしているの?」

 急かすように。

「この子はあなたを殺す気よ。逃げなさい、カリスティ」

 まるで、そちらの方が正しいかのように、エリスはわたしに命令する。

 心の半分が言う事を聞こうとする。でも、身体は動かなかった。アテナに抱かれているのが心地よくて、そして何よりも、アテナに許して貰えたことが嬉しくて、動く気になれなかったのだ。

 アテナはわたしを救ってくれる。

 大き過ぎて押しつぶされそうな罪を、一緒に償ってくれる。

「カリスティ」

 エリスがわたしを叱り飛ばす。

「分かっているの? あなたの罪でアテナまで道連れにしてはいけないと言っていたじゃない。ねえ、カリスティ」

「分かってないのはあなたの方ね、エリス」

 アテナが嘲笑うかのように、エリスに向かって言った。

「私は私の意思でカリスティの願いを聞いた。叶えるかどうか決めるのも私。その上で、叶えてあげることにしたってだけよ。カリスティの罪は私の罪。だから、私は恐れない。この子と一緒なら、英霊になるのだって怖くはないわ」

 果敢に言い放つアテナに、わたしはぐっと身を寄せた。

 アテナがいいのなら、わたしだってそれでいい。エリスに従った半分のわたしがそれを拒んではいるけれど、傷ついたヒパティアやニンフ、死んでしまったガーディアンたちのことを思い返せば、その半分の心すら力を失っていく。

 今のわたしを救えるのは槍だけ。

 その槍が、覚悟を決めてくれたのなら、わたしは逃げたりしない。

「駄目、そんなの駄目よ……」

 手を伸ばすエリスの前で、アテナはわたしを抱えたまま座り込んだ。

 真っ直ぐその梟の目に見つめられ、わたしもじっと視線を返した。恐れさえ抱いていた聡明を宿すその目。怖かったのが不思議なくらい、今は温かく感じられた。

 優しく頬に触れる彼女の温もりが愛おしい。

 本来はこれが槍と果実の間に交わされる嘘偽りのない情なのだろう。

 信じられないほど幸福な気持ちが訪れる今なら、何も怖いことなんてない。

「カリスティ」

 アテナに名前を呼ばれると、エリスの言葉なんてもはや聞こえなかった。

 槍を持つその手が、わたしの背後に回っている。

「大丈夫?」

 労わるようなその声に、わたしは静かに頷いた。

「アテナと一緒に居られるのなら、大丈夫」

 そう答えると、アテナはそっと笑みを浮かべ、わたしの身体をぐっと引き寄せた。

「あなただけに痛い思いはさせないわ」

 静かにそう告げ、さらに囁く。

「大好きよ、カリスティ」

 ――わたしも……。

 そう答えたかったけれど、声がもう出なかった。強い衝撃と只ならぬ痛みが生まれたと思ったのも束の間。闇に吸い込まれていくような感覚と、心地よい冷水のような感触が身体の中を通り抜けていくのを感じた。

 アテナがしっかりとわたしの身体を支え、そして共に力を失っていく。

「カリスティ……アテナ……」

 悲鳴のようなエリスの声が聞こえたけれど、わたしの目に見えるのは最期の時まで、アテナだけだった。

 そして痛みを誤魔化すように広がっていくのは、アテナと共にいる幸福感ばかりだった。


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