14.腐敗
自我を保っているだけで必死だった。
目を背けたくなるような光景、耳を塞ぎたくなるような悲鳴。そのどれもがわたしの所為で生まれたものだった。
英知の果実として生まれたのに、英知の果実として大事にされてきたのに、わたしは英知の全てに対して酷い裏切り行為を繰り返していた。
エリス。どうして。あなたはどうしてこうまでして神々に逆らうの。あなたはどうしてこうまでして天使の遺したものを壊そうとするの。
エリス。あなたは天使の為と言ったけれど、こんなこと英知の天使は望んだりしていないはずよ。どうして、どうして、わたしを利用してこんな事をするの。
――無駄よ。
何度訴えたところで、自分の行動は止まらない。
英知の果実として生まれたのに、どうしてわたしは硬い扉の封印まで壊してしまっているのだろう。
わたしを止めようとした人たちは骸となった。辛うじて生きている者も、わたしを追っては来られないらしい。距離を取ってわたしを足止めしようと目論んだガーディアンや魔術師たちだっていたけれど、誰もがわたしを止められなかった。
そうしている間に、わたしはどんどん中庭へと近づいていく。
――ユグドラシル……。
湖が荒れている。わたしの訪れを恐れているかのようだ。ユグドラシルもざわついている。わたしを拒んでいるかのようだ。
枝が揺れ、風が運ぶ声は何と言っているだろう。
いつもはすぐに聞きとれた。人と会話をするように、ユグドラシルとも会話が出来た。人間の言葉や文字を介するものとはだいぶ違うけれど、心と心が触れあえることは変わらなかった。ユグドラシルはいつでもわたしの味方だった。
でも、今は。
――わたしを拒んでいるの?
聞きとるのは困難だった。
恐怖が先行し、他の理性的な感情が隠れてしまっている。それでも辛うじて拾い上げられた意思は、わたしをまるで呪っているかのようなものにさえ思えた。
――だから言ったでしょう、カリスティ。
わたしの中でエリスが囁く。
――今のあなたを受け止められるのはわたしだけ。わたしだけよ。
風が、エリスの主張を肯定するかのように吹いている。ユグドラシルに一歩近づけば、枝がざわざわと揺れて、今度ははっきりとその場に留まるようにとわたしに伝えてきた。
理由は分かっている。
ユグドラシルは待っているのだ。
次の娘たちを生みだすために。全てをリセットするために、わたしとアテナを引き合わせようとしている。アテナの到着を、アテナの準備を待っている。
殆ど崩壊していたあの身体。元に戻すのにはいつもよりもは時間がかかるだろうけれど、そんなに長いものでもない。
アテナは追いかけているだろう。追いかけながら、わたしのしてきた罪を見つめているだろう。じゃあ、彼女は何を想っているのか。
「ユグドラシル」
わたしは生母に話しかけた。
「わたしは、完璧じゃなかったの?」
エリスのお陰だろうか。今までは難しかったこと、分からなかったことが、何もかもすんなりと理解出来てしまった。
ユグドラシルはもう、わたしに優しくしてはくれない。ユグドラシルはもう、わたしとアテナの存命を希望していない。彼女が願うのは討伐。怪物となったわたしと心中する事を、アテナに望んでいる。
この世界は、わたしとアテナを殺そうとしている。
たった一人、エリスを除いて。
――さあ、カリスティ。
エリスに促され、わたしはユグドラシルに背を向けた。
見つめるのは湖。銀色の煌めきをゆらゆらとさせている湖を見つめると、少しだけ昔の情景が浮かんだ。
懐かしい。わたしは幼かった。先代の果実よりも、その前の果実よりも、きっと幼かったのだろう。だから、つまらない感情に支配されて、踏み誤ってしまった。
全ての始まりは、そのつまらない嫉妬心だった。
何で間違ってしまったのか。
考えてもきりがない。起こってしまったものは元に戻らない。わたしが殺してきた人たちの命だってそう。元には戻らない。全てはもう戻らない。
ならば、わたしはどうしたらいいのか。
そもそも、間違いとは何だろう。正しいとは何だろう。わたしとアテナが死んでこの国が守られることが正しいと言う事? その正しさの為に、わたしはもう死んでしまうことしか許されていないというの?
