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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第2部
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13.英知

 ソフィアはヒパティアに連れられて清めの間へと向かった。

 それに付き添うという選択肢もあったが、僕が迷いなく向かったのは別の場所だった。

 角を失った牡鹿のように一気に鋭気を失ってしまったソフィアを見ているうちに、嫌でもその行く末が見えてしまうような気がして、居ても立っても居られなくなったのだ。

 僕の向かう先、それは、神官長室。

 事態を耳にしても部屋から一歩も出ず、決断のみを下そうとしている養父と幹部連中の元へ、半ば殴りこむような気持ちで向かっていった。

「ニンフ様、何処へ――」

 その道中、カロの声は聞こえた。

 スキロスも一緒だ。二人して僕の見張りを真面目にやるつもりだろう。ともすれば、僕の行動を邪魔するかもしれない。けれど、そうはいかなかった。二人を無視して足早に神官長室へと向かい、蹴破るかのような勢いで扉を開けてみれば、部屋には既にキクノス以外の誰もが居なくなっていた。

 机の上に座り、まるで僕が来るのを待っていたかのように此方を見つめている。

「どうした、ニンフ。勤務中ではないのか?」

 何処か厳しい眼差しでこちらを見つめてくる彼の前へと行くと、溢れんばかりの気持ちをどうにか抑えこんだ。

 怪鳥の血のせいだろうか。興奮がつい怒りへと転じそうになる。感情の起伏は願ってもいない変化を起こしかねない。そんな自分の身体をどうにか制御しながら、僕はその場に座り込んだ。

 必死に頭を下げ、床に額をこすりつける。

「――お願いします」

「何の真似だ。そのような平伏は、天使の授けた英知には含まれないものだが」

「何でもいいです。ただ、どうか、お願いします」

「どうした、ニンフ。顔を上げて言ってみなさい」

 そう言われても、顔をあげる事は出来なかった。

 彼の顔を見ない方が、ずっと勇気が持てた。これから口にすることが、もしかしたら今の地位を脅かす事になりかねないからだ。

 それでも、僕は言った。地位を失ってもいいから、言うしかなかった。

「――ソフィアの事です」

 自分の声が震えているのに気付いた。

 あの状況を見た以上、そして、事態を把握した以上、これから何が起こるのか僕にはすぐに理解出来た。

 理解した以上、懇願せずには居られなかった。

「神官長、お願いです。ソフィアを――カリスティ様を――」

「ニンフ」

 その全てを言う前に、キクノスは僕の名を呼ぶ。咎めるような口調だ。

 それでも、僕は引かなかった。此処で引いてはいけなかった。

「ヒパティアは策を考えると言っていました。それに、僕――私だって、ソフィアを支えます。だから、お願いです。ソフィアを――ソフィアに……彼女にカリスティ様を殺させないでください!」

 自分の声が悲鳴のようだった。

 恐れていた日が来ようとしている。

 カリスティ様が悪魔の手に堕ちた。幸いにも、まだユグドラシルは枯らされていない。しかし、このまま放っておけば、いつかカリスティ様はユグドラシルを枯らす存在となってしまうだろう。

 悪魔の僕とはそういうものだ。

 ユグドラシルが枯れれば英知の国を守る聖域は消える。そして、魔物達に怯える日々は始まってしまうのだ。これまでの文明も途絶えるだろう。魔物たちによって、我が国は滅ぼされてしまうだろう。

 そうならない為にはどうしたらいいのか。

 どうするのが手っ取り早いのか。

 キクノスがどう決断するのかが、手に取るように分かってしまったのだ。

「ニンフ」

 再び、キクノスの口が僕の名を呼んだ。

 今度は語りかけるようなものだった。

「君は自慢の娘だ。たとえ血が繋がっていなくとも、引き取り方が通常の方法ではなかったとしても、それは変わらない。今までも、これからも、君は私の愛娘に変わりないだろう。……だが、ニンフ。はっきり言おう」

 キクノスの野鳥よりも厳しい視線が僕を貫く。

「君には失望した。あれほどまでに注意してきたはずだ。槍と果実に深く関わるなと。軽々と愛着をもっていい存在ではないのだ。分かるか、ニンフ」

 雷よりも厳しい声で、彼は叱責して来る。

「ここ近年、どれだけの長さで時代が移り変わってきたのか、教えてきただろう? 長くても三十年がやっとだ。それにも及ばない歴史なんて溢れるばかり。先代だって同じだった。どんなに優れた槍と果実であっても、悪魔には対抗できない。対抗する手段は一つしかないのだ。その尊さによって、我々はずっと守られてきたんだ」

