12.混乱
眠ってから起きるまでが今のわたしの一日。
今日もまたわたしはわたしのままで起きることが出来た。でも、その一日が何回繰り返されてきたのか、わたしはよく覚えていない。
長くユグドラシルの姿を見ていない事だけは感じた。
恋しいけれど、会う事は出来ない。だって、彼女に会ったら大変な事になるだろうと分かるから。
――それでいいの? あなたの母親なのに。
割り込むようにエリスの声は聞こえてくる。
姿が見えずとも、エリスはわたしと共にいる。青くて美しい光陰を引き連れながら、わたしとアテナを面白そうに見つめている。その視線に耐えながら、罪人のわたしのみならず、アテナもまたこの部屋に留まり続けていた。
命令は、下っている。下ったも同然。
アテナに全てを任せるのだと神官長の娘はわざわざ伝えに来た。それからずっとわたしは待っている。アテナと共に眠りに就く時を。
――それでいいの? あなたのせいでアテナは死ぬのよ。
アテナ。呟くことも出来ない口で、その名を呟く。彼女は部屋の隅で蹲りながら、時折俯いて考え込んでいるようだった。
エリスはそんな彼女に接近する事もある。
縛られたわたしを生かしたまま楽にする方法を吹きこんでいるのだ。それは穢れなき一角獣に罪を唆す姿は、わたしの目にも度々映った。
けれど、どうしてだろう。
寝ては覚め、わたしの中の一日が過ぎれば過ぎるほど、わたしの心の中ではある種の芽生えのようなものが起こっていた。
神々はわたし達を助けてはくれない。ユグドラシルを、聖域を、自分達の決めた世界を守るために、わたし達の死を求めている。
尊い死なんてない。わたしとアテナがどうして死ななくちゃならないんだろう。
――そうよ。死ぬ必要なんてないの。
エリスの姿が浮かび上がり、そっとその手でアテナに触れる。
「殺したく、ないのでしょう?」
わたしと、アテナ。二人に向けてエリスは言った。
……違う。わたし達はやっぱり死ななくてはいけないんだ。エリスに侵されてしまったこの果実を生まれ変わらせなければ、アテナが守ってきたものが滅んでしまう。この神殿の人々だって、わたしの知らぬ神殿の外の人々だって。
――アテナの家族だって。
エリスの声が頭に響いて、思考が一瞬だけ止まってしまった。
アテナの家族だって、そうだ。アテナの家族だって滅んでしまう。アテナにアテナという名前を与えた人たちが、アテナをアテナとして生み出した人たちが。
わたしには決して介入できない絆を、アテナと結んでいる人たちが。
途端に頭が割れそうなくらい痛み、瞳の奥で銀色の輝きが過ぎっていく。水面の揺らめき。彫られた言葉。固い銀の感触。何処か寂しげなアテナの表情。
そして、わたしの中で生まれる醜い炎の火種。
――本当はあなただって、アテナを一人占めにしたいのでしょう?
エリスに囁かれた途端、封じられた口の中で悲鳴が生まれた。
いくら喚いても、泣き叫んでも、過去の醜さは消えたりしない。
わたしが――英知の果実を宿しているはずのわたしが、どうして嫉妬なんかに狂ってしまったのか、わたしにはよく分からない。この心臓に知恵を幾ら詰め込まれていても、その使い方が分からないわたしは愚鈍。英知という名を与えられたアテナとはどうしても釣り合わない。
――そんなことないわ。
エリスが抱きしめるようにわたしに語りかける。
――愚鈍の気付きも知恵の一つ。あなたは確かに英知の果実よ。
そうだとしても、遅過ぎる。エリスに呪われたこの身を、この身体を、この肉体を?