――大丈夫よ、カリスティ。
エリスの声が聞こえる。
――わたしが守ってあげる。わたしが、あなたとアテナを守ってあげる。
この人なら守ってくれる。
残酷なこの世界から、わたし達二人を守ってくれる。
「カリスティ様っ!」
その時、空を裂くかのような甲高い猛り声と共に、わたしの名を呼ぶ者が現れた。見上げるのは空。視界いっぱいに広げられた翼が目に入り、わたしは茫然としてしまった。
――ニンフ。
怪鳥の姿をした神官長の娘がそこにいた。
わたしを足止めするためにだろうか、もう何人も殺したのは知っているはずなのに、恐れも見せずにわたしに向かって飛び掛かってきたのだ。
――カリスティ。
エリスが冷静にわたしの名を呼ぶ。
――神官長の使いよ。
敵意を向けよということだろう。
それでも、わたしはすぐに反応する事が出来なかった。せめてもの抵抗だろうか。邪魔をされたくないという思いと、これ以上何もしたくないという思いがぶつかり合って、わたしの足から力を奪った。
よろめくわたしの元へと怪鳥は急降下してきている。
もう時間はない。あの怪鳥によって身体を壊されてしまえばそれでいい。きっと神官長の命令なのだ。足を奪い、抵抗を奪い、穢された果実だけとなってアテナに壊されるのをじっと待つだけの存在にするように、彼に言われているのだ。
――しっかりしなさい。屈しては駄目。
エリスが叱咤する。
――アテナにそんな事をさせては駄目。あの子はずっとあなたのことを……。
猛禽の甲高い声が響き渡って、エリスの言葉はかき消された。
鋭い嘴、鋭い掻き爪、もはやガーディアンの誰もがわたしを恐れている中で、立った一人、魔物の血を引く者だけがわたしの肉体をずたずたに引き裂こうとしている。
そんな時、別の場所から、別の声が響いた。
「ニンフ、気をつけて!」
アテナ。
振り向けば、わたしの壊した扉と中庭の間で、アテナが青ざめた顔でこちらを見ていた。もう怪我は一つもない。けれど、その身体は血で汚れている。自分の血なのか、他の誰かの血なのか、分からない。
ただ一つ確かなのは、その血の原因がわたしにあることくらいのもの。
アテナ、あなたはニンフの心配をするのね。
――彼女を取られたくないでしょう?
エリスの囁きがわたしの身体を支配する。
二つの相対した感情は勝敗を決め、わたしに行動させた。今のわたしには難しい事なんて殆どない。開き直ってしまえば、恐ろしいほど愉しいという感情が生まれる。
エリスの力。果実の力。先天的に恵まれたものの全てがわたしの身体に熱をもたらし、発散せよと命じてくる。
十年。十歳。きっと人間たちはわたしを子供扱いしてきたことだろう。わたしだってそうだ。人間の十歳という概念を与えられ、その通りに生きてきた。人間たち、あなた達の失敗はそこだ。わたしは果実。ユグドラシルから生まれ、ユグドラシルを滅ぼす可能性を秘める者。悪魔の導きのもとに、邪魔者は全て葬ってしまおう。
「ニンフっ!」
アテナの悲鳴が聞こえる。
上空からおびただしい量の羽根が散らばり、数滴の赤い雨が降ってわたしの身体を汚した。低く呻く声が聞こえ、ユグドラシルともわたしとも離れた場所にどさりと大きな物体が落ちる音がして、ようやくわたしは成功を認識する。
ちらりと視線を送ってみれば、羽根の散らばる穢れた中庭の端で、人と鳥の間のような姿で傷つき苦しむ神官長の娘の姿が見えた。
殺し損ねたみたい。
――それでいいのよ。今は別の事を優先しなさい。
別の事。
問い返すまでもなく、わたしはじっと湖を見つめた。そうだ。ここだ。ここでわたしは最初の罪を犯した。その罪を明らかにして、はっきりと示したかったのだっけ。
――あなたがしたいようにすればいいの。
エリスがわたしを優しく導いている。
その通りにわたしは動いた。自分の望み。自分の願い。叶えるにはどうしたらいいのか、どう動けばいいのか、何もかもびっくりするくらい分かった。
湖へと力を向け、今こそ願いを――。
「カリスティ」
傍でアテナの声が聞こえた。
気付けば、アテナはすぐそこまで来ていた。一歩、わたしに近寄ろうとすると、エリスがわたしの前に立ちはだかる。
「待ちなさい、アテナ」
幼い声で、誰よりも残酷な大人のように、エリスはアテナに厳しく告げる。
「退いて、エリス。カリスティを返して」
