10.天邪鬼
――どう足掻いても無駄よ。あなた達に勝ち目はない。
まるで意識が重たい岩の下に押しつぶされているかのようだった。
目に見える光景も、肌で感じる感触も、確かに自分のものだと認識できるのに、身体の制御はまったくきかない。それどころか、思ってもいない事を悲鳴として吐き出しているのが自分だなんて信じられないくらいだった。
決して少なくはない人々が不安げにわたしを見守っているこの光景は、惨めで恥ずかしいことでもあった。
わたしが果実としていかに駄目であったのかを、きっと今になって全員が思い知ったことだろう。
怨まれたっていい。蔑まれたっていい。
それらは仕方のないことなのだ。
だってわたしは果実として生まれていながら、神々に逆らってしまう穢れた存在へと成り果ててしまったのだから。
けれど、それでも、わたしは怯えていた。地に堕ち腐った果実として、この国の全ての人に罵られようと受け止めよう。その罪はわたしのものであるのだ。せめてこの身が滅びるまでは、意地でも青い礼服の似合う果実でありたかった。
しかし、そんなわたしにも、一つだけ恐れと拒絶が入り混じる事柄があった。
――アテナ。
彼女が来る。此処へ来てしまう。ヒパティアの命令が下ってから暫く、あと少しでアテナは来てしまう。そして、この状態のわたしを見てしまう。わたし達二人の行く末を決める選択を迫られてしまう。
いやだ。アテナに会いたくない。
でもどうして。こうなった以上、アテナに殺されるのが正しい果実の姿勢だろう。アテナに対して罪を覚えながら、共に眠りに就くことこそ、この国の人々が求める選択であるはずだろう。
それでも、わたしはいやだった。
アテナに嫌われたくない。アテナに殺されたくない。アテナを死なせたくない。
「心配いらないわ」
エリスがわたしの額を拭う。身体を抑えているガーディアンの男には彼女の姿なんて見えていないようだ。
「あなたも、アテナも、わたしが守ってあげる」
そんなの嘘。嘘に決まっている。だって、この少女は――少女の姿をした者は、悪魔なのだ。愛らしい姿をしていても、優しい言葉を投げかけてきたとしても、わたしを暗闇に引っ張りこむために少なくとも二人の女性を犠牲にした。
それだけじゃない。
強制的に吸血鬼の血を開花されたモルフォは、英知の国のあちらこちらで平穏に暮らしていた処女たちの命を糧とした。殺せば殺すほど力は暴走し、モルフォのまともな精神をぼろぼろにしていった。
――モルフォ、あなたも泣いているの?
少しでも気を抜けば、モルフォの見てきたもの、感じてきたものがわたしの思考に流れ込んで来る。騙された嘆きと、混乱、そして身を焼き尽くすかのような血への渇望と、殺戮への明らかな悦び。
だんだんとおかしくなっていく自分と向き合いながらも、いつしか感じる心を奪われていいなりになってしまった。
そうして抱いたのが、解放という願い。多くの罪、苦しみ、悲しみ、悔しさから解放される為に、彼女は他ならぬわたしに対して安らかな死を求めてきた。
「叶えてあげたのは、あなたよ」
悲劇の連鎖。これが悪魔と呼ばれる所以なのだろう。
モルフォ、ヘーベ、そしてそれ以前の名前も知らない英知の民たちの顔が次々に浮かび上がる。老若男女問わず、さまざまな人々がさまざまな背景でエリスに抱かれ、そして残酷にも捨てられてしまった。
「それは違うわ。捨てたんじゃない。彼らはあなたの中にいるもの」
この連鎖はわたしで止まるのだろうか。
それとも、誰かに引き継がれることがあるのだろうか。
引き継がれるようなこともあってはいけない。エリスがわたしの中にいる限り、同じ不幸を背負う人が新たに現れる事はないのだから。
そうだ。エリスに負けてはならない。エリスに抱かれながらも、ぐっと抑え込んで逃がさないくらいの強さがあれば……そんな強さがあれば、わたしにだって――。
考えがぷつりと途切れそうになりゆく最中、急に痺れのようなものが全身を駆け廻った。決して、いい感覚ではなかった。耳が捉えたのは音。わたしの部屋の扉を開ける音。誰が来てもおかしくないこの状況。けれどわたしは、その時、誰が入室したのだかはっきりと分かってしまったのだ。
分かった途端、自分でも恐れるほどの絶叫が口から飛び出していった。
慌てて抑えこむガーディアンの男をエリスが睨んでいる。けれど、彼の方にはエリスはやっぱり見えていない。
一方、見えているはずのヒパティアはエリスを無視してわたしの額に手を当てて、なにやら魔術を唱え出した。
そんなやり取りを何処か客観的に捉えていると、寝室へ飛び込んでくる気配が強まった。
「ソフィア……」
誰かの声の通り、アテナはそこにいた。
大好きなアテナ。わたしの為に縛られたアテナ。いま、一番会いたくて、一番この姿を見せたくなかった人。
その名を呼んではいけない人。
これまでだって、甘える時間はあまりにも足りなかった。
「ええ、だから、これからは思う存分、独占してしまいなさい」
くすりとエリスが笑った途端、わたしの感情は暴走した。
「ソフィア……ソフィア、ソフィア――」
「いけない、抑えて!」
ヒパティアが鋭く命令した直後、自分の身体が勝手に暴れ出した。
屈強な肉体をもったガーディアンですら、わたしを抑え込むのは難しいようだった。そんな拘束に必死に抵抗するわたし。
どんなに醜くて、どんなに汚らわしいことだろう。
アテナはそんなわたしを見つめているのだ。じっと、あの梟の目で見つめているのだ。
「いやあ、ソフィア!」
見ないで。わたしを見ないで。
その目で見ないで。わたしから離れて。逃げて。でも、いかないで。置いて行かないで。一人にしないで。わたしを見捨てないで。
――もっと吐き出しなさい。
エリスが溢れる感情をさらにかき混ぜようとしている。しかし、額を抑えるヒパティアが逆にそれを抑制しようと働きかけていた。
二つの力に抑えこまれて、わたしの意識は全く動けなかった。ただし、優勢なのはエリスのようだ。わたしの身体の操縦は、完全にエリスが握っていた。
「カリスティ、何が……あったの……?」
アテナが戸惑いながら部屋へと踏み込んだ。
その瞬間、わたしの中で得体のしれない恐怖だけがぐんと上昇した。
「来ないで!」
自分のものだとすぐには理解出来ない程の悲鳴を上げながら、わたしはアテナを拒絶し続けていた。
「来ないで、ソフィア、来ないで!」
どうして、来ては駄目なのか。
わたしは穢れているからなのか。悪魔の目に曝されぬようにか。この醜い姿を見られたくないからなのか。アテナを傷つけない為なのか。
いや、どれも違う。
わたしはアテナに恐怖を抱いていた。殺されなければと思った傍から、殺されることに確かにはっきりとした恐怖を抱き、拒絶していたのだ。
死にたくない。死にたくない。殺されたくない。死にたくない。
この国の為に、ユグドラシルの為に、聖域を守る為に、今のわたしを完全に壊す事が出来るアテナの存在が、恐ろしかった為なのだ。
――そうよ、それがあなたの本心。
エリスの声が果実に共鳴している。
――感情を解き放ちなさい、カリスティ。
いやだ。これ以上、壊れてはいけない。わたしは果実。ユグドラシルに守られた卵から孵った果実の子。英知の名を持つ気高い天使の血を引いた者として、これ以上の腐敗を許してはいけない。
それなのに。
「ソフィア、お願い、助けて、ソフィア」
わたしの口がまた勝手に言葉を放つ。
「苦しいの。この人達、怖いの。助けて。この人達を倒してよ。わたし、何もしていないんだよ。何もしていないの、本当なの。助けて、ソフィア。あなただけなの。あなただけが味方なの」
いけない。罠だ。アテナを混乱させようとしている。エリスの牙がアテナにまで向いている。いけない。アテナを穢してはいけない。
アテナは一角獣。正義の一角獣。お願い、わたしを貫いて。
――残念だけれど、あの子も人の子なの。
エリスが言った直後、アテナが槍を呼びだした。
偽りのわたしの言葉に反応してだろうか。わたしが正しくない願いを言ったというのに、それを叶えようというのだろうか。
「ソフィア……何のつもりだ」
神官長の娘の声が聞こえた。
アテナの仲のいいガーディアンの女性。けれど、その人の声さえも、アテナには届いていないらしい。
――駄目。いけない。アテナ。
心ではそう思っているのに、わたしの口から飛び出すのはエリスの言葉。
「やっつけて、お願い」
黄金の果実がわたしではなくエリスを選んだ。
焼けるような左胸の痛みをぼんやりと受け取りながら、わたしは更なる絶望に突き落とされていた。
エリスが使ったのは魔術。だが、ただの魔術ではなく、わたしの果実を悪用してのことだった。果実とより深いつながりを持つアテナが引っ張られている。わたしだけではなく、アテナさえも僕としてしまおうというのだろうか。
英知の国にてこれまでにない悪しき槍と果実が生まれてしまうというのだろうか。
しかし、そんなエリスの目論見はたった一人の人間によって崩されてしまった。
「アテナ」
短くその名を呼ぶのはヒパティア。
意識を集中させて、アテナの姿をその目に捉えている。
「その名に命ずる。槍を捨て、服従しなさい」
これもまた、魔術。
わたしにしたのと同じもの。アテナにも仕込んでいたのだ。こういう時の為だったのだろう。強力な魔術を前に、アテナは動くことも出来ずにその場にひれ伏してしまった。
これに動揺したのはエリスだ。わたしの時とは違い、アテナの動きを直接支配する術は持っていないらしい。
果実がエリスの願いに応じて勝手にわたしを暴れさせる。
「ソフィア……ソフィア……アテナ、アテナ、起きてよう」
でも、無駄な抵抗だ。
アテナはもう動きたくても動けないのだから。
まるで何処か遠くから自分を眺めているかのように、わたしはエリスの敗北をそっと喜んでいた。
現実逃避にも近い、悦びだった。




