11.守護
月の照らす夜の光景は嫌というほど美しい。
特に、中庭の湖に浮かんだ月光の幻影が異様なくらい目立っていた。
でも、吹き抜けの上階から僕が見つめているのはずっと、ユグドラシルの根元に向かう愛らしい天使のような少女と、その姿を見守る一角獣だった。
カリスティ様はユグドラシルの根元に触れると、そのまま寄り添った。
きっと会話をしているのだろう。果実はユグドラシルと話せるのだと聞いているから。そのようだと思える場面も何度も目撃してきた。
ソフィアとカリスティ様。
あの冷たくて暗い結界の間から抜け出した時、カリスティ様は明らかにソフィアの姿を見てほっとしていた。でも、ソフィアはそれに気付いただろうか。カリスティ様も、カリスティ様で、どうして自分の気持ちを引っ込めてしまうのだろう。
分からない。
あの二人のことが。
しかし、今宵――時代が動きだし、安定を支える柱を齧ろうとするネズミが現れた今日、ソフィアとカリスティ様の間にもこれまでの長い冬の終わりを告げるかのような新しい動きが生まれていた。
――呼びとめられた?
カリスティ様に、ソフィアが。
それだけでも、大した一歩だった。
ソフィアが去ろうとしているのを、カリスティ様の方が引き留めるなんて。
これまでとは何かが違う。何かが変わろうとしている。ソフィアを求めていることこそ、カリスティ様の本心には違いないのだ。それを、これまでは何かが阻んできていたのだ。
じゃあ、それは何なのか。
なんだっていい。僕は今、中庭で繰り広げられている光景に驚いていた。だって、呼びとめただけではなかったのだ。
カリスティ様が、ソフィアに飛び付いていたのだ。
言葉にならない、言葉に出来ない、そんな感情の爆発がカリスティ様を掻きたてたのだろうか。青い礼服のフードが脱げ、ふわりとした土色の髪が夜風に揺れている。その目はソフィアの驚きを隠せないだろう眼差しを避けている。
ただ、ソフィアに行くなと言っているようだった。
何を話しているのか、非常に気になった。
でも、ここからでは僕の耳では聞こえない。それに、盗み聞くには忍びなかった。それくらい、彼女たちの間には介入できない何かがある。僕が出来るのは、今この場に怪しい奴がいないかを見張る事だけ。
けれど、見入ってしまった。
まるで素晴らしい絵画でも見つけたような気持ちが湧き起こり、そのまま意識を持って行かれそうになってしまった。
そのくらい素晴らしい光景だったのだ。
ユグドラシルが枝を揺らしている。彼女も何かを話しているのだろうか。僕には聞こえないその言葉を、今だけは聞いてみたかった。
同じく見張っている者は他にもいたはずだ。
だが、その他の者たちがどんな表情で見ているかなんて、確認する余裕もなかった。
ソフィアも驚いているらしい。カリスティ様に一言、二言話しかけつつも、何処か心ここにあらずという様子だ。緊張しているというわけではないだろう。ただ、あまりにも唐突で、そして、起こり得ないと本人が何処かで思っていたからこそ、あんなにも驚いたのだ。
何を話しているのだろう。何だったにせよ、ソフィアはカリスティ様の願い通りその場に留まる事を決めた。
ああやって寄り添い合う二人を見るのはどのくらいぶりだろう。
今までは俯くカリスティ様にソフィアが寄り添っているだけだった。しかし、今は違う。カリスティ様の方も、いや、カリスティ様の方が、ソフィアに縋っているようだった。
怖いから、なのだろうか。
それとも、もっと別の何かがカリスティ様の中で起こっているのだろうか。
不安でもあるし、予感でもあるのかもしれない。
今日一日、清めの間に閉じ込められたことが、それほどまでに彼女を追い詰めてしまっていたのかもしれない。
しかし、何にせよ、カリスティ様に抱きつかれたソフィアは、何処か気の抜けた様子を見せ始めていた。嬉しかったのだろう。身体にじわじわと染み渡るほどに。その目からはきっと涙なんて漏れていないだろうけれど、僕には泣いているように見えた。悲しみの涙ではなく、嬉しさの涙だ。
そして、それだけじゃない。
それだけじゃなかった。
決して長いわけではない会話の後、カリスティ様が確かに、はっきりと、ソフィアに向かって笑顔を見せていたのだ。
久しぶりに観た、果実の笑顔。
我が国の心臓である少女の、清らかな笑顔。
一番驚いたのはソフィアだっただろう。不安な事態に巻き込まれ、不安な事実を聞かされて、何もかも背負わなくてはならないとその重圧に押しつぶされそうだったソフィア。彼女にもたらされたカリスティ様の笑みは、その心にどのくらい染み込んだのか。
別れを惜しむ二人を見つめながら、僕も、僕と同じように見張りを務めているガーディアン連中も、ただその光景に魅入られていた。
別れを惜しみつつソフィアが中庭を去って暫く。
カリスティ様はユグドラシルに縋りつきながら寝入ってしまった。これまでもよく見かけてきた光景に違いない。だが、心なしか今宵のカリスティ様は穏やかな寝顔をしているように見えた。
きっと今見ている夢も穏やかなものなのだろう。
それがせめてもの願いだった。
この国の為に生まれ、この国の為にただ生かされ続ける少女。決して安定しないこの不穏な世界の中で、数多の絶望と願いの先で神聖視されるたった十歳の女の子。
彼女を巡る争いは一体いつまで続くのだろうか。
きっと僕が生きている間は、終わることもないだろう。
それでも、やっぱり僕は希望を抱いた。
ソフィアは、カリスティ様は、かつてこの神殿にいたミラやエフケリア様のように約束された寿命を使い果たす事が出来るのだという希望。
我が国の天使が与えてくれた英知が、その希望を叶えてくれるのだと信じたかった。
数分後、ソフィアは静かに僕の傍に来た。吹き抜けよりユグドラシルの根元で眠るカリスティ様を愛おしげに見つめていたが、何処となくその横顔は寂しげなものだった。
「憂鬱そうだな。カリスティ様と何を話していたんだい?」
そっと訊ねてみれば、ソフィアはただカリスティ様を見つめたまま呟いた。
「別に、大したことではないわ。ただ甘えてくれたの」
それにしては、切なげだ。
会話の内容をしつこく問いただすつもりは毛頭ない。果実と槍という特殊な絆で結ばれた二人の間に割って入れるほどの度胸は僕には無い。
それに、ソフィアが詳しく話したくない理由に心当たりがあった。
キクノスのことだ。僕の養父のこと。英知の国全体のために、ソフィアとカリスティ様を徹底的に管理する神官長を気にしているのかもしれない。
そうだとすれば、追求するのは酷というものだろう。
僕はそう思いなおし、そっとソフィアに言った。
「そっか。久しぶりにカリスティ様の笑顔を見た気がしたよ。そして、君もね、ソフィア」
「私?」
驚くソフィアの姿に、微笑みが浮かぶ。
やはり、あの表情は自然のものだったのだ。無意識に心が落ち着き、そうしてあの穏やかな表情が生まれたのだろう。
「カリスティ様に抱きしめられて、君も幸せそうに見えたよ。傍から見ていた僕でさえも嬉しくなるくらいに」
本心からそう言った。
今だってあの光景を思い出すと気持ちが安らぐ。
「物騒な話ばかり聞いた後だったからね。君とカリスティ様との絆が少しでも深まれば僕たちも安心するよ」
せめてもの慰めだった。
何処の国だって似たようなものなのかもしれないけれど、所詮は他所の国のこと。僕が気にするのは永遠に我が英知の国の果実と槍のこと――つまりは、ソフィアとカリスティ様のことだろう。
その時ふと、ソフィアの表情が暗くなったのに気付いた。
「ソフィア?」
そっと窺うと、ソフィアは我に返ったようにこちらを見た。
疲れているのだろうか。無理もない。昼間、あんなことがあってからろくに休んでいないのだから。
「大丈夫、ソフィア? 今日はもう休みなよ。心配せずともカリスティ様は僕達が見張っている。何かあったらすぐに起こすからさ」
彼女だってまだ十七歳の少女なのだ。不死であるというだけで、あまりにも頼りにするのは大人として情けない。
「有難う、ニンフ」
やけに素直にソフィアはそう言って背を向けた。
やはり、無理をし過ぎているのかもしれない。槍の抱える不死というものが、どれだけの万能さを秘めているかなんて知らない。普通ならば致命的な傷を負っても回復出来るというのは、確かに素晴らしいことだ。首を切り落とされても生き返ることが出来るなんて、死を顧みずに身体を張るガーディアンならば誰だって羨むだろう。
しかし、その分、ソフィアの抱えているものは大きいのだ。
それも、望んでそうなったわけではない。たまたま印を持って生まれてしまったから、役目を担うはめになった。
尊ぶべき存在なのだろうけれど、やはり、哀れだった。
「――ソフィア」
思わず声をかければ、ソフィアはおもむろに振り返る。
都に溢れる芸術作品のどの槍の聖女よりも神秘的なその眼差しが、僕の目をじっと見つめてくる。
そんな凡人ではない彼女に、僕は言った。
「君一人で抱えては駄目だよ」
その言葉に、ソフィアの瞳が揺らいだ気がした。
ソフィアが部屋に戻ってからは、非常に静かな時間が流れた。
カリスティ様を見張っている他のどの連中も、特に喋ったりはしない。
ただじっと、各々が、眠るカリスティ様を見守っているだけだった。それは僕も同じだし、僕の傍で付き添っているスキロスやカロも同じだった。
二人とも神妙な面持ちだ。きっと、昼間のことを引きずっているのだろう。元からくそ真面目なスキロスはともかく、カロまでも同じ様子だ。
しかし、仕方ないかもしれない。何しろ、僕だって同じだ。これまでどんな不審者が相手でもさほど怖くなかったのに、今回ばかりは非常に恐ろしかった。
相手は鬼族。その時点でもう厄介なのに、殺してはいけないときた。恵まれた魔力と魔術の才。何処からカリスティ様を狙って現れるかも分からない。
夜闇でも紛らわされないこの怪鳥の目を酷使してでも