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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第3部
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9.エリス

「――カリスティ」

 その名を耳元で囁くのは悪魔。

 長い時を彷徨い続ける英知の国の青い悪魔。

「あなたは優しい子だった。モルフォを罪と苦しみから解き放ってあげたのだもの。でもね、カリスティ。あの子はわたしのものだったの。そうなるという誓いを交わした中だったの。多少、無理矢理ではあったかもしれないけれど、わたしはわたしなりにあの子を愛していたのよ」

 ――そう。

 エリスがわたしの頬に手を当てる。仄かな冷たさは氷のようだった。

「あなたは殺してしまった。わたしの大切な宝物を殺してしまったわね。それは罪。大きな罪。神々でさえも力の及ばない程の罪。贖罪しょくざいするにはどうすればいいか。簡単な事なの。そして、もう決まってしまった事なの」

「――いやだ」

 やっと声が出た。

 状況を理解していって、初めて、その残酷な事態に気付けた。

「こんなの……嘘。夢の中の話よ……」

 どうやって、避ければよかったのだろう。

 どうやって、逃げればよかったのだろう。

 嘘だ。夢だ。そう信じることでしか、わたしは希望を持てなくなっていた。

「残念ね。夢だけれど、現実なの。あなたはもう逃げられない。あとはわたしに任せなさい。あなたの心を素直にしてあげる。内なる願いを全て叶えたあと、一緒にユグドラシルを枯らしてしまいましょう」

「――いやだ!」

 エリスから離れようともがいたけれど、この手は虚しく宙をかいた。傍には誰もいない。その代わりに、身体が異様に熱かった。

 ――拒否しても無駄。

 エリスの声が身体の中から聞こえてくる。

 ――今更喚いても無駄なの。

 それでもユグドラシルを枯らすなんてことが出来るはずもない。だって彼女はわたしの母親なのに。いつも優しくわたしに語りかけ、温かく見守って来てくれた母親。そんな聖樹を枯らすなんてこと、出来る筈がない。

「ええ、その気持ちは分からないでもない」

 わたしを抱きしめながら、エリスが口で語る。

「わたしにとってもユグドラシルは他人なんかじゃない。でもね、カリスティ。世界を正しく作り直すには、あの聖樹は一度枯らしてしまう必要があるの」

 そんな恐ろしくて残酷なことが出来るわけない。

「いいえ、あなたには出来るわ。ねえ、カリスティ。あなたはアテナとずっと一緒にいたいのでしょう?」

「――アテナ」

「そう、アテナ。彼女といつまでも幸せに過ごしたいでしょう? いいのよ。そう思ったって別にいいの。だってあなたはまだ十歳の子どもなんだから。大好きなアテナと永遠の世界で過ごす。素敵でしょう? わたしなら、そんな約束をあなたにしてあげられるの」

 ――アテナとずっと幸せな場所に。

「その為にはどうしたらいいかしら? そうね。まずは仲直りしなくてはいけないわね。あなたの内なる願いは『修復』。心配しないで、わたしに任せなさい」

 頭を撫でられると、不思議なくらい思考が止まっていく。

 鼓動が早まり、身体の中心に秘められている果実が熱を持っているのが自分でも分かった。胸を押さえてじっとしていると、冷たい翼に抱かれて、より心地よく感じてしまう。

 ――でも、いけない。

 エリスの言葉に耳を貸してはいけない。

 もう遅過ぎるということはさすがに分かった。だったら、希望なんてもう持たない。出来損ないのわたしを愛してくれた生母を枯らしてしまうくらいなら、その前にわたしはアテナに助けてもらうしかない。

 けれどそれは、アテナも道連れにしてしまうということ。

「御免なさい、アテナ」

 わたしはあまりに愚かだった。

「そんなことないわ」

 絶望するわたしをエリスは慰める。

 冷たい口調でもなければ、その表情もユグドラシルが見せてくれた温かさにもよく似ている。怯えるわたしを勇気づけるかのように、エリスは言う。

「仕方ないことよ。こうなってしまったのだもの。神々にわたしを止める事は出来ない。アテナだってそう。それに、あの子を死なせたくないのでしょう? あの子もきっと同じよ。それでも神々はあなた達に湖底の砂となるよう命じるでしょうね」

 それがこの英知の国の人々の為ならば。

 頭では分かっていても、辛いと思ってしまう。

 そんな資格、わたしには無いのに。

「わたしはどうしたらいいの……」

 絶望と虚無感に襲われ、ただ青い悪魔に抱かれている事しか出来なかった。

「どうしたら、この罪は償えるの……」

 神様、どうかアテナだけでも御救いください。

 わたしという果実を抱く羽目になった、運のない彼女を助けてください。

「無駄よ」

 鋭い声でエリスは言う。

「神々なんて信じては駄目。彼らは人間の味方などではない。上へ行けば行くほど、恩情というものは薄れていく。聖域の中で殺し合いがあるのは何故か。罪を犯してまでわたしに助けを求める者がいるのは何故か。考えてみなさい、カリスティ」

 声が震えるように響き渡り、わたしを抱くエリスの手に力が込められる。その途端、胸を締め付けられ、意識が遠ざかっていくのが分かった。

 神々はわたしもアテナも助けてくれない。こうなった時の為にアテナのような存在を残すように天使に命じたのだから。わたしが罪人となってしまった以上、アテナの死は神々にとってもっとも正しい道となるのだろう。

 それでも、死後はきっとばらばらだ。

 わたしは地底へ、アテナは天上へ。

 もう二度と交わることもないだろう。

「安心なさい、カリスティ」

 幼い声で、愛らしい声で、エリスはわたしに語りかける。

「わたしが守ってあげる。あなたとアテナを引き離したりなんてしないわ」

 その言葉が嘘と偽りで固められていることだけは、よく分かった。


 瞼が開いた瞬間、此処が何処なのか分からなかった。

 じっと天井を見つめ、そして次第にその場所に気付いていく。わたしの部屋だ。歴代の果実が過ごした果実の為の部屋。

 そして、今のわたしには最も相応しくないこの場所。

 それは何故か。

 気付いた途端、わたしは悲鳴を上げた。

 ただの悪夢だったのならばどんなに良かったか。しかし、悪夢ではないのだ。そう分からせてくれる存在が、すぐ傍でわたしを見つめている。わたしの額を撫でている。どうして、どうして身体は動かないのだろう。思うようには動かず、口から出せるのも悲鳴だけ。

「抑えて、早く!」

 ヒパティアの声が聞こえた。

 目が勝手にそちらを向き、ヒパティアの姿を捉えた瞬間、急に逃げ出したい気持ちに襲われた。逃げていいわけはない。でも、今のわたしを正しく認識しているのは彼女だけ。わたしがもはや取り返しのつかない身であることも分かっているかもしれない。

 身体が弾かれるように動いたその途端、ヒパティアの命令に従ったガーディアンがわたしを抑えつけた。強い力にも関わらず、わたしの身体は同じくらいの力で抵抗していた。

 何故、こんなにも強い力が出るのだろう。

 そして、何故、勝手に動いているのだろう。

 混乱が重なり、悲鳴と呻き声はさらに生まれる。

「カリスティ様、聞こえますか?」

 ヒパティアが落ち着いた声で話しかけてきた。

「聞こえていたら、お返事ください。私です、ヒパティアですよ」

「ヒパティア……」

 言われた通り、どうにか返答は出来た。

 けれど、身体は言う事を聞かない。エリスが傍でわたしを見ている。逃げ出すように、放して貰うようにと命じているのが肌で感じられた。

「ヒパティア、ヒパティア、放して、お願い……放してぇ!」

 身体はもはや言う事を聞かなかった。

 ただ暴れ、喚き、その場を逃げようとする存在と成り果てているわたしを、この部屋にいる者たちがどんな目で見ているのか、それすらも気にならなかった。

「カリスティ、眠りなさい」

 ヒパティアの声色が変わる。魔術だ。どっと頭の中に靄がかかり、眠気が増大する。寝てしまえば楽になるだろう。しかし、それはエリスが許してくれなかった。

「起きていなさい、カリスティ」

 逆の作用がわたしの身体に起こり、その狭間でぶつかり合う。エリスの声に反応して、左胸の奥で眠っている黄金の果実が、ヒパティアの強い魔力をはじき返そうとしていた。

 それでも、もう暴れる事は出来なかった。

 じっとしているわたしを労わるように、エリスは撫でてくる。

「――ソフィアを呼んできて」

 ヒパティアの指示だけが聞こえてくる。

「確認したいことがあるの。早く!」

 足音が聞こえ、誰かがそれに従ったのが分かった。

 ――アテナ。

 彼女に見せたくない。こんなわたしを見せたくない。全てはわたしのせい。わたしのせいでこんな事になった。

 じゃあ、どうしたらいいの。

「――考えないで」

 エリスがわたしに囁いた。

「全て、わたしに任せなさい」

 任せた先に待っているのは、一体どれだけの大きな罪なのだろう。

「――エリス」

 その時、ヒパティアの呟く声が聞こえてきた。

 エリス。確かにそう呼んだ。ヒパティアにも見えているのだろうか。わたしを苦しめている、わたしの身体を支配している、この青い悪魔が見えているのだろうか。

「久しぶりね」

 エリスは言った。わたしにではない。ヒパティアにだろう。

「悪いけれど、わたしに従わないのならあなたもこれまで。あなたの素質を考えれば勿体ないかもしれないけれど、新しい世界に旧世界のものなんてさほど必要ないもの」

 小馬鹿にするように笑うエリスの顔すらも、今のわたしにははっきりと見えない。けれど、そんなエリスをヒパティアがどんな表情で見つめているのだけは、何となく想像がついた。

 小さな溜息と共に、ヒパティアが冷たく嘆くような声で呟いた。

「あなたは何処まで私たちを苦しめるつもりなの」

 やっぱり、彼女にも見えているのだ。


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