12.獣の勘
勘と呼ぶ以外に言いようは無かった。
僕がカリスティ様の異変に真っ先に気付けたのは、長らく眠らせていた怪鳥の感性が目覚めたからとでも言えばいいのだろうか。
ともあれ、僕の勘は出来れば外れて欲しかった。
気が触れたのだと馬鹿にされた方がまだよかった。陰口で済んで、僕が恥を掻くぐらいで終われば、ずっとましだっただろう。
けれど、僕の勘は当たってしまったのだ。
騒ぎを聞きつけたヒパティアの監督のもとで、カリスティ様の部屋でそれは起こってしまった。それまで死んだように眠っていたカリスティ様が、急に目を覚ました瞬間、火をつけたかのように悲鳴を上げたその一瞬で、その場に居た誰もが凍りついた。
少女の悲鳴。まるで恐ろしい場所に囚われてしまったかのような。
「抑えて、早く!」
ヒパティアだけが冷静だった。
白鳥の彫られた美しい寝台の上。ソフィアの部屋に置かれているものと対になっているのだという願いの込められたその上に、屈強なガーディアンの男によってカリスティ様は抑えつけられた。
僕は咄嗟に動けなかった。ヒパティアの傍でよく働いているベテランの男だけが特に何も言わずにその指示に従ったのだ。それ以外の者たちは、やはり、ヒパティアの息がかかったものだけが落ち着きを取り戻していた。
僕は、そして、僕以外のヒパティアと関わりの薄い者たちは、誰もがカリスティ様の豹変ぶりに驚いていた。
「カリスティ様、聞こえますか?」
ヒパティアは落ち着いた様子でカリスティ様に話しかけた。
「聞こえていたら、お返事ください。私です、ヒパティアですよ」
「ヒパティア……」
やや呂律の回らない声で、カリスティ様は返答する。
「ヒパティア、ヒパティア、放して、お願い……放してぇ!」
叫びながら大の男すらも突き飛ばさん勢いで暴れ回る。純血の人間とは言え、僕とは比べ物にならない熊のような体格の男だと言うのに、今のカリスティ様を抑えるのは一苦労のようだ。
一体、何が起こっているのだろう。
現実が捉えきれず、僕はただ茫然とその光景を見つめていた。
ただ、見えるものはあった。僕の目にも、見えるものがあったのだ。叫びながら暴れ回るカリスティ様の身体に重なるように、あの時、中庭で目にしたのと同じ、青い何かが光っているのを。
――これは……。
「カリスティ、眠りなさい」
その時、ヒパティアが魔力を込めた声で命じた。
途端に、カリスティ様の動きが鈍る。しかし、完全には眠らなかった。魔術すら及ばないなんて、本気でカリスティ様が拒んでいるからこそのことだろう。この幼き聖女の胸で光を放つ黄金の果実が、不可能を可能にしている。
けれど、そんなまさか。
カリスティ様がヒパティアに逆らうなんてあり得ない。歴代の果実にも、己の果実を悪用したことがある者なんて記録はない。
「――ソフィアを呼んできて」
ヒパティアが冷静に指示を下す。
その言葉に、思わず異論を唱えそうになってしまった。この光景を彼女に見せるというのか。だが、僕が何か言う前に、ヒパティアは説明するように言った。
「確認したいことがあるの。早く!」
強い言葉に押されるように若いガーディアン達が退室していく。
その背を見送りながら、僕は不安を抱えていた。ソフィアは、この光景を見て何を想うのだろう。悪夢ならここで覚めてはくれないだろうか。
「――エリス」
ヒパティアの呟く声が聞こえ、ふと僕は振り返った。
彼女の濁りない目が静かに悶え苦しんでいるカリスティ様の顔を見つめていた。僕の目を通して言うならば、丁度、青い煌めきが見え隠れする辺りだ。
「あなたは何処まで私たちを苦しめるつもりなの」
まるで会話でもしているようだ。
気のせいかもしれないけれど、そう思った。
――来ないで、ソフィア。
騒動が収まりつつあるカリスティ様の部屋の中で、ソフィアは床に膝をつきながら震えていた。
ヒパティアの魔術で動けないだけではないだろう。
想像もしていなかった衝撃が、ソフィアの未熟な身体を蝕んでいるようだった。
僕はせめてその近くに寄り添い、共にヒパティアが訪れるのを待っていた。ソフィアは何も言わなかった。ただじっと立ち直ることも出来ないままだった。混乱しているのだろう。それも仕方ない。
カリスティ様がソフィアをあんなにもはっきりと拒絶することなんてこれまでなかったのだから。
それだけじゃない。
――やっつけて、お願い。
カリスティ様はもはやカリスティ様ではなくなっていた。ソフィアの槍としての想いを悪用しようとしたのだ。カリスティ様を想うソフィアの直向きな愛情を利用して、僕達に向かって槍を向けさせた。
キクノスが怖がるのも無理はないかもしれない。
あの一瞬、槍を向けられた時、僕は確かな恐怖を覚えた。この少女は不死。対面となれば、こちらが不利なのは当り前。ソフィアのことを怖がらずに済んでいたのは、その力をこちらに向けてくる気がなかったからに過ぎないのだと実感させられた瞬間だった。
けれど、もうその心配もない。
混乱したソフィアの行動はすぐにヒパティアに制御されてしまった。この時の為にこの残酷な魔術を仕組んできたのだと言われれば、僕は何も言えなくなる。だって、そのお陰で僕達は命拾いをしたのだから。
カリスティ様は清めの間へと逆戻りとなった。
今度はいつ出られるのかも分からないのだろう。
連れて行かれるその時まで、ソフィアの本当の名前を恐れもせずに叫んでいた。あの悲鳴が今も耳に残っている。きっとソフィアも同じだろう。
口を利かないのか、利けないのか、その判断はつかない。
ただ、ソフィアの目には涙が溢れていた。
薄々感じているのだろう。僕だってそうだ。カリスティ様に何が起こっているのか、どうしてあんなにも豹変してしまったのか、あの青い煌めきさえ目に映らなかったら、分からないままだっただろう。
ソフィアには、青い影が見えただろうか。
カリスティ様に寄り添うような、あの青い影が。
――ソフィア、お願い、助けて、ソフィア。
その言葉を受けた瞬間の、ソフィアの表情が忘れられなかった。
カリスティ様が連れられてから暫く。途方もないほど長く感じた時間もやがて終わりを迎え、ヒパティアは再び現れた。
その顔色がやや青ざめていたことに今になってやっと気付けた。冷静に見えたけれど、彼女もまた恐怖を感じているのだろう。
「ソフィア」
ヒパティアが短くその名を呼ぶと、ソフィアの呼吸が一気に漏れだした。
魔術が解かれたらしい。解放されて倒れこみそうになる僅か十七歳の少女を、ヒパティアはそっと抱きしめ労わった。
「御免なさい、ソフィア。残酷な事をして」
落ち着いた声。先程までの冷静に命じるようなものとは違った。彼女にしては珍しく、血の通った言葉に思えた。
そんなヒパティアを見つめ、ソフィアは訊ねる。
「ねえ、ヒパティア」
震えた声だった。
「何があったの? カリスティは何処に連れていったの?」
その問いにヒパティアはすぐには答えられなかった。
心を完全に無くすなんて無理なのだろう。僕も同じだ。僕達だけではない。神官長――キクノスだってそれは同じことだ。心を鬼にする為に、必要以上にソフィアやカリスティ様とは関わろうとしないのだから。
そんな僕達に、ソフィアはやや強い口調で問いただしてくる。
「教えて、カリスティは――」
「清めの間だ」
たまらなくなって、僕は答えた。
「暫くの間、結界の強い場所に居て貰うらしい」
それがヒパティアの下した決断だった。
とっくにキクノスの耳には入っているだろう。まずはカリスティ様を清めの間に隔離し、自由を奪ってしまう事。心を無にしてヒパティアは決断し、その命令に従って魔術師やガーディアン達が動いている。
「ねえ、どうして。どうしてカリスティはそこに――」
――どうして。
清めの日でもないのに、どうして清めなくてはならないのか。
これまで大人しかったカリスティ様が、どうして人が変わってしまったようになってしまったのか。
分からないなら分からないままの方がいいだろう。
けれど、そういうわけにはいかないのだ。
ソフィアは槍であって、ただの子供ではないのだから。
ヒパティアが覚悟を決めたように口を開いた。
「ソフィア」
心を極限まで無に近づけて、彼女は言う。
「落ち着いて、よく聞いてください」
ヒパティアは一度間を置いてから、告げた。
「カリスティ様は、悪魔と取引してしまったのです」
はっきりと、その言葉を放った。
到底、落ちつける話ではないだろう。しかし、ソフィアはヒパティアの話を聞いたきり、言葉すら忘れて茫然としてしまっていた。
僕も同じだ。ヒパティアが診断した結果は、それくらい僕にとっても予想以上に酷いものだったからだ。
だって、誰が信じられるだろうか。
カリスティ様が――我が国の英知の果実が、悪魔の僕になってしまうなんて、誰が信じられるだろうか。
「嘘……だって、だってカリスティは――」
ようやくソフィアはそう言った。
涙を含んだ声で、ヒパティアに抱かれながら震えていた。
「だって、あの鬼族の女は――」
「残念ながら、そうとしか考えられないのです」
ヒパティアは静かに言った。
「カリスティ様の身体にまとわりつくように、エリスは取り憑いています。私たちを嘲笑うようにカリスティ様の果実を目覚めさせ、耳元で命じて暴れさせているのです」
その顔がどうして青ざめているのか、今頃になってよく分かってきた。分かりたくもなかったのに。
「でも……だって、どうやって? カリスティはずっと此処にいたのに……鬼族だって此処には――」
そうだ。ソフィアの嘆く通り、分からないことだらけだ。
僕はずっと見張っていたのだ。僕だけではなく、多くのガーディアンが共に見張っていた。その中で接近に気付けたのは僕だけだったかもしれない。だが、そうだとしても、分からない事は多い。
どうして、悪魔の僕がカリスティ様にすり替わったのか。
どうやって悪魔はカリスティ様を手に入れてしまったのか。
鬼族の力を使ってとでもいうのだろうか。接近だけならば不可能ではなかったのかもしれないけれど、カリスティ様を襲わずに手に入れてしまうことが、どうして出来たというのだろうか。
信じたくなかった。エリスがはっきりと見えるというのはヒパティアだけだ。それなら、尚更信じたくはなかった。
けれど、信じざるを得なかった。
カリスティ様のあの様子を見たら、そして、カリスティ様の身体に覆いかぶさるようにして現れる青い煌めきを見たら、信じずにはいられないだろう。
鬼族の女と戦っていた頃には見えなかったあの光。
ソフィアには影に見えるというあの青。
あれがエリスと言われれば、信じざるを得ない。そのくらい、カリスティ様はおかしくなってしまったのだから。
じゃあ、これからどうなってしまうのだろう。
ソフィアは、カリスティ様は、どうなってしまう。
一度、悪魔に魅入られてしまった者を、取り戻すことは出来るのだろうか。誰か教えてくれ。ヒパティアなら、果実と槍を長年見つめてきたヒパティアならば、英知の鴉と謳われた彼女ならば、どうにか出来るのではないのか。
そんな期待が入り混じる僕の視線の先に映るヒパティアの表情は、やはり、どう見ても、優れないものだった。




