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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第2部
37/54

16.凡人

 項垂れたままのパラス。彼女はソフィアを心配していた。

 真夜中に呼び出され送り出したきり帰って来ない。そのまま、ろくに説明されることもなく、部屋で待ち続けていたらしい。

 やっと事態の断片を聞かされたのは今朝になってから。

 パラスの顔色はいつもよりもずっと悪かった。

「おねえ……」

 覚悟してこなかったなんて事はないだろう。

 それでも、パラスはまだ信じていた。

「ソフィア様は……大丈夫よね?」

 こういう時に、何と答えるのが正解なのだろう。

 英知の天使はなんと教えてくれるのか。

 ただ真実のみを突きつけるのは酷だ。パラスにとっても、僕にとってもそうだろう。しかし、虚しい嘘でこの場を紛らわすことが正解などではないことだけは分かった。

 それはあまりにも残酷だ。

「ソフィアは……カリスティ様と一緒に居るよ」

 結局そう答えて隣に座ることしか出来なかった。

 座ってみれば異様なくらいに力が抜けた。思っていた以上に疲れは溜まっていたらしい。ろくに寝ていないせいもあるだろう。しかし、この状況下では眠ることなんてとても出来なかった。

 パラスも同じなのだろう。

 当り前だと思ってしまっていた日常が帰って来るまで、一人で眠ることも出来ずにただじっと待っていたのだろう。

 しかし、もうこれまでの日常は帰って来ないだろう。

 ソフィアにとっての日常が崩れてしまった今、僕にとっても、パラスにとっても、当り前だったものが何処か遠くへといってしまった。

 僕の言った意味を必死に探り、そしてパラスは再び俯いた。

 彼女だってこの先を予想したくはないだろう。けれど、目を背けられないのだろう。でも、僕達は恵まれている。市場で買われた僕も、富豪に大金と引き換えに譲られたパラスも、一般的な英知の民に比べたら不幸なのかもしれないけれど、それでも、キクノスという大きな庇護のもとにいる以上、英知の国に住まう人としての権利を守られているのだ。

 そう、僕達は凡人なのだ。

 凡人であることを許されている。凡人として生き、凡人として死ぬことを許されている時点で、僕達は恵まれているといってもいい。

 そのくらい、ソフィアが哀れで、恋しかった。

 だが、当のソフィアはどう思っているのだろう。僕達がこれほどまでに悲しんでも、彼女の心は満たされることもないだろう。彼女の救いとなる方法はただ一つ。カリスティ様を元に戻す方法をもたらしてくれるものだけなのだから。

 堪え切れずに涙をこぼす血の繋がらない妹をそっと宥めつつ、僕もまた決して晴れたりしないだろう心持でじっと湖を見つめた。

 いつもは美しく、心奪われるかと思うほどの景色。

 だが、今はこの湖すら怖かった。

 透き通るような水色ではなく、怪物でも潜んでいそうな藍色をした水面。潜れば異界へと繋がっていそうな不気味さがあった。きっと本当は昨日までの湖とそう変わらない姿をしているのだろう。だが、今の僕の目には、大口をぱっくりと開けた鯨のようにしか見えなかった。僕達はさながら巨鯨に飲み込まれる魚でしかないだろう。

 しかしこの鯨が待っているのは僕達なんかではない。

 此処はソフィアたちの墓になるのだから。

「お姉……」

 パラスが僕の名を呟いた。

「なんだい?」

 そっと応じると、彼女は涙でぬれた顔をそっと隠しながら訊ねてきた。

「お姉はカリスティ様のご孵化をソフィア様やお父様と共に見守ったと言っていたわね」

「そうだね……もう随分と前――子供の頃ではあったけれど」

 ちょうどこの場所で。

 それは十年ほど前のこと。

 懐かしいものだ。長い年月にも思えたけれど、過ぎてしまえばあっという間だったのだろうか。あれから一年一年が段々早いものに感じるようになってきたのを実感する。正直、ソフィアがあんなにも大きくなったのだってあっという間に思えたくらいなのだから。

 それはパラスが来てからも同じ事。

 でも過ぎてしまえば早いけれど、積み重なった記憶や想いは確かな重みを有しているものだった。その価値は決して軽々しいものではない。

「カリスティ様は迷いなくソフィアを見つけて駆け寄ったんだ。世話係に選ばれた神官が用意した服を着せるより前に、裸のままソフィアに抱きついてしまった。ソフィアは驚いていたよ。驚いていたけれど、すごく嬉しそうだったのを今でもはっきり覚えている」

