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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第3部
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6.安息

 不安な時間にも終わりの時は来る。

 いったいどのくらいの時が過ぎ去ったのかは全く分からなかった。

 何度か人が訪れる度に期待したけれど、会話をしただけで出ていってしまうということが続いて、落胆した。

 それでも、アテナの無事は分かった。アテナがどうしているのか、大丈夫なのか、すぐに訊ねると、最初は複雑な表情しか帰って来なかった。きっとその時は本当に危なかったのだろうけれど、何度目かではやっと清めの間にヒパティアと一緒にいるのだと教えてくれる魔術師がいた。

 よかった。アテナは大丈夫だった。

 その安心感だけで、残りの時間も過ごす事が出来た。

 そうして、ようやく本当の迎えは来た。

 連れて行かれるのはいつもと同じ場所。清めの儀式が終わった後で、いつもほっと一息つける場所。この清めの間において、唯一わたしは好ましいと思える空間だった。

 そこに、アテナはいた。

 傷一つない身体で、でも、何処か疲れたような表情で彼女はわたしを見つめ、そして寂しげに微笑んでいた。

「ただいま、カリスティ」

 ――おかえり、アテナ。

 やはり、とっさに声は出ず、虚しい震えだけが起こっただけだった。


 アテナに手を引かれて訪れる中庭は、月光の照らす美しい世界へとなっていた。

 幻想的な青。好ましい色。でも、湖の銀色の輝きは、わたしに忘れるなと言わんばかりに存在感を示している。

 アテナと二人きり。いや、ユグドラシルも入れて三人きりだ。

 ヒパティアは言っていた。アテナもユグドラシルも、わたしの家族に違いないのだと。血は繋がっているとはいえないけれど、魂は繋がっている。だから、二人ともかけがえのない存在で、切っても切れない関係なのだと。

 神聖なこの場所に三人きり。

 勿論、吹き抜けの上階から監視されているのは知っている。

 侵入者は捕えたわけでも、殺してしまったわけでもなく、ヒパティアによって攪乱されて自分から逃げていったらしい。だからまた絶対に来る。その時の為に、ガーディアンたちは目を光らせているのだ。

 こんな状況にも関わらず、清めの間を出して貰えたのは何故か。

 アテナが希望したからだ。そして、わたしも希望したから。二人の希望が一致したことで、ヒパティアが許可してくれたからだった。

 恐ろしい外で佇んでいたユグドラシルの根に寄り添い、無事を報告していると、ふとアテナが口を開いた。

「ねえ、カリスティ」

 彼女もまたすぐ傍にいる。

 手を伸ばせば触れられる場所に居るのに、自分から触れる勇気が持てないままだった。

「今日はずっと結界の中にいたものね。好きなだけ此処に居てもいいわ。何かあったら私もすぐに駆けつけるから、安心して」

 そう言い残して、アテナは立ち上がった。

 去ろうとしているのだ。背中を向けられた瞬間、衝動と焦りのようなものが一瞬にして湧き起こった。勇気だの、怯えだの、そこにはもはやなかった。

「待って、ソフィア」

 咄嗟だった。

 咄嗟の行動だった。

 理性なんて何処にもなくて、これまでわたしを縛りつけていた思考の鎖なんてものも何処にもなかった。

 無事で戻って来てくれたアテナ。わたしがまたこの場所に戻れるように希望してくれたアテナ。本当の名を口には出せないこの愛しい槍に、離れて欲しくなかったのだ。

 だから、わたしはアテナに抱きつくことが出来た。

 毎日顔を見せてくれた彼女。だけど、その身体の感触、香り、柔らかさ、その全てが久しぶりのもので、切なくなるくらい好ましいものだった。

 彼女は、わたしの為に戦い続けた。汗と血と、時には無限の命まで消費して。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 謝りながら、わたしは縋った。

「でも、行かないで、ソフィア。何処にも行かないで」

「どうしたの? どうして謝るの、カリスティ?」

 驚いたアテナがこちらを見つめてくる。

 だが、その梟の目を直視できなかった。わたしの心には罪が燻ぶっている。それを見通した時、アテナはわたしの事をどう思うだろう。

 それでも、一緒にいたい。

 もしも嫌われたとしても、今はもう少し一緒に居て欲しい。

 寂しさが爆発しているようだった。これまで甘えたくても罪の意識がそうさせてくれなかった為に積もり積もっていたものが、土砂となって流れ始めたかのようだった。

 自分だけの力では、止められない。

「謝らないで。私は何処にも行かないわ」

 頭を撫でられて、ようやく落ち着いた。

 迷い続けていた思考が淀みを見せ始め、次第に止まっていく。空っぽの状態で、わたしはただアテナの温もりと鼓動を感じていた。

 わたしの抱える果実と繋がっているこの命を感じていた。

「ごめんなさい」

 虚ろな状態で呟いた。

 どうして謝っているのか、その理由まで言わなくては。

「カリスティ?」

 再び窺われるも、やっぱり聡明なあの目は怖かった。

 アテナに真実を言わなくては。でも、アテナに嫌われたくない。どうしたらいいのかよく分からなくて、どう話せばいいかもよく分からない。

 だって、あの事は今となってはもう随分と昔の事になってしまったのだから。

 アテナに背中を撫でられながら、ユグドラシルの枝の音を耳にした。

 わたしを勇気づけている。それとも、慰めている? 今だけは彼女の声がよく聞きとれなかった。

「ねえ、ソフィア」

 背中を押されているということにして、わたしはやっとアテナに話しかけられた。

「ソフィアはソフィアって名前好き?」

 英知を意味するこの尊い名前。

 でも、わたしはアテナという名前を忘れたりしない。忘れてはいけないと常々想っているからだ。それに、此方の方が彼女らしい。

 アテナは、口ごもっていた。

 黙ったまま答えるべき言葉を探しているのだろう。

「わたしね、ソフィアのことを一度でいいから本当の名前で呼んでみたいの」

 見上げてみれば、アテナの瞳に動揺が浮かんでいるのに気付いた。

 単に驚いているだけか、それともアテナもまたアテナという名前が好きなのか。

 やがて、アテナは作り笑いすら浮かべられないまま、答えた。

「カリスティがそうしたいのなら、いいのよ」

 やや震えた声。

 そこに含まれる優しさがとてつもなく有難かった。アテナはいつもわたしを理解しようとしてくれている。尊重しようとしてくれている。

 だからこそ、わたしは罪の意識の苛まれてきたのだ。

 でも、今は安心した。

 これだけで十分だ。

「やめておく。ソフィアもヒパティアも怒られちゃうもの」

 首を振ってそう言うと、アテナもまた小さく微笑んだ。

 アテナ。この名前は封印されている。魔術をかけられているのだとヒパティアが教えてくれた。わたしのような者が口にすれば、何が起こるか分からないと皆が恐れているのだ。

 それだけではない。

 この名を口にしてはいけないと神官長が禁じているのだ。もしもわたしがそれを破ったならば、責任はわたしだけのものではなくなるだろう。

 諦め気味に現実を受け止めていると、アテナはそっとわたしを抱きしめながら囁いた。

「カリスティ」

 くすぐったい程の好ましい声。

「明日は朝早くに私が迎えに来てあげるから、それからまたユグドラシルと一緒に過ごしましょう?」

 別れの挨拶だ。でも、寂しさだけではないものが胸の中に広がった。

 迎えに来る。アテナが。

 それも、朝早くに。

 自分でもびっくりするくらい、嬉しくなる誘いだった。そう、これまでわたしは罪の意識に苛まれるあまり、忘れていた。

 わたしの顔もまたきっと忘れていただろう。

 どんな時も無表情だった。心から愉しいと思えた瞬間は殆どなかった。だからだろう。わたしは最初、自分の浮かべている表情の意味に気付かなかった。

 嬉しい。でも、喜んでばかりではいけない。明日は、ちゃんと話そう。明日こそはきちんと向き合わないと。

 たとえこれで嫌われてしまったとしても。

「うん、分かった」

 しっかりと頷いた。

「ソフィア。引き留めて御免なさい。もう大丈夫」

 疲れていただろうに。付き合わせてしまって御免なさい。

 そんな言葉をぐっと噛みしめて、わたしはガーディアンたちには絶対に聞こえないくらいの声で、囁いた。

「今日から夢の中で、好きなだけアテナって呼ぶね」

 その瞬間、アテナは確かに嬉しそうに笑ってくれた。


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