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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第3部
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1.家族

 ――わたしはどうしてあんな事をしたのだろう。

 卵から孵ってからずっと見つめる景色。中庭と呼ばれるこの場所の土も日射しもいつも柔らかかった。そして何よりも、風に揺られて波をつくる湖は美しかった。

 かつてこの場所はわたしにとっての揺りかごだった。

 ユグドラシルはいつだってわたしに優しい言葉をかけてくれたし、時折、此処で過ごすわたしを訪ねてくれるアテナの存在は、切なくなるくらい有難いものだった。

 でも、ある時から、この場所は毒を含むようになった。

 日の光、月の光を受けた湖が時折反射させる銀色の影。あれを見る度に、わたしは追い詰められるような気持ちでユグドラシルに縋った。

 時間はどうして巻き戻せないのか。

 幼子はどうしてあんなにも我が侭なのか。

 卵から孵った十年経って、去年よりも、一昨年よりも、悩みはどんどん深く、大きく、濃いものへと変貌していった。

 ――ごめんなさい。

 あの銀色を見る度に、段々とアテナに顔向けできなくなる。幼い頃よりもずっと。きっと来年、再来年と年を経るごとに酷くなっていくのだろう。

 五年ほど前、わたしは罪を犯した。

 幼い子供だったからって許されないことだと自分でも思う。

 ヒパティア――わたしを管理する主治医は、きっとわたしの罪を見抜いているだろう。それでも、何も言わずに寄り添ってくれているのは何故なのか。

 ただ、毎日毎日、わたしは後悔ばかりしていた。

 過去の罪を認め、悔いあらため、きちんとアテナに謝らなくてはならないのに、どんどんその機会を失い、引き返しづらくなっていく。

 そしていつしか、わたしはアテナと会話をしないことが当り前となっていた。

 怖いのだ。アテナと向き合うのが。

 卵から孵って初めて見たのはユグドラシル。その次はアテナ。ソフィアという名前で呼ばれてはいたけれど、アテナはアテナだ。美しい梟の目に見つめられると、涙がでそうなくらい嬉しかった。この人こそ、わたしが寄り添うべき存在なのだと瞬時に理解できたのは、そのくらいアテナが神聖な少女の姿をしていたからだろう。

 アテナはわたしにはないものを持っている。

 いつだって強く、逞しい。

 わたしはそんなアテナが大好きだった。

 けれど、アテナが持っていたのは強さだけではなかった。

 アテナには家族がいた。生みの親を、兄弟姉妹を、生家というものを持っていて、時折その繋がりは手紙というものによって思い知らされることとなった。

 彼女はわたしとは違う。左胸に槍の印という呪いを受けてしまったがために、わたしを守る役目を背負わされてこの場所へきたという身の上を知った時、自分との違いにわたしは震えてしまった。

 アテナはわたしを恨んでいるのではないだろうか。

 そう思うと怖かった。

 ――カリスティ。一番美しい人へ。

 わたしは果実。黄金の果実。神々の悪戯で地上に落とされた禁断の果実。受け取るはめになったアテナにもたらされたのは、幸せなどとは遠い世界だった。

 カリスティ。それは呪いの言葉。アテナをアテナという存在ではなく、ソフィアという存在にしてしまった呪術。

 ああ、アテナ。

 あなたはわたしをきっと憎んでいる。

 憎まなくてはいけない。

 結局、今日も、わたしは謝れずじまいだったのだから。


 槍はどうして生き物なのだろう。

 卵から孵ったばかりの頃はよかった。右も左も分からないなかで、わたしの誕生を真の意味で祝福してくれるユグドラシルとアテナの気配を頼りに縋りついているだけで許されたのだから。

 でも、成長すればするほど、それは違うのだと理解出来てくる。

 十歳というのは、人間ではまだまだ子供なのであるらしいけれど、わたしはどうなのだろう。少なくとも、子供扱いされるほど子供でいるつもりはなかった。

 わたしだって分かることは多い。ソフィアがどのくらい頑張っているのか、そして、わたしがずっとこんな態度でいることをどれだけ気に病んでいるのか、理解は出来ている。

 それなのに、わたしはどうしてもわたし自身を制御する事が出来なかった。

 それがわたしの罪。

 ずっとアテナに打ち明けられないままの罪。

 アテナは覚えているのだろうか。忘れてしまったのだろうか。でも、忘れていたとしても、なかったことになんてとても出来なかった。だって、アテナは槍の印を持って生まれてしまったが為に、家族と引き離されたのだから。