 ああ、思い返せばその光景は、ますます昨日の夜に見たばかりの景色に似ていた。

 美しい光景だった。

 すれ違い続けていた二人の聖女がやっと心を通わせたかにみえた光景。ずっと見守ってきた僕達にとっては希望の姿でもあったはずなのだ。

 騒動から一夜明けた今、神殿を包む空気は何処となく重たい。

 笑んでいたとしても乾いたものばかり。その何処かには暗い影が付きまとう。だが、殆どの者は僕やパラスとは若干違うものを抱いているのだろう。

 英知の国はこのままどうなってしまうのか。

 このままユグドラシルに何かあれば、聖域は壊され、英知の国はゆっくりと滅んでいく。その破滅を迎える時に人々が受ける苦しみなど想像も出来ないほどだろう。

 多くの人はそれを怖がり、重たい空気を生みだしているのだ。

 だが、僕やパラスを含め、ソフィアやカリスティ様に深く関わってきた者たちはその上に更に現実が圧し掛かって来る。キクノスやヒパティア。彼らでさえ動じずにはいられない状況の中で、いつも通りでいられる者なんているのだろうか。

 僕とパラスしかいない中庭を見つめている者は、何処にもいない。

 かつて此処に寝そべっていた聖女を探す者も、何処にもいない。

 全ては扉の向こう。

 固く閉ざされた冷血の空間へと封じられたままなのだから。

「見たかったなぁ、その光景」

 パラスが寂しげな笑みを浮かべて言った。

 目はまだ赤いまま。

「きっとびっくりするくらい美しかったのでしょうね。だって私も、此処にお仕えすると決まってから、初めてカリスティ様の御姿を見た時に、溜め息を吐いてしまったくらい心奪われたのだもの。きっとそれよりも神聖だったのだわ」

 恐らく、初めてパラスを見た者だって似たようなものを抱くだろう。

 しかしそれは美しさと物珍しさに関してのものだろう。まるで絵画の世界から飛び出してきたような見栄えについてのもの。

 カリスティ様の姿が与えてくるものはそういった感動とは少し違った。

 圧倒的な神秘性。嫌でも自分の身体に英知の天使に愛された民の血が混じっているのだと理解させられる魅惑。

 そしてそんなカリスティ様の魅惑に一番取り憑かれていたソフィアもまた、まるで人々が憧れたという一角獣が人となって現れたかのように見えたものだった。

「兄弟姉妹と別れてから、思えば落ち着かない事ばかりだったわ」

 遠き空の果てを見つめるパラス。

 彼女の兄弟姉妹は、聖域を越えた果ての愛情の国にて共に作られた一角獣種。決して多くはないその殆どが英知の国に送られ、特定の者しか参加できないような競りに出された。

 その境遇は僕には予想もつかない。

 そのまま空から目を話さずに、パラスはぽつりと言った。

「皆と比べてもそれなりの額で落札されて、お金持ちの人馬の家で働くのだとばかり思って緊張していたら、いつの間にか落札された時よりも廉価で此処に来ることが決まって、てっきり私、自分に一角獣種として致命的な落ち度があるのかと思っちゃった」

 そう思っても仕方ないだろう。

 パラスの元主人となる人物は人馬という身の上のためか殆ど人前に現れないと聞いている。パラス自身も殆ど会ったことはないらしい。そもそも、その人物は最初から神官長に横流しするつもりで一角獣種を買いに来ていたらしいのだから。

 勿論、誰でもよかったわけではない。その富豪の使いとなった人物も大変聡明な人で、きちんと神殿に相応しいかどうかを瞬時に見抜いて候補を絞ったらしいのだから。

 そういったことはキクノスにもしっかりと伝えられていたのを覚えている。その上で購入を迷ったのは、やはり価格。

 廉価とパラスは言った。たしかに廉価だろう。彼女が落札された金額と、キクノスが自分の給料より払わされた金額とを比べれば、廉価のうちの廉価としかいいようがないだろう。でも、やはり高額なのだ。僕が買われた値段と比べるなんてとんでもない。僕のちっぽけなプライドが踏みつぶされるだけだ。

 けれど、パラスはやっぱり僕の妹だった。価格の差なんて時々ふと思い出すだけ。そう過ごせるのも、やっぱりキクノスのお陰なのだろう。

「此処へ来た時なんて、正直、私はただの愛玩か使用人かの狭間になるのだとばかり思っていたのに、お父様はお父様になってくださった。それもお姉もついていて。嬉しかったけれど、戸惑ったわ。こんなに幸せな事はないだろうって」

 正直言えば、パラスが引き取られると決まった時、僕の心は複雑だった。

 一角獣種がくれば、キクノスは僕に飽きるのではないだろうか。一角獣種という貴重な存在には絶対に敵わないのだから、競おうなんて思わない方がいい。僕は市場で売られていた奴隷上がりらしく、期待せずに過ごしていた方がいいのかもしれない。