「――でも、ソフィアは」

「十七歳の少女の姿をした槍。君が思っている以上に、槍は槍として存在しているものだ。ニンフ。まだ間に合う。今の内に努力しなさい。彼女たちは君が思っているよりも、天使やユグドラシルに近い存在なのだから」

 ――違う。

 そんなの、嘘だ。ソフィアの傍に居ないから、そんな事が言えるのだ。

 彼女をこれまで見てきてずっと思ってきた。ただ槍の印を持って生まれてきただけで、中身は都に住む十七歳の少女と何も変わらないのだ。ソフィアだって怖いだろう。死にたくないし、カリスティ様を傷つけるなんてことが出来るはずもない。

 それに、ヒパティアはまだ考えてくれるはず。

 鴉の書を著した人物の再来と言われた彼女ならば或いは――。

「大人になれ、ニンフ。浅い思慮ではなく、深い目で見つめるんだ」

 キクノスは語りかけるように言った。

「このままでは英知の国はどうなる。ユグドラシルに何かあってからでは遅い。聖域が消えたらどうなる? 魔物が入りこみ、人間たちを襲い始めたらどうなるだろう。国は維持できたとしても、魔物の血を引く者たちがこれまでのように暮らしていくことは出来なくなるだろう」

 確かにそれは最悪の事態だろう。

 僕やスキロスも例外なく外に追い出されてしまうかもしれないし、もしかしたら処刑されることだってあるかもしれない。

 けれど、間違っている。まだそんな段階に至るのは早い。可能性が何処かに残っているはずなのだ。何処かに、別の道が開いているはず。

 そう信じたかった。

 泣いているつもりはなかったのだけれど、気付けば床についた手の甲は零れ落ちた涙でぐっしょりと濡れていた。必死に堪える私を見つめるキクノスの視線が痛い。だが、必要以上に彼は何も言わず、溜め息のみを吐いてから言った。

「命じたりはしない。強制力もない。槍と果実は聖なるものだ。私の権限はただあの二人とユグドラシルを守るためという名目の範囲だ」

 顔をあげれば、キクノスは何処か遠くを見つめていた。

 湖の底のような色の目から窺える表情は何処か暗い。

「――ソフィア。あの子の判断に任せてみようか」

 それはきっと精一杯の譲歩なのだろう。


 英知とは何だ。

 この国では知恵ある事が尊ばれる。

 合理的で無駄のないことが無駄のないことが好まれ、そのためには私情すらも殺してしまえるような人物こそ理知的だと尊敬されることだってある。

 確かに僕だってそうだった。

 感情に惑わされるのは今でも愚かだと思う。計算され尽くした方法というものはいつだって美しいものに思えるが、これもきっと僕もまた英知の天使に愛された人々の末裔である証なのだろう。

 ソフィアもそうだし、カリスティ様だって同じだ。

 この国の人々は合理的でないものを厭う。もしもそこで情動が邪魔しようものなら、英知の人々は皆、子供染みていると批判を覚える。

 キクノスだってそう、ヒパティアだって同じ。

 こうなってしまった以上、彼らは結局、たった一つの結論に向かって動き出すのだろう。これが賢い選択なのだと、確かに沸き起こるはずの罪悪感を、ソフィアとカリスティ様の犠牲を賢人と讃えてしまうことで誤魔化そうとする。

 これまでもそう。

 英知の国の歴史はその繰り返しだったのだろう。

 だが、そうさせてなるものか。ソフィアと、カリスティ様を、これまでの悲劇の繰り返しで片づけて諦めるなんてことは僕にはどうしても出来なかった。何か策はないのか。連鎖を止めるにはどうしたらいい。

 この破滅の連鎖を止めるには……。

 ――ユグドラシルを滅ぼせばいいのよ。

 ふと、何処からか恐ろしい囁きが聞こえた気がして、背筋が凍りついた。どんな猛者に睨まれた時にも感じないような恐怖に鳥肌がたった。

 何だろう、今のは。

 神官長室から中庭の見渡せる吹き抜けへと続く薄暗い廊下。辺りを見渡しても僕以外は何もいない。ましてや、聞こえたのは幼い少女の声。カリスティ様よりも年下の少女の声にも思えた。無論、そんな人物は此処にはいない。

 気味の悪さだけではない。

 ある種の不安と予感を覚え、僕はすぐさま歩みだした。

 向かうのは一階。清めの間。固く閉ざされた神経質なあの場所で、居心地の悪さを我慢しながら閉じこもっているだろうソフィアの元だった。


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