「残念だけれどそれは出来ないの。アテナ。あなたはどうするの? どうしたいの? カリスティを殺して、あなたも死んで、また湖の英霊となるつもりなの? 英知こそ尊いと天使が授けた恵みを無視して、何もかも考えずに、どうしてこうなったかも気付かないで、このまま終わるつもり?」
エリスに問われ、アテナは戸惑いをみせた。
怪訝そうなその目に見つめられると、わたしは恐れを感じた。
アテナ。あなたは軽蔑するかもしれない。わたしを嫌うかもしれない。それでも、もう後には引き下がれない。あなたとわたしが死ななくちゃならない世界を終わらせて、今度こそ完璧な楽園をエリスに作ってもらおう。
「御免なさい」
その為の犠牲者に。
「御免なさい」
その為の裏切りに。
「御免なさい」
その為の混乱に、そして過ちに、わたしは謝り続けた。
「御免なさい」
うずうずとしていた力の全てを手放すと、ぞっとするくらいの心地よさが生まれた。
途端、水底で爆発でも起こったかのように湖の水が弾け飛び、美しい水滴がぱらぱらと宙へと散っていった。
その感触、空にでも浮くかのような開放感にふらついていると、そんなわたしを庇うように支える者がいた。エリスではなく、アテナだ。槍を取りだすわけでもなく、わたしを傷つけるわけでもない。わたしをただ支え、水滴からわたしを守ろうとしている。
――アテナ。
その温もりに、果実が反応する。
まるで、引き寄せられているかのよう。一つに戻ろうとしているかのよう。アテナに抱かれていると、なんだかほっとした。
そして、そんなわたし達の傍に、湖底から飛び出たその代物は、ぽとりと落ちてきた。
銀色に輝くもの。わたしとアテナに存在を示すかのように落ちてきたそれに、アテナの視線が釘付けになる。
「御免なさい、ソフィア」
それは指輪。
わたしが取り戻したかったもの。アテナに返したかったもの。どうしても、どうしても、謝りたかったもの。
湖の一部が銀色に輝いていた理由。
今はもう取り返しもつかないほど昔に、わたしがしてしまった罪の証。湖に沈んでいた時よりも、くすんだ輝きを放つそれを……まだ読みとれる文字の刻まれたその指輪を、アテナはしばらく凝視していた。
湖に沈んだ指輪。
その罪をアテナのせいにしていた時期もあったっけ。
自分の犯したこと。アテナがとても大切にしていたその指輪を湖に投げ込んでしばらく、わたしは自分の罪の原因を心の中でアテナに押し付けていた。
アテナは無自覚だっただろう。
でも、生まれ故郷のこと、家族のことを話す彼女はとても幸せそうで、わたしとは永遠に縮まらない距離を感じさせたのだ。
だからと言って、欲望に駆られてはいけない。
それを理解するには幼すぎた。そして、幼かった自分の罪を懺悔するには、わたしはあまりにも身勝手過ぎたのだ。
そして今、わたしはそれをユグドラシルと神々の所為にもしている。
どうして、どうしてわたしを完璧に産んでくれなかったの。どうして、わたしに嫉妬という醜いものを与えてしまったの。
エリスの手を掴んだのは、わたし。エリスを呼びこんだのも、わたし。駄目なことだと、いけないことだと分かっていながら、わたしは自分で自分を正しい道に向かわせることが出来なかったのだ。
だから、アテナに向き合えなかった。
アテナに優しくされる度に、自分の醜さを思い知った。そして、怖かった。こんなに不完全な果実の時代が何処まで持つのか考えると、怖かった。そんなわたしのせいでいつも身体を半壊させて戦っているというアテナに申し訳なかった。
憎んでいい。アテナに憎まれても仕方ない。
どうすればよかったのか、全てを理解していながら行動に移せなかったこのわたしのせいで死を強要されている彼女には、怨まれても仕方ない。
「これは……」
現れた指輪を見つめたまま、アテナがようやく呟いた。
唇が震え、わたしを支えたまま片手で指輪を拾い上げる。
その様子を、わたしは静かに見守っていた。エリスも同じだ。動かないままのわたしを急かすわけでもなく、全てを知っていたかのような眼差しでアテナの反応を見つめている。
「どうして、此処に……」
拾い上げて手のひらに乗せるアテナ。
身体全体が震えている。その目に浮かぶ涙のようなもの。指輪を失くしたと気付いたあの時と同じ表情だった。同じだけれど、感じているものは全く違うだろう。青ざめた顔で指輪を触り、そしてわたしにすら聞こえないほどの声で何かを呟いた。
――お父さん、お母さん。
聞こえはしなかったけれど、そう言っているのだと理解出来た。
この指輪は、アテナのもの。アテナが此処に来る時に、実の両親が彼女に授けたもの。指輪の裏には言葉が刻まれている。その言葉はずっとずっとわたしの脳裏に焼き付いている。その言葉を思い出すたびに自分が抱えているこの感情は、罪悪感なのか、嫉妬なのか、今でもやっぱり分からない。
――愛しの娘、アテナ。
わたしは知っていた。この指輪がアテナにとってどれだけ大事なものだったかを知っていた。アテナが教えてくれたからだ。わたしがまさかこんな事をするなんて思っていないからこそ、信頼していたからこそ、教えてくれた。
この指輪は家族の絆。
名前すらも封印されて戦う彼女の御守りのようなもの。
しかし、当時のわたしにとっては、わたしとアテナの間に壁を作るものだった。槍に頼らねば生きていけない。その恐れが嫉妬と結び付いたのだろうか。
何であれ、わたしは捨ててしまった。ユグドラシルの根元、わたしの間横でアテナが寝ている間に、そっと盗み、そして誰も見ていない時に捨ててしまったのだ。
見ていたのはユグドラシルだけ。ガーディアンだって、わたしが何をしていたかなんて気付いていなかっただろう。
ユグドラシルは話せない。アテナとは話せない。だから、アテナは知らないまま、指輪を失くしたのは自分の注意不足だと落ち込み、泣いていた。
もうずっと前のことだ。何年も前。わたしにとっては途方もないくらい昔の事に思えるくらい前のこと。だんだんと時が経つにつれ、わたしは自分の罪の重さに気付いた。気付いた時には遅かった。
「わたしがやったの」
震えるアテナに向かって、正直に、わたしは告白した。
「えっ……」
動揺を隠せない様子でアテナはわたしを見つめる。その表情を受け止めるのは辛かった。けれど、わたしは眼差しから逃げずにまっすぐ見つめた。
「あなたの語る家族に嫉妬した。あなたを奪うその指輪に嫉妬した。エリスを受け入れるよりずっと前から、きっとわたしは穢れていたの。その指輪を失くしたのは、あなたのせいじゃない。わたしが……わたしがあなたから盗んで、捨てたの」
「……カリスティ」
真実に、アテナが動揺している。
わたしを見つめるその目の色が変わっていく。宿っているのはきっと軽蔑だろう。それも仕方がないこと。アテナがこれまでどれだけ苦しんできたか、この目で見ていたのに、知っていたのに、こうなってしまうまで言えなかったのだもの。
わたしは呪われた果実。アテナにこのまま殺されるのだとしても、向かうのは天国なんかではないだろう。
――殺させはしないわ。
エリスの温もりがそっとわたしの意識を包みこむ。
――あなたの味方はわたしだけ。わたしが守ってあげる。
感情の波が揺らぎ、新たな動きが生まれる。殺されたくない。そんな思いが弾け、アテナに対する拒絶と恐れが一気に増幅する。
怯え、逃げようとするわたしを、アテナは慌てた様子で捕まえる。その強い拘束に恐怖が生まれ、ついさっきまでの罪悪感すら薄らいでいた。
――罪の意識なんて消しなさい。
エリスがわたしに言い聞かせてから、アテナに向かって言った。
「やめなさい、アテナ。もう分かったでしょう? この子がどうしてあなたと向き合えなかったのか。どうして心を閉ざしてしまっていたのか。でもね、アテナ。これはあなたのせいでもあるのよ。あなたは分かっていなかった。果実に嫉妬させてしまうことがどんなに罪深い事なのか、分かっていなかったのよ」
――アテナのせい。
それはもう随分と前に考えていた。自分の罪に怯え、恐れ、少しでも逃れるために、正当化するために考えたことだ。
今ではその過去すら疎いくらい。それでも、エリスはそういうのだろうか。わたしのせいだけじゃないと甘い言葉を与えるのは、悪魔だからだろうか。
しかし、悪魔に魅入られたのはわたし。わたしの弱い心が、エリスを引きこんでしまった。そうなった以上、もう、どうすることもできない。
「カリスティ……」
アテナの言葉が、冷や水のようにわたしにかかってくる。
続く言葉は呪いだろうか。
覚悟を決めて彼女の顔を見つめることさえも、未だかつてないほど、かなり勇気のいることになってしまった。
けれど……どういうことだろう。
わたしには常に足りない勇気を振り絞って見つめた先にあったアテナの表情は、わたしの予想に反して、とても温かく、切なげなものだったのだ。
「カリスティ、御免なさい」
その謝罪の意味が、わたしには全く分からなかった。