 そんなことばかり思って、ガーディアンとしての訓練ばかりしていた。

 パラスには口が裂けてもいえない。

「だから、お父様の御傍を追い出されると決まった時、すごく寂しかったの。今度こそ私は行き場をなくしてしまうのではないかって。そうなったらどうなるのだろう。本国に戻されて研究材料にされちゃうのか、はたまた廃棄されてしまうのか。考えただけで眠れないくらいだったの」

 現実的に考えれば、キクノスがパラスを手放すなんてことはないだろう。金で購入したのは確かだが、キクノスはきちんとパラスを養女とする手続きを踏んでいる。

 だが、パラスが不安に思う気持ちも理解出来た。僕だってそうだったからだ。目の前でパラスが公式に養女とされる光景を見るまでは、僕だって不安だらけだったのだから。

「でも、神官長室から移動する先を聞かされて、さらに驚かされたわ。だって、ソフィア様の元だったのだもの」

 前の世話係が婚約と共に都へと戻ってしまった代わりに。

 確か、そう聞いている。

「一角獣種に生まれて、この上なく光栄なことだったの。だって、私たちが生まれたのは本物の一角獣あってのことなのよ。真の一角獣と呼ばれる聖槍ソフィア様に仕えるなんて、兄弟姉妹が聞いたらきっと羨ましがるだろうなって」

 でも、とパラスは視線を落とした。

「ソフィア様は私が思っていたよりもずっと、普通の少女だったわ。話に聞いていたような存在ではあるはずなのだけれど、身近になればなるほど、不死であることを忘れてしまうくらい普通で愛らしい女の子だったの。だから、怖かった。ソフィア様をよく知らない人々が槍としてのソフィア様を讃える度に感じるギャップが怖かったの。あの圧力がいつかソフィア様を壊してしまうのではないかって」

 ――ああ……。

 違和感といえばいいのだろうか。

 ソフィアと深く関わろうとしてこなかった連中と、ソフィアの傍に近づいてよく言葉を交わした僕との意識の違いは何なのだろうと思ってきた。

 人々はソフィアを過剰に神聖視している。それはさすがに気付けたけれど、問題はそれだけではなかったのだ。

 ソフィアは思いつめている。覚悟を決め切れる聖女ならば、迷わずにカリスティ様と共に湖に沈むのだと英断するのだろう。そういった槍と果実の歴史もある。讃えるような記録が目立ってはいたが、一部だけ客観的なものも残っていないわけではない。

 彼女たちがもしも実は悩んでいたのだとしたら。

 今のソフィアのように。

「ソフィア様はそれでもずっと頑張ってきたのよ。私にすら本当の不安を打ち明けてはこなかった。かわりに前向きにカリスティ様と向き合おうとしてきたの。でも、昨日はついに私に零したのよ。怖いって。泣きながら言ったの。カリスティ様に異変がある前のことよ。だからずっと英知の天使様にお願いしていたの。どうか、ソフィア様をお守りくださいって……それなのに――」

 ふと、背後のユグドラシルの枝が言葉でも漏らすように揺れた。

 その音が僕達の背中をそっと撫でていくようだった。

 慰めているのか、宥めているのか。きっと彼女が何と言っているのか、カリスティ様には分かるのだろうけれど、僕達にはどうしても分からなかった。

「……信じよう」

 包みこむような母性と雄大さを兼ね備える聖樹を見つめながら、僕は再び泣き出してしまった妹に向かって言った。

「ヒパティアは言っていた。出来る限りのことはするって。だから、信じよう。まだ希望はあるはずなんだ。この国も、ソフィアとカリスティ様も、終わりなんかじゃないって信じてみようよ」

 ソフィアもまた僕達と同じように凡人に過ぎなかったのだろうか。これまでの多くの槍と同じく、早世してしまう運命から逃れられないというのだろうか。

 ミラのような槍とは何が違うというのだろう。百年以上の時を生きたミラとエフケリア様。彼女たちの記録は多いけれど、その長寿の秘密は明かされていない。自然死するまでの危機は克明に記録されている。なかには悪魔の仕業と思しき変事の記録もあるのだが、それをどう乗り切ったのかに関する記述は非常に曖昧だった。

 では、ソフィアとカリスティ様は、彼女たちになれないのか。

 いや、僕は信じたい。信じたかった。最後の時まで簡単に運命を繋ぐ細い糸を手放したりはしたくなかった。

 カリスティ様のことはヒパティアがどうにかしてくれる。エリスが本気で動きだしたとしても、僕達だって身体を張ればソフィアを支えることが出来るはずなのだと。

 だが、そんな僕の根拠のない言葉では、パラスの涙を抑えることも出来るはずもなかった。パラスはただじっと湖を見つめたまま。涙を流しているその横顔は、まるですでにソフィアたちを亡くしているかのよう。

 だが、それもきっと予感だったのだろう。

 沈黙する僕達の傍で、ただユグドラシルの枝だけが音を生みだしていた。


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