「ヒパティア」

 闇夜も深まりつつある夜中。

 子供は寝る時間だと諭されるような時計の針が示す頃合いに、わたしは寝る前の診察に訪れた主治医ヒパティアに声をかけた。

「ソフィアは今日、どうしていたのかしら……」

 口にすることを禁じられている名を呼ばずに、わたしはその名でヒパティアに訊ねた。

 本人に聞けばいいものを。

 ヒパティアに聞くよりもずっと色々な事を進んで教えてくれるだろう。けれど、わたしはどうしてもアテナに話しかけられなかった。

 もしもアテナが迷惑に思ったらどうしよう。少しでもその内心を知ってしまう瞬間があったらと思うと怖くて近寄れない。

 そんな思いが絡み合って、結局いつも他の人にアテナの様子を聞くしかなかった。

 幸いなことに、ヒパティアはそんなわたしの想いを受け止めてくれる人だった。身の回りの世話をしてくれる神官とは別の意味に頼れる存在。しかし、安心感を与えてくれる者としてはユグドラシルの方が上であるのは間違いないけれど、ヒパティアはユグドラシル以外でわたしを安心させてくれる母親のような存在で間違いなかった。

 彼女は強い人。色々な魔術を使うことが出来る頼れる人。

 だから、わたしは許される限りヒパティアを頼っていた。

「ソフィアは今日もカリスティ様のことを心配なさっていましたよ。それにささやかな願いも抱いていたようです。ちょっとでもいいから、もっと会話が続くようになりたいって」

 ――アテナ……。

 申し訳なかった。

 全部、わたしが強気になれないのがいけないのだろうか。

 でも、アテナがわたしと話したいと言っているのなら、少しは自信が持てるはずだった。明日には、もうちょっとだけ話せるだろうか。

 もっと小さい頃――去年や一昨年と比べれば、わたしはアテナと話せるようになったものだと思う。だってすごく怖かったのだ。アテナがどんな気持ちでわたしに会いに来ているのか分からなくなってしまっていた。それに、罪悪感もあった。アテナを家族から引き離してしまったことだけではない。

 だって、わたしは酷い事をしてしまったのだから。

「カリスティ様」

 柔らかく名を呼ばれ、そっとヒパティアの手に額を抑えられて、すっと目が覚めるような感覚に陥った。

 ヒパティアは常に何らかの魔術を用いながらわたしと接しているのだろうか。最近はそんな気がしていた。今までは何だかよく分からないけれど、安心感を与えてくれるというだけの存在だったけれど、わたしも段々と物事が分かるようになってきた。

 この人にいかに守られているか、助けられているか、それが分かれば分かるほど有難みは深まっていく。

 同時に、自分がいかにアテナに心配をかけ、不安を与えているかも分かってきた。

 早くどうにかならなくては。

 そう思いつつも、どうしようもないまま日々は過ぎていくばかり。

 ――わたしは、果実として失敗作なのだろうか。

 わたしを生みだしたユグドラシルや英知の天使に向かって、何度も何度も訊ねてきた。その答えはまだ分からないまま。

「お疲れのようですね。今日はもう御休みなさい。明日、早く起きて、ユグドラシルの傍へと向かうといいでしょう」

 そう言われて軽く撫でられると一気に眠気が押し寄せてきた。

 まるで湖の波にでもくすぐられるように、わたしの意識が眠りへと浸っていく。きっとヒパティアが魔術を用いているのだと思っても、それに抗う術も意味も今のわたしの心の中には何処にも存在しなかった。

「明日こそは……」

 眠気という暗闇に閉じ込められる直前、わたしはふとその目標を言葉にした。

 ――明日こそは、アテナに真実を。

 それは、昨日も掲げた目標で間違いなかった。


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