5.罪悪感
真っ暗闇。
わたしから大切な事を全て隠しているかのようなこの部屋。
此処は守りの魔術がかけられた場所なのだと聞いている。どんな優秀な魔術師でも、此処を探り当てるのは難しい。
教えてくれたのはヒパティアだ。
彼女の指示でわたしは此処に閉じ込められている。
全てが終わるまでの間。危険が去って、アテナが戻って来るまでの間までのこと。そうして危険が全て去ったら、どうするのか。
――今日はやめておこう。
アテナはいつも無理に無理を重ねて戦っている。
彼女の命を握っているのはわたし。大切に抱えて、アテナを死から守っているのだとヒパティアは教えてくれた。
けれど、これは守っているのだと言えるのだろうか。
アテナは死なない。死ねない。
どんなに苦しい目にあっても、どんなに痛い目にあっても、彼女を地獄から救いだしてくれる死は迎えに来てくれない。
一回だけ――本当に一回だけ、わたしはアテナの身体が壊され、復活する場面を見たことがある。忘れようにも忘れられない光景。忘れてはいけない。目を逸らしてはいけない。彼女が何故、そんな姿で戦っているのかを考えれば、怖いだなんて言葉で片付けてはいけない姿だった。
アテナ。
今頃、侵入者と戦っているのだろうか。
わたしを守るために、ただの人として暮らす権利を他ならぬわたしに奪われて、恐ろしい侵入者に槍を向けているのだろうか。
人々をかつて守っていた一角獣のように。
無力なのは嫌だ。
何もせずにじっと此処にいなくてはならないなんて嫌だ。でも、わたしが出ていけば大変な事になる。
狙いはわたしの心臓。英知の果実。人々を惑わす黄金の果実。
わたしにとっては悪魔のような実。
「彼女が心配なのね」
はっとした。
暗闇の中で、その声は確かに聞こえた。
昨日、廊下で聞こえたあの少女の声と同じだ。
ヒパティアが悪魔かもしれないと言っていた。果実の成熟を予感して近づいてきた英知の悪魔。英知の天使と同じ色の翼を持った愛らしい姿の悪魔。
「ええ、そうよ。わたしは悪魔」
でも、姿は何処にも見えなかった。声だけが部屋に響いているだけ。
幻なのだろうか。不安な気持ちが幻聴を生みだしたのだろうか。分からないままわたしは膝を抱いていた。
大丈夫。ヒパティアは言っていた。悪魔は何も出来ない。話しかけてくることは出来ても、何も出来ないから手下を向かわせるのだと。
声なんて無視していればいい。
幻であっても、たとえ、本物であっても。
「いいのよ」
姿の見えぬまま、少女のような声だけが響き渡る。
「あなたがわたしを拒んでも、わたしはあなたに近づけるもの」
愉しそうに、笑いながら。
姿が見えないことが不思議なくらい、その声はすぐ傍にいるようだった。
――アテナ。
神殿の何処かで戦う一角獣の姿を想い浮かべながら、わたしは必死に耐えた。彼女が頑張っているのだ。わたしも気をしっかり保たなくては。
「――いい子ね」
優しげに少女の声は囁いてくる。
「英知の果実。あなたはもう充分、大人になった。身体は幼くても、心は、魂は……そしてその胸に秘める果実は、十分過ぎるほど大きく育った」
直後、何かが触れてきたような気がして、震えてしまった。
いや、何もいない。わたしに触れる者なんて何処にもいないはずなのだ。それなのに、これは一体何なのだろう。
勘違い。気のせい。疲れているだけ。
そうだといい。でも、きっと違う。ヒパティアが言っていたように、悪魔がすぐ傍にいるのかもしれない。
「――ヒパティア……」
清めの間の何処かにいるかもしれないその名を呼んでみるも、あまり大きな声は出なかった。どんなに力を振り絞っても、掠れた声しか出て行かないのは何故だろう。
それでも、わたしは助けを求めた。
「ヒパティア、助けて」
しかし、その途端、あれほどまでに傍に感じた気配はすっと消えてしまった。触れられたような気がしたのも気のせいだったのだろうか。気配なんて何処にも感じず、わたしを取り囲むのは暗闇ばかり。
急な変化に驚いて辺りを見渡していると、頭の中で響くかのように声は聞こえた。
――怖がらせちゃったわね。
まるで優しく宥めるように、その少女はわたしに言った。
――心配しないで。あなたを傷つけたいわけじゃないの。
それはユグドラシルがくれる根拠のない温かみにもよく似ている気がした。
少女の声が聞こえなくなってしばらく。
部屋の外で魔術師たちが慌ただしく囁き合っていた。
わたしになんて聞こえないとでも思っているのか、はたまた、聞こえても関係ないと考えているのか、もしくは、わたしの事なんてすっかり忘れてしまっているのか。
そのどれであったとしても、彼らの会話が聞こえた事は、わたしにとってとても有難くて、そして恐ろしいことだった。
アテナが危ないらしい。
共に戦っていたと思われるガーディアンが変事を周囲に知らせている。固く閉ざされた扉の向こうでは、猟犬の血を引く彼の遠吠えがずっと響いているのだとか。
攫われたという言葉が一瞬聞こえ、慌てて口を噤む様子が窺えた。わたしに聞こえていないかここでやっと考慮したのだ。
それが更に言葉に重みを持たせる。
聞き間違えではない。
アテナが攫われそうになっている。
どうしてアテナを攫うのか。答えは何となく分かっている。
かつてヒパティアは世界の仕組みを教えてくれた。英知の人々を守る聖域にまつわる大切なことを逐一教えてくれた。
まだ十歳のわたしにも分かりやすく教えてくれたのだ。
アテナは槍。神々に選ばれ、英知の天使の羽根を授けられた聖女。名前すら奪われてソフィアと呼ばれているのは、彼女が生まれながらに背負った宿命が決して軽いものではないからだ。
彼女は不死の者。わたしの身体の中に秘められた果実が生きている限りはどんな姿になっても復活し、生き続ける。
人々はアテナに守護者としての素質を期待している。
けれど、本当はそれだけではないのだ。
この神殿にかつて暮らしていた先代までの果実と槍。その九割以上がどんな死に方をしたのか、わたしは教えてもらった。
わたしの中で果実は熟しているのだ。
いつその時が来てもおかしくない時代に移っている。
だから、わたしは今からでも覚悟しておかなくてはならないのだそう。でも、覚悟なんて言われるほど大したものではない。
アテナに殺されるなんて、大したことじゃない。
きっと先代の果実もそうだっただろう。槍と果実はそういうもの。きっと同じ果実を宿してきた者たちは、自分と運命を共にする槍に抱かれるように殺されることにある種の安らぎを感じていたことだろう。
ならば、尚更。
わたしはその時までにアテナに真実を打ち明けなくてはならない。本当の意味で彼女と心を通わせてから死にたい。
しかし、それも簡単な事じゃないらしい。
アテナが攫われそうになっているのは、侵入者がアテナの背負う役目をよく理解しているからこそだろう。
黄金の果実が目的だったら、それもよく理解出来る。
アテナは槍。不死の者。天使の授けた最終兵器。わたしの肉体が滅ぼされ黄金の果実が悪しき者の手に堕ちたとしても、アテナは死なずにそれを追うことが出来る。
黄金の果実を食べて化け物となった大罪人は、果実を壊されぬ限り死なず、衰えない身体を手に入れ、槍もまた時を止めてしまうらしい。
だから、ユグドラシルを枯らされる前に、果実とその身体が溶け合い切る前に、槍は人々を絶望から救うために化け物を追いはじめるのだ。
黄金の果実を欲するものにとって、アテナは唯一自分の息の根を止める存在。
何が目的かなんて知らないけれど、この果実を使って好き放題したいのならば、きっと邪魔な存在に違いないだろう。
だから、その人物はまずアテナを攫ったのかもしれない。
殺せはしないけれども、今のわたしのように外に出られない場所に連れていかれたら、英知の国を救う者はいなくなってしまう。
「アテナ……」
ああ、けれど、わたしは悪い果実だ。
そんな国の危機なんてわたしの心には全く響いていなかった。わたしが不安に感じているのは、ただ、アテナを奪われてしまうかもしれないという事実だけ。
――引き離さないで。
必死に願いながら、わたしはじっと部屋から出されるのを待ち続けていた。