いやだ。死にたくない。
唐突に別の意識が流れ込んできた。これまで、わたしがわたしのものではないと必死に思おうとしていた意識が、わたしの声で再生される。
死にたくない。アテナと一緒に居たい。アテナさえいたらそれでいい。
「あなた達はよく頑張ったわ」
その時、エリスが口を介してわたし達二人に対して言った。
「別に考えなくてもいいのに、頑張って考え続けた。わたしの言葉に負けずに、知性を捨てないように守ってきた。それならいっその事、もっと踏み込んで考えてごらんなさいな」
「踏みこんで……?」
アテナが震えながら呟くと、エリスがそっとその頭を撫でる。悪魔であるはずなのに、美しい金髪碧眼の少女の姿は、息を飲むほど美しいから恐ろしい。
「ええ、一歩だけ踏み込むの。あなたもカリスティも、ずっとユグドラシルと聖域への信仰という固定概念に縛られて育っているのだと気付きなさい。英知の天使が与えた知恵とは、その信仰を大きく上回るものよ」
信仰を上回る知恵。その意味がわたしにはよく分からない。ただ、エリスに毒された果実と、アテナの身体が大きく震えているのを感じて、悪魔が悪魔らしくわたし達を唆そうとしていることは分かった。
エリスは戸惑うアテナに微笑みを浮かべる。
「人々はあなた達を犠牲にした。けれど、あなた達の犠牲がなくとも、人間は本来生きていけるもの。魔物から守るという不自然の代償としてあなた達の存在があるに過ぎない。けれど、英知の天使は知っていた。代償などなくても本当は人間たちを守る聖域を創ることが出来るということを」
まるで実在している聖典でも諳んじるように、エリスはわたし達に向かって語る。
「けれど、英知の天使は神々から生まれた存在。尊属の許しなくして勝手に力を使う事は出来ない。だから、神々の判断に委ねるしかなかった。そして、生まれたのが武器と果実という存在。その身を痛めて捧げた青い羽根は、物言わぬ槍などではなく、生贄のような少女の身体に刻まれる呪いとなった」
青い目を光らせ、エリスが半透明の翼を広げた。
「天使は失望し、堕落し、消滅した。だからもういない。神々の過ちを指摘できる者はもういない。英知の悪魔であるわたしを除いては」
その眼差しに冷やりとしたものを感じた。
強い意思。頑固な信念。固定概念に縛られているのはむしろ悪魔の方なのではないかとさえ思ってしまうくらい。
だとしても、わたしは、わたしは……。
――素直になりなさいな、カリスティ。
頭の中で囁かれながら、段々と負の感情を収めていたはずの箱の蓋がずらされていく。顔を覗かせるのは目を覆いたくなるような醜い欲望の数々。初めから呪われていたのだと信じたくなるような過去の記憶。
懐かしげに微笑んでいるアテナの姿が見える。
悲しげに思い出を語るアテナの姿が見える。
どうして、どうして、どうして槍は果実と共に生まれないの。どうして、槍と果実は平等じゃないんだろう。
今よりもずっと幼い感情が黒く、黒く、濁っている。
ああ、エリス。これは、あなたの仕業? あなたは、あなたは一体。
「あなたは一体、何者なの……?」
押し殺した声。アテナが怯えた目でエリスを見つめている。人智を超えた力を宿す青い翼の持ち主を見つめている。
「わたしは悪魔。この世界の誰よりも天使を憎み、そして愛していた者」
エリスは微笑んだまま答えた。
ああ、この悪魔は。
「消えた天使の抱えていた本当の願いを代わりに叶えてあげる者よ」
この悪魔は、天使すらわたしのようだったと言いたいのだろうか。
神々の判断は間違ってなんかいない。
それがわたしやアテナの存在する意義だった。
もしも、間違っているのだとしたら、これまでの槍と果実の歴史は何だったのだろう。魔物から身を守るために、神々は果実と槍を生みだして、人々にユグドラシルを守るように命じた。変事が起こらない限り、果実も槍も平穏のまま百年生き延びられるのだ。
そう、エリスさえ介入しなければ、わたしもアテナも比較的穏やかに過ごせていたかもしれない。
「そうして百年の時を過ごして、再び何処かで赤ん坊を奪われる家族が生まれる」
考え続けるわたしに対して、エリスは話しかけてきた。
アテナは眠ってしまっている。部屋の隅で俯いたまま眠ってしまっていた。その寝顔は少しも安らぐことはない。
そんな身分にされてしまったのは、わたしの所為。
槍の印を持って生まれてしまった所為。
「ここで死んでもまた同じ事。これまでだってそうだった。悲劇を繰り返さない為には、あなたは従うしかない。カリスティ。わたしに従いなさい」
いやだ。この先はいやだ。
「苦しみから解放してあげるわ。力も与えてあげる。だからもっとよく考えて、素直になるの。あなたにはあなたの願いがあるはず。その願いを叶えて、果実として完成した時こそ、あなたはその苦しみから解放される」
いけない。解放されたいわけじゃない。
ユグドラシル。あの人はわたしの母なのだ。枯らしたくない。枯らしてしまいたくない。いままでずっとわたしを見守り、愛情を与えてくれた生母を傷つけたくない。
「――カリスティ」
名を呼ばれ、思考が滞る。
「その願いに身を委ねなさい」
強い言葉によって心が引っ張られるような感覚に陥った。
動けないこの身体の中で、意識のみが溶解の海に落とされてどろどろに溶けてしまうかのような痛みが生まれる。ずっと守ってきた価値観も、意識も、そしてこの果実も、すべてが鎖から解き放たれるかのように軽くなっていくようだった。
アテナ。わたしは、アテナに返したい。
何を? その答えは此処には無い。
返したらどうなる? 返したら、何が起こる?
