11.屈服
清めの間に連れて行かれる。
そう聞いたわたしの口からは精一杯の拒絶の言葉が飛び出していた。
暴れながら抵抗するその姿は、この神殿に仕える全ての人が驚くくらい醜く愚かなものであっただろう。
そう思わなくてはいけない。
英知の民ならば、そう思ってくれなくては困る。
抵抗する自分を感じていながら、わたしの心は早く清めの間に辿り着きたいとさえ思っていた。いつもならば嫌な場所。天使の系譜の者ならば誰だって嫌がるのだというあの場所。それでも、今だけはさっさとあの場所に自分を閉じ込めて欲しかった。
アテナから出来る限り引き離して欲しい。
どんな罰を受けようと、アテナの力等借りずにどうにかしてほしい。
「カリスティ様」
清めの間の重たい扉が開けられる直前、暴れ疲れて朦朧としているわたしの耳元で、ヒパティアが静かに宥めるように語りかけてきた。
魔術の含まれないありのままの言葉だ。
「あなたを御救いするのはエリスではありません。それを忘れないで。あなたも、ソフィアも、生き延びられるように力を尽くします」
涙が出てきそうだった。
一生幽閉されたとしても、二度と外へと出られなくなったとしても、愛する生母ユグドラシルに会えなくなったとしても、わたしは構わない。
アテナがそれで生き延びられるのなら、この国がきちんと守られるのなら、百年の時を生き長らえることが出来るというのなら、そして、英知の国の民を悪魔から守る事が出来るというのなら、このままエリスと共に深い闇の向こうで鎖に繋がれてしまおう。
一生青空を見ることがなくなっても、十年と言う時の間に見られたこの青空は、忘れたりしない。そして、この湖の波の音も、風に遊ばれるユグドラシルの枝の音も、全てを忘れずに覚えていよう。
重たい扉が開けられ、ガーディアンたちに連れられて中へと連れて行かれる。
その途端、引っ込んでいたわたしの影が再び顔を覗かせた。
このまま一生此処に居るなんて嫌。
だって、エリスはわたしに約束してくれた。わたしとアテナがずっと安心して暮らせることを約束してくれた。
わたしの守護者はもはや天使ではない。人々から悪魔と罵られるエリスこそが、わたしとアテナの幸せを約束してくれる存在ではないのか。
――そうよ。わたしが。わたしこそが。
違う、違う。そんなわけはない。
多くの人々の命を弄んで、身勝手に世界を変えようとしている悪魔がわたし達の守護者なわけはない。彼女に騙されてはいけない。彼女に従ったって幸せな世界は約束されない。
だって、そうだったらどうしてわたしを罠にかけてまで手に入れたのだ。
こんな手順で引きずられてしまった以上、エリスを信じていいはずがない。
「ヒパティア……」
自分の意識が何処にあるかも分からない状況の中、奇跡的にわたしは自分の口を自分で使ってヒパティアに話しかけることが出来た。
「お願い、魔術を……」
これは確かにわたしだとヒパティアにも分かったのだろう。静かに耳を傾け、わたしの目を見つめてきた。その目に向かって、わたしは心から懇願した。
「魔術をかけて、わたしを閉じ込めて……」
そこまでが限界だった。
何が正しくて、何が間違っているのだろう。
こうなってしまった以上、わたしに出来る事はこれから先、間違わないということだけだろう。
わたしは未熟だった。未熟なまま大人になってしまった。
果実は熟していても、心が熟さないままだった。
そうしてまんまとエリスに騙され、こんな事になってしまったのだ。
だから、わたしは決して怨まない。英知の国の人々を、神殿に仕える人々を、この清めの間に潜む人々を、こんな決断を下したヒパティアのことを。
そして何よりも、わたしを見つめたまま苦悩しているアテナのことを。
