7.うたた寝
いつの間に、わたしは寝ていたのだろう。
ユグドラシルの根に寄りかかって、ぼちぼち部屋に戻ろうと思っていたはずなのに、気付けばわたしは不可思議な夢の海の中に漂っていた。
夢だと気付けたのは突然だった。
だったら覚めてくれればいいのに、一向に夢は終わらなかった。
――どうしてだろう。
ふわふわと漂いながら出口を探して泳いでいると、遠くから何者かが見つめているのに気付いた。その影を見つめてみれば、青い輪郭が段々と鮮やかになっていき、一人の人物の姿を浮かび上がらせた。
見たこともない少女だった。
金髪に碧眼。
年の頃はわたしと同じくらいだろうか。それとも、もう少し上だろうか。よく分からないけれど、美少女であることは確かだった。
「あなたは、誰?」
訊ねた途端、いきなり足が地面に着いた。
気付けばそこは中庭だった。
ユグドラシルによく似た大樹の前で、緑の大地を踏みしめながら、わたしは美少女と向き合って立っていた。
「カリスティ」
少女がわたしの名前を呼ぶ。
その声を聞いた瞬間、わたしは驚いた。
あの声だったのだ。廊下で聞いた声。そして、清めの部屋で聞いた声。たしかにあの声だった。
ヒパティアが悪魔かもしれないと言った声。
そして自分でも悪魔と名乗った声。
「ええ、そうよ。わたしは悪魔と呼ばれる者」
そう名乗った少女が一気に翼を広げる。真っ青な光の翼。青くて綺麗な衣服の後ろで、半透明の立派で禍々しい翼が広がっていった。
「悪魔……」
一歩下がってみても、彼女との距離は何故だか変わらない。
「わたしはエリス」
少女は名乗った。
「あなたが成長するのを心待ちにしていたの」
「成長……?」
「ええ、あなたの中で果実が熟れている。わたしを呼んでいるわ。迎えに来てって言っているの。カリスティ、おいで」
手を伸ばされて、思わず悲鳴をあげてしまった。
美しい顔立ちだ。でも、恐ろしさしか感じなかった。悪魔と名乗られたのだから仕方ないだろう。先代の果実と槍を死へ追いやったのは悪魔。エリスと名乗る彼女がそんな存在であるのならば、近づいていいはずもない。
「……そうよね」
溜め息混じりにエリスは言った。
「あなたはそうやって躾けられてしまったもの。でも、カリスティ。教えてあげる。わたしは悪魔なんて呼ばれているわ。だから仕方なく、わたしも悪魔と名乗っている。でも、本当は違うの。わたしは、あなたを――あなた達を助けるために此処に来たのよ」
「助ける?」
思わず聞いてしまって、はっとした。
騙されちゃ駄目だ。会話をしては駄目だ。
ヒパティアは言っていた。悪魔は人を騙して心を捕まえてしまうのだと。騙されてしまったら取り返しがつかないことになる。だから、身を守るには会話を一切しないことが大切なのだとそう言っていた。
「――ヒパティアらしいわね」
わたしの思考を読んだように、エリスはくすりと笑った。
まるでヒパティアのことをよく知っているようだ。
「ええ、知っているわ。あの人のことはよく知っている。英知の天使に愛された人々の子孫の中でもとてもよく出来た御人形。本格化する前に唾をつけてみたけれど、呆気なく振られてしまったわ。彼女も一方からの真実しか知らないから」
――一方からの真実。
エリスの言葉の端々がわたしの脳裏に引っかかる。
彼女の名前はエリス。金髪碧眼の美少女。確かに英知の悪魔と呼ばれていた者だろう。でも、ヒパティアに聞いていたような人物には思えなかった。
彼女には彼女の理由と目的があるのだろうか。
――いけない。
騙されては駄目だ。
ヒパティアは言っていた。悪魔は人間を使い捨てるのだと。僕と呼ばれる奴隷にするために、次々に人殺しをさせていくのだと。
神々はそんなこと望んではいない。天使だって同じ。だって、彼らは魔物に怯える人間たちを守るために聖域を作ったのだから。
だから、人間の命を玩具のように使い捨てるのは悪魔。この人は悪魔。
「――そうね、悪魔かもしれないわ」
エリスは言った。
「でも、わたしが悪魔だとしたら、果実と槍という存在に全てを押し付ける神々と人間たちもまた悪魔ね。――ええ、あなたとアテナの事よ」
アテナの名前を出されて、はっとした。
