3.保護者
青い羽根に包まれている。
きっと英知の天使のものだろう。
温かいけれど熱過ぎず、優しいけれどあっさりとしているその感触が、びっくりするくらい心地よくて嬉しかった。
ああ、ずっとこうしていたい。
そんな気持ちでいる中で、その声は響いた。
「カリスティ」
聞き覚えのある声だった。
「わたしの英知の果実」
――アテナ? ヒパティア? ユグドラシル?
それとも神殿の誰かだろうか。
けれど、どんなに思い出そうとしても、その誰とも違う声に聞こえてならなかった。これは一体誰だろう。押さなくて、愛らしくて、けれどとても身近に感じる声。
「わたしがずっと守ってあげる」
抱きしめられるとどうしてかほっとした。
目が覚めて見れば、辺りはすっかり暗かった。
起こしてくれたのは湖から此方へと吹きつけてくる風だろうか。
ユグドラシルの枝がざわざわと音を立てている。見上げてみれば、優しげな視線がわたしを包みこんでいた。顔が無いのが不思議なくらい。わたしの母、ユグドラシル。彼女が言うにはもう帰らなくてはならない時間らしい。
「分かった、また明日ね」
しばしの別れを惜しんで抱きつくと、まるで此方も抱きしめられているようだった。
温かい生みの母の温もり。けれど、この温もりを感じれば感じるほど、わたしは更なる癒しを期待してしまう。
たとえば、アテナの温もり。
空想とそれとなくの憂鬱の海をぷかぷかと浮きながら、考えた。
――彼女の温かみは、どんなに癒されるものなのだろう。
夜風がそんなわたしを現へと引き戻す。
ふと空を見上げれば、神殿の上階から複数の視線があるのに気付かされた。ガーディアンたちだ。眠っているわたしをじっと見守っていたのだろう。
その視線にそっと礼を告げてとぼとぼと戻っていく。
以前、分かりやすく礼を示したら、女官を通して神官長に怒られたことがあった。そんなこと、果実はしてはならないらしい。
――神官長以外の者たちに軽々しく頭を下げてはなりません。あなたは幹部よりも上の身分の御方なのですから。
納得は出来なかったけれど、反論はしなかった。
きっともう少し幼かったなら、意見を口に出してしまっていたことだろう。でも、今はそれもいけないのだと分かってきた。
わたしは果実。
果実は大人しくしていなければいけない。
果実は槍に守られていなければならない。
果実は物言わぬ人形でいなければならない。
感情を言葉にするなんてもってのほか。行動に反映するなんてもっとしてはならないのだそう。抱いていいものは勿論、明るい感情のみなのだ。悲しむのまではまだ許される。だが、嫉妬、憎悪、嫌悪などを抱こうものなら不出来な果実として清めの間に閉じ込められてしまうだろう。
そう、果実は嫉妬してはならないのだ。
じゃあ、わたしは不出来の果実なのだろうか。
――いいえ。
廊下を歩いていたその時、頭の中で声が響いた。
少女の声。愛らしい声。柔らかな声。聴き心地のいい声。思わず立ち止まり、辺りを見渡してみれば、目についたのは物影からわたしを監視する視線だけ。あれもまたガーディアンの誰かだろう。でも、その中には声の持ち主らしきものは感じられない。
動揺からいまいち立ち直れない中、再び声は響いた。
――あなたは立派な果実よ。
誰なのだろう。
――美しい青の果実。英知がぎゅっと詰め込まれた美味。
これは一体、何だろう。
――わたしの果実。
鳥肌が立った。急にガーディアンたちの視線に混じって恐ろしい怪物のような者の気配を感じた気がしたのだ。
けれど、そんな者は何処にもいない。この声は一体何?
――あと少しであなたは熟れる。
とくんと心臓が音を立てた気がした。
英知の聖域とユグドラシルに繋がる最も大切なわたしの核が恐怖している。
そんなわけもないのに、まるで必死に抱えていないと落としてしまいそう。鼓動を感じる左胸を必死に抑えながら、わたしは逃げるように部屋へと戻った。
「カリスティ様」
寝台で横になっていると、ヒパティアの声が聞こえてきた。
冷や汗をかいているらしい。額を拭うと自分の肌がやけに冷たかった。起きあがろうとする前に、ヒパティアは傍へと寄ってわたしの頬に手を当ててきた。
彼女の手はもっと冷んやりとしている。
その心地よさに身を預けていると、ヒパティアは首を傾げた。
「苦しいのですか? 御顔色が悪いようですね」
「――別に……なんでもないの」
胸はもう痛くない。
廊下で聞こえたあの声は、もう少しも聞こえたりしなかった。
じゃあ、あれは一体何だったのだろう。
「カリスティ様?」
声を掛けられてはっとした。
無意識に下がっていた顔を上げてみれば、不可思議な色に光っているヒパティアの目が此方を見つめていた。
探られているのだろうか。
でも、それなら丁度良かった。
だって、わたしは自分の状態を上手く話せない。何処が苦しいのか、何処が痛いのか、何を感じているのか、何が悲しいのか、一体どうして不調でいるのか。
何もかも分からないまま、気持ちばかりが落ちていく。
これでは他人に何も伝えられない。
わたしの心は気付かれないまま水底に沈んでいくばかりだ。
心の不調の方は、原因は分かっているのだ。たぶん、どうしたら解決するかも分かっている。けれど、勇気が出ないからいつまで経っても改善されない。
では、身体の方はどうだろう。
心と体は繋がっているとヒパティアは言っていた。だから、心の不調の原因を解決させれば、身体の方も整うのだろうか。
よく、分からない。
分からないから、大人しくヒパティアに診てもらうしかない。
「カリスティ様、今日は何か変わった事などありましたか?」
突然訊ねられ、考える。何を持って変わった事なのか、分からない。
アテナと少しだけ会話をした事かしら。それとも、不思議な夢を見た事? それとも、廊下で謎の声が聞こえてきた事?
「声――」
ヒパティアの目を見つめたまま、わたしは自分の言葉でそれを話した。
「声が聞こえたの」
その目の輝きを見ていると、まるで言葉が引き出されるようだ。
「女の子の声。聞いたことのない声」
「その声は何か言っていましたか?」
落ち着いた声で問われ、わたしは必死に思い返した。
女の子の声。不気味な声だった。おまけに心臓が痛くなったから、慌ててその場から逃げてしまった。だって、怖かったのだもの。心臓の中に収められていて失くすはずもない英知の果実が何処かへ行ってしまうんじゃないかってくらい、怖かったのだもの。
じゃあ、どうしてそんなに怖かったのか。
「――『わたしの果実』」
思い出した言葉を口にすると、ヒパティアの目の色が変わった。
確かに変じた雰囲気に怖気づきながらも、もう一つ、思い出した言葉を付け加える。
「『あと少しであなたは熟れる』ってそう言っていたわ」
「女の子の声で……ですね?」
確認されるように問われ、わたしは肯いた。
すると、ヒパティアは黙したままわたしの頬を撫でる。そしてその目に若干の不穏さを浮かばせたのをわたしは見逃さなかった。
ヒパティアが何かを悟っている。
でも、なんだろう。
あまりよくない事だ。
「カリスティ様」
再び名を呼ばれ、緊張しながらその顔を見つめた。
ヒパティアは何故だか周囲を窺いながら、小声でわたしに告げた。
「そろそろお話しなくてはなりませんね」
そう切り出してから、彼女は語りだした。
――成長。それは華々しいことである。
前に読んだ本にそんな言葉があった。わたしにはまだ少し難しい本ではあったけれど、その言葉だけはずっと頭に残った。
華々しい。
その言葉はわたしにとって曖昧なものだった。素晴らしいと書いてあったらまだ理解しやすいのに、華々しいってどういうことだろう。
思い浮かべるのはアテナの姿。
十年前に初めて彼女の姿を見つめたあの時の事を、わたしはよく覚えている。見た瞬間、嬉しくて仕方ないという非常に単純な感動が押し寄せてきたのだ。
だからこそ、人目など怯えることなく彼女に抱きつけた。
それは、今思い出しても幸福になれる光景だった。
あの頃のアテナと、今のアテナを比べてみる。あの頃のアテナは記憶にある限り、妖精のように愛らしい姿をしていたように思う。あの頃のアテナは一角獣の仔馬と呼ばれていたらしい。今ではすっかり大人だ。まだ成人はしていないけれど、大人に違いない。
子供と大人。成長とは華々しいものなのか。
アテナに関してはそうだろう。
子供の頃は愛らしかったけれど、大人に近づくにつれてどんどん美しくなっている。それも、見栄えだけの美しさではない。芯から感じる知性のようなものが彼女の容姿を輝かせているのだ。
――じゃあ、わたしは?
成長とは何のためにあるのか。
眠れない夜、寝室のなかにてそっと左胸に触れてみれば、心臓が確かに動いていることを教えられた。
この下で、果実は成長している。わたしの身体が成長するのと同じように。
肉の器なんて入れ物に過ぎないらしい。わたしという存在の中核は心臓の中に秘められた真っ青な果実が全て。その成長は生母ユグドラシルの命を支え、延いては英知の人々を守る聖域の支えとなっている。
果実が熟れるということは、聖域の守りが確かなものになるということらしい。
だから、人々にとっては本来喜ばしいことなのだ。
けれど、ヒパティアは言ったのだ。
――これからは、用心して貰わなくてはなりません。
落ち着いた様子で、教え諭すように彼女は言ったのだ。
果実が熟れる日を誰よりも待ちわびている者がいる。その者は、わたしが卵の中で成長している頃から英知の国の裏側からわたしをずっと見つめているのだ。
青き翼を持つのは英知の天使と一緒。
けれど、その存在は、天使とはとてもかけ離れている存在。
「エリス……」
英知の悪魔。
姿は見えずとも、彼女は常にわたしを見つめている。
全ては黄金の果実を手に入れて、英知の国を滅ぼすために。
――わたしの果実。
声が甦り、わたしは必死に首を振った。
違う。わたしは天使の遺した果実。アテナの守る果実であって、英知の天使に愛された全ての人々の為のもの。
悪魔なんかのものではない。
それでも、気を強く保つということは、今のわたしにはとてもとても難しかった。