吊るされたわたし。言葉を封じられたわたし。果実として大変な罪を犯してしまったわたしを縛る拘束装置に阻まれながらも、それでもわたしの口は懸命に同じ部屋に留まるアテナに呼びかけようとしていた。
わたしの意思ではない。そう信じたかった。
エリスはずっとこの部屋にいる。清めの間の、何処とも分からないような怪しげな空間の中で、恨めしそうにわたしの様子を見つめながら、度々アテナへと視線を送っている。
アテナは……その姿が見えているのだろうか。
「カリスティ」
どのくらいの時が経ったかなんてもはや予想も出来ない。ヒパティアに動きを封じられたまま拘束装置の餌食となったのが遥か昔のことのようにも思えるし、嫌々清めの間に入れられたのがつい先ほどのようにも思えた。
そんな中で、アテナの声を真正面から受け取るのは非常に久しぶりなことに思えた。
「許して、カリスティ」
震えながら彼女が呟くのは、わたしに対する懺悔ばかりだった。
違う。アテナは何も悪くない。本当に、何も悪くないんだ。悪かったのはわたし。裁かれるのはわたしだけでいい。
けれど、神々はそれを許してくれない。英知の天使も許してくれない。わたしの罪はアテナの罪でもあるのだとでも言っているかのよう。わたしという不要な果実の鼓動を止めて、自害する事をアテナに求めているというのだろうか。
「そうよ、カリスティ」
部屋の隅でエリスが口を開くと、アテナがはっと顔を上げた。
「神々はあなた達を滅ぼすおつもりでしょうね。でも、英知の天使はどうだろう。あなた達の生みの親でもある天使が、あなた達をそう簡単に見捨てたりするかしら」
わたしに向かってそう話すエリスを、アテナが恐る恐る振り返っていた。満足に身動きが取れない中で、その表情をどうにか見つめ、わたしはやっとその事実を知った。
アテナにも初めて、エリスを感じ取ることが出来るようになったのだ。
エリスもアテナに微笑み返し、一歩だけ彼女に近づいた。
「初めまして……いいえ、違うわね。夢の中で会って以来かしら?」
その言葉。その目。その表情に、怯えを感じた。
青い光。翼。わたしが着せられていた礼服によく似た服を揺らしながら、ぺたぺたと裸足で歩みながら彼女はアテナに近寄っていく。
わたしの、アテナに。
ふっと毒々しい炎のようなものに胸を焼かれるような感覚に陥って苦しくなった。燃え盛る黒い炎の中で、醜い形相でエリスを睨みつけているわたしがいるのが脳裏に浮かぶ。
「お前が、エリス……」
アテナが警戒をぐっと込めた声でエリスを睨んだ途端、わたしの身体が捻りあげられるように悲鳴を上げた。
この感覚は何だろう。狂った思いが弾けては、わたしの心臓に宿る果実が容赦なく皮をむかれていくような気持ちの悪さが生まれる。黄金の果実が穢されている。信じたくない現実を肌で感じて、あまりの恐怖に悲鳴があがった。
そんなわたしを見つめているのは、アテナ。
エリスを警戒しつつも、彼女はすぐにこちらへと近づいてきた。
「カリスティ……」
心配そうなその呼び声に、わたしはどうにか視線を返す。
ああ、あの表情。あの姿。もっと早く、わたしは告白するべきだった。彼女をこんなにも傷つけてしまう前に、もっともっと早くに勇気を出すべきだった。
「アテナ」
エリスの冷たい声がアテナを呼ぶ。
見た目は美しいのに、まるで醜い鬼か何かのようにしか見えなかった。それでも、きっとわたしはエリスに逆らえないのだろう。こうして拘束されていなければ、今すぐにでも果実を悪用して生母ユグドラシルに危害を加えることだろう。
悲しいし、悔しいことだけれど、そんな自分の姿が想像できてしまった。
「カリスティを楽にしてあげたい? 槍で貫いてしまいたい? そんなことではカリスティは報われないわ。こうなったのは、あなたにも責任があるのよ」
涼しげな顔で言われ、アテナは動揺を見せた。
近づいて来るエリスから離れ、今のわたしには鳥肌が立つほど恐ろしい一角獣の槍を召喚してエリスを牽制する。
「来ないで! 私に近づかないで!」
声が震えている。アテナが怯えている。
こんなアテナの姿は見たことがない。弱さを見せる事を禁じられてきた彼女の限界が訪れようとしているのがわたしにもよく伝わってきた。
きっとエリスにもよく伝わっただろう。くすりと微笑んでその場に留まり、軽やかに旋回した。その隙に、アテナが槍を打ち込む。勇ましさと同時に獰猛ささえも感じられて、わたしはやや怯えてしまった。
けれど、わたし達の全てを終わらせる力を持っている聖なる角をもってしても、悪魔を退治する事は敵わなかった。アテナが突き出した槍の先が捉えたのは何もない空中。狙ったはずのエリスは全く違うアテナの背後へと移動していた。
慌てて振り返るアテナの動きをエリスは微笑みだけで止める。
「無駄よ。あなたもまたわたしには逆らえない。逆らえるものなら逆らってみなさい。カリスティをわたしが手に入れた以上、誰にもわたしを止められない」
――御免なさい、アテナ、御免なさい。
エリスの煽りにアテナが怒り、槍を振り回す。かすりもしないその刃の向こうで、エリスは冷静にアテナを見つめていた。
「――お前が来なければ……お前が……!」
アテナの嘆きがわたしの身にも沁み込んでいく。
わたしはエリスを否定出来ない。否定出来たはずの唯一の機会を失ってしまったのだから。こんなわたしはもはや聖女なんかではない。英知を惑わす悪魔。呪われてしまった果実を宿す不吉な入れ物でしかない。
「お前が来なければ……」
暴れ疲れて床に崩れ泣きだしてしまうアテナを見せつけられ、わたしは茫然としてしまっていた。
この罪はどうしたら償えるのだろう。わたしはどうしたらいいのだろう。
その事ばかりが頭を過ぎっていく。
「二人とも、考えるのを止めなさい」
エリスの声がアテナのすすり泣く声を覆うように響いている。
「考えるのを止めて、何もかも忘れてしまいなさい。すぐに苦しみは消えてなくなる。何も考えず、わたしだけを信じなさい。そうしたら、こんな矛盾だらけの世界ではなく、本当に人間たちが守られる世界を見せてあげるわ」
騙されてはいけない。悪魔の言葉に耳を傾けてはいけない。
それでも、もう遅い。わたしは騙されてしまった後なのだ。そして、果実を通してアテナまでもが道連れにされてしまっている。
ならば今できる事は何か。
囚われた以上、せめて、悪魔を好きにさせないじゃじゃ馬でいることくらいしかないだろう。行動の全てを支配されたとしても、わたしをわたしとして保てるこの希望を、最後まで手放さないでいる事だろう。
最後の最後まで。
わたしはわたしのままで。
エリスにどれだけ絶望を植え付けられたとしても、そう簡単には支配されない。そう簡単には思い通りにはさせられない。
ユグドラシル。せめてあなたに足があったらいいのに。英知の天使。あなたが舞い降りてわたしに裁きをもたらしてくれたらいいのに。そして、わが英知の国を見守っている神々。あなた方が悪魔を滅ぼしてくれたらいいのに。
「考えるのはやめなさい」
エリスが翼を広げて叱り飛ばす。
わたしを動かせぬ苛立ちか、従おうとしないわたしの心への嫌悪感か、翼を広げ、わたし達を見つめる彼女の異様に青い目が神々しくさえ見えてしまう。
違う。神々しいものではない。違う。
段々と思考が滞ろうとしているのを感じては、すぐにまた意識を入れ替えた。
これの繰り返し。
一体いつまで持つだろう。
わたしも、アテナも。