思わずエリスへと目を向ければ、美しい青の目がわたしをじっと見つめていた。
「神々は残酷ね。果実と槍という存在を生みだして、終わりの見えない苦しみをあなたとアテナに与え続けているのだから」
――アテナ。
確かにそうだと思う。神々のせいだなんて口が裂けても言えないけれど、アテナのことは申し訳ない。わたしが強ければ、わたしが強さを伴って生まれていれば、アテナが苦しむ事なんてないはずなのに。
家族から引き離されたアテナ。名前すら封印されたアテナ。
その上、わたしはつまらない独占欲で取り返しのつかないことをしてしまった。
「ええ、それも知っているわ」
エリスの強い視線にぞくりと身体が震えた。
「カリスティ。罪作りな子。あなたがそれほどまでにアテナを想うのもまた、神々がそうさせているからよ。だからね、カリスティ。あなたのせいじゃないの。《あれ》はあなたのせいじゃなくて、神々のせいよ。あなたを嫉妬に狂わせたのは、この国の人々が神々と信じている存在のせいなの」
わたしのせいではない。神々がわたしにそう思わせてしまったから。アテナに対しての異様な愛着を与えてしまったから。
――違う。
神々のせいじゃない。
甘い言葉で騙されては駄目だ。たしかに、それだったらどんなに救われるだろう。でも、違う。わたしの罪はわたしのものだ。きちんとアテナに告白して、謝って、もしも許してもらえたならば、初めて解決することだ。
「――そう。それもいいかもね。それならあなたが解決しなさい」
そう言ってエリスは翼を再び広げた。
大風が吹き、ユグドラシルによく似た大樹の枝が揺れる。その中で、わたしはふと第三者の存在に気付いた。
大樹の根元。そこに誰かが横たわっていた。それは、不思議な魅惑を持った大人の女性だった。この神殿に仕えている女性たちと比べても、何かが違うと思わせるものがある。
容姿の美しさだろうか。いや、そうじゃない。何か不可思議な威圧が彼女の目に現れていたのだ。けれど、彼女は苦しそうだった。威圧を感じるのが不思議なくらい、何かに追い詰められていた。
「彼女の名はモルフォ」
エリスがわたしに言った。
「この英知の民の血を引く狩人」
モルフォ。彼女が虚ろな目でどうにかこちらを見つめている。脂汗が浮かんでいる。苦しそうなその様子は、見ているこちらも辛くなるくらいだ。
「彼女は優しい人だった。でも、優しさのあまり、罠にかかってしまった。そうして今、苦しんでいる。この美しい人を救う方法はただ一つ。どうしたらいいか分かる?」
「……分からないわ」
何も考えずに答えると、エリスはそっとモルフォを指差した。
「それなら彼女に直接聞いてみなさい。この場所はね、モルフォが作り出している夢の中なの。彼女が救われない限り、覚める事はないかもしれないわね」
そう言ったきり、エリスの姿はすっと消えてしまった。
「モルフォ」
教えられた名前で読んでみれば、彼女の目がわたしをじっと見上げてきた。
大樹に寄りかかったまま。息は荒い。何処も怪我をしていないようだけれど、まるで大怪我でもしているかのように苦しんでいた。
「どうしたの、モルフォ」
「……君がカリスティ?」
苦しそうな声で彼女はそう訊ねてきた。
真っ白な肌。手を伸ばして、わたしを求めている。そっと座って視線を合わせてみれば、震えた唇の向こうでやや長くて鋭い牙が覗いているのが分かった。
――魔族の人?
その言葉が頭に浮かび、何か忘れている事を思い出しそうになった。でも、何だったのか分からないまま、その感覚は過ぎ去った。
「カリスティ? ……ああ、違ってもいい。……誰でもいい。お願い、私を助けて」
苦しみながら彼女は求める。
何が彼女を苦しめているのか、その原因が何なのか、わたしにはどうしても分からないままだった。
でも、エリスは言っていた。
此処はこのモルフォが作った空間なのだと。彼女が救われないと、覚めない夢の中にいるのだと言っていた。
「どうしたらいいの? どうしたら、あなたを助けられるの?」
「――私を」
ぐっと目を閉じて、彼女は言った。
「私を殺して」
その思わぬ言葉に、わたしは驚いて後退りしてしまった。




