2.槍
翌朝、わたしはユグドラシルの根元で罪の舞台である湖を見つめていた。
いつの日か、わたしの骨はあの湖底の砂となる。一人きりでは決してなく、その時はアテナの骨とも混じり合うのだ。
そうして美しい湖の底に沈んだ果実と槍は数え切れないほど存在する。
でも、わたしは思うのだ。アテナはその一人として立派に迎え入れられるだろう。しかし、では、わたしはどうなのか。わたしは歴代の果実として受け入れてもらえるのか。
どうもそうは思えなかった。
わたしはひょっとして、拒まれるのではないか。
そう思うと、生きるのは勿論、死ぬのさえ怖かった。
「何を見ているの?」
そんな時だった。
優しげな声がわたしの意識を掻っ攫う。
誰の声かなんて聞けばすぐに分かるのに、そこにいる人物の姿を感じるとやはり新たな驚きと感動が押し寄せてくるのだ。
今日も、アテナはわたしに会いに来てくれた。
輝かしい色の髪。梟の目と称されるダークブルーの眼差し。そのどれもが神々しくて、まるで本当の一角獣のよう。
けれど、わたしはその姿を直視出来なかった。
地面をじっと見つめたまま、心を殺してでしか向き合えない。
彼女自身が怖いのではない。わたしは、自分の罪が恐ろしくて、恐ろしくて、その正義の角で貫かれてしまうかもしれないと思うと怖かった。
そして、そんな風にアテナを怖がっていることにもまた、罪悪感が上乗せされる。
アテナは目も合わせられないわたしの隣に座りこむと、しばし黙りこんだまま時を過ごした。
隣に居る。その感覚だけでも本当は嬉しいのだ。抱きついてしまいたいくらい、安心出来る事なのだ。
けれど、その気持ちを表に出せない。
湖の銀色の輝きが見える度に、そうしてはいけないという思いが押し寄せてくる。
「そう言えばね」
と、その時、アテナが口を開いた。
「ここ数カ月の間、愛情の国で他国の伝承のお祭りをしているんだって」
世間話だ。
こうしてアテナは神官や魔術師、ガーディアン等から聞いた話をわたしにする。前からそうだったかは覚えていないけれど、アテナの話は好きだった。すでに誰かから聞いた話であったとしても、アテナから聞かされるのとでは全く違う。
「それで先月は希望の国の番だったけれど、今月は英知の国の番で、一角獣に因んだお祭りをしているらしいの」
「一角獣……」
その言葉がわたしの唇を勝手に動かした。
大好きな、大好きな、伝説の生き物。
罪深いわたしを見ればきっとその角で貫いてしまうだろう。そうされるのは怖いことだけれど、いっそ楽にしてくれるのならそれでもいい。
わたしは一角獣が好きだった。
でも、一角獣が好きな理由は何よりも、アテナが深く関わっていた。
槍を召喚し、わたしを守るために戦うその姿。全てを見た事は殆どない。危険なことが近づけば、わたしはすぐに深くて冷たい湖底のような空間へと閉じ込められてしまうから。でも、一瞬だけ脳裏に残るあの勇姿は、わたしの不安を少しでも勇気づけてくれるものなのだ。
英知をもたらした天使の証。
与えられたのは知恵であり、赤き天使がかつて他国にもたらした勇気などではない。
けれど、英知と呼ばれる槍がわたしに与えてくれるのは、いつだって勇気で間違いなかった。
「どんなお祭りなの……?」
罪悪感も、恐怖も薄れ、わたしは自然とアテナに訊ねていた。
銀に近い色の目がわたしを見つめているのが分かる。けれど、その目には合わせないようにして、わたしは返答を待った。
「英知の国で出回っている一角獣の本とか、置物とか、絵画とか、そういったものが展示されるって聞いたわ」
落ち着いた声だった。
アテナだってその目で見られる機会は殆どないのだ。他国だからっていう理由だけではない。たとえその御祭りが英知の国の都であったとしても、アテナが観にいけることはないだろう。だって彼女は槍。週に一度、自由を与えられる半日の時だって、ろくに神殿から出る事さえないらしいのだから。
「一角獣の……展示か……」
それでも、夢は確かに浮かんだ。
あり得ない光景。
わたしとアテナがただの少女同士――たとえば姉妹とかで、都での生活を愉しんでいる景色が脳裏に浮かび上がった。
しかし、その光景が明るければ明るいほど、微笑む事は出来なかった。
わたしは罪を犯した。