分からない。でも、そうすればアテナは死なないで済むかもしれない。アテナは死なず、わたしも死なず、ずっと一緒に居られるかもしれない。
――それを叶えてくれるのは誰?
目が覚めたかのようだった。これまでずっともやもやとした霧の夢に閉じ込められていたかのよう。目が覚めた途端、わたしを拘束していた全ての装置が壊れ、外れ、身体が軽くなった。
物音にアテナが目を覚まし、そして、第三者が此処へ侵入する。
「――カリスティ様!」
ヒパティア。
わたしをここに閉じ込めた張本人。誰よりもわたしの事を知っておきながら、この事態を止められなかった哀れな賢者。
近づこうとする彼女を、エリスが睨みつける。
「丁度いいわね」
ぎらりとした刃のような殺気が、ヒパティアへと向いた途端、わたしの中で根拠の分からない憎しみのようなものが燃え盛った。
憎い。わたしを救えないもの全てが憎い。果実であるはずのわたしをこんな姿にした全てが憎くて妬ましい。
「解き放ちなさい」
エリスの言葉によって、心の扉は開かれた。青い槍のような影がヒパティアを狙って現れると、傍で見ていたアテナがやっと大声を上げた。
「逃げて、ヒパティア!」
でも、逃がしはしない。
高度な魔術をいくら知っていようと、それを越える力の前では役に立たない。逃げることだけが彼女の防御であるならば、その手段すら封じてしまわねばならない。
愚かな抵抗か、浅はかな逃亡か。
ヒパティアの選択はどちらだろうか。
しかし、わたしの期待にも似た予想に反して、ヒパティアはそのどちらも選択しなかった。彼女が向かったのはアテナの元。座り込んだままわたしの変貌を驚いた目で見つめているアテナの元へと滑りこんでいった。
「アテナ、私と一緒に――」
いやだ。行かせない。アテナは連れて行かせない。
強い想いが力となる。青い槍のような光がうねり、部屋の隅に居るヒパティアとアテナを狙って飛び掛かっていく。
狙うのは二人。逃がさない。逃がしてはいけない。
「やめて、カリスティ!」
アテナの悲鳴なんて、わたしには聞こえない。
「やめてっ!」
アテナの絶叫。耳に突き刺さる。もやもやとした霧がすっと晴れて、段々と頭の中が覚めていく。何をしていた? わたしは……わたしは、何をしていた?
目の前に広がる光景をしばらく見つめながら、わたしは現実を現実として受け止めることが出来ずにいた。
赤い。赤色が広がっている。英知の国には似合わない色。黒々とした赤。その中で、青い光が輝き、何かが蠢いている。
――アテナ……ヒパティア……。
大怪我をして倒れたまま動けずにいるヒパティアと、そんな彼女を庇うように蠢く赤黒いもの。中心で青い光が輝くと、呻きながらじわじわと傷を治していく。
アテナが、傷ついている。
――わたしが……わたしがやったの?
「今の内よ、カリスティ」
涼しげな声が頭の中で響く。
「さあ、行きなさい」
その命令に逆らう力が、わたしにはなかった。