アテナの大切なものを、奪ってしまったのだから。
「都ではね、愛情の国のアーティスト達の作品が流行っているんだって」
アテナは言った。
「元々、愛情の国の人達って、英知の国の一角獣伝説が好きな人が多いらしくってね、一角獣をモチーフにした作品もいっぱい生まれているらしいよ」
黙ったまま静かに聞いた。
「私はよく知らないんだけどね、ニンフはそういうのをよく見かけるんだって」
――都か。
アテナは田舎町で生まれたと聞いている。そこが都とどのくらい離れているのか、わたしにも分かるような程度の知識でしか教えてもらっていない。
でも、これだけは言える。
もしもアテナが槍の印なんて持っていなかったら、その気になれば都で暮らすことだって出来ただろう。そんな彼女の代わりに、だろうか。神官長の娘である人鳥ガーディアンのニンフは、たびたびその目で色々な景色を見つめ、色々な言葉でアテナに伝える。
神殿の外。
それがどれだけアテナに夢を与えていることだろう。
黙りこんだアテナが溜め息を吐くのを聞いて、わたしは堪らなくなった。
「ソフィア……」
名を呼ぶとその目がじっとわたしを窺う。
必死にその視線から逃れつつ、訊ねた。
「……都に行きたい?」
自分でも恐ろしい問いだった。
もしも、行きたいと言われたら、どうするつもりだろう。
しかし、アテナはしばらく黙りこんだ後、すぐに笑みを取り戻した様子でこう答えたのだった。
「いいえ。都に行くくらいなら、ここでこうしてカリスティと一緒にいる方がいいわ」
それは、本当の事なのかもしれない。
でも、本当のことだとしたら、それはそれでまた別の罪悪感が押し寄せてくるのだ。
ああ、もう、どうしようもない。
アテナは何にも悪くない。ただ運が悪かっただけ。槍の印を持って生まれてしまうとしても、抱えるべき果実がわたしなんかで本当に可哀そう。
――だったら、アテナに相応しい果実になるべきなのだ。
そうは分かっているけれど、足を引っ張るように過去の嫌な記憶が甦るのだ。
結局、わたしは薄い反応しか出来ないままだった。
――意気地無し。
去りゆくアテナの背中を見送りながら、わたしはずっとずっと自分を責め続けていた。
――意気地無しの大馬鹿者。
結局今日も、わたしはアテナに何も言えないままだった。
毎晩あんなに決心するのに、いざアテナという人を隣に感じると、緊張が強まってどうしても言葉が出なくなってしまう。
言わなくては、でも今は無理だ。
そうなってしまうと、普通の会話をすることだって困難だった。
言わなくてはならないことを言えないというだけで、心は落ち着かなくなってしまう。甘えたい気持ちはいっぱいあるけれど、そんな資格は自分にはない。
でも、結局、ユグドラシルには甘えっぱなしだった。
それでもいいのとユグドラシルは言っているらしい。アテナにも甘えてもいいのだと彼女はわたしに伝えているらしい。
だが、ユグドラシルというものは果実に甘いものなのだと聞いている。
生みの母であり、わたしは実の娘。果実を甘やかすことしか愛する方法を知らないのがこの聖なる樹であるのだと教えられたことがある。だとすれば、わたしはいつまでもユグドラシルに甘えていてはいけない。
「だから次こそは……次こそは言わなくてはならないの」
ユグドラシルの根に縋りついて震えながら唱えた。
此処はわたしの懺悔の場所。
揺らめく湖の銀色の輝きを見つめながら、わたしは何度も悪夢を見た。
湖底に沈まされながら、ものを探す夢。
失われたもの。勇気、信頼、愛情、恵み、希望、真実、そして英知。その全てが今のわたしには欠落している気がする。
わたしは本当に黄金の果実なのだろうか。
心臓に宿す資格が本当にあるのだろうか。
――あなたは確かに英知の果実。
ふと、知らない声が聞こえた気がした。
――カリスティ。美しきわたしの果実。
誰だろう。誰でもいい。
きっと罪深いわたしの脳裏に響き渡った自分自身の声だろう。取り返しのつかない罪を犯して怯えるわたしを、わたし自身が守るために放った言葉。
わたしではない知らない女の子の声だったけれど、きっとわたしが作り出した声。
――そうよ、わたしはあなた。
ユグドラシルでも、アテナでもないその声を耳にしながら、わたしはしばし浅い眠りへと吸い込まれていった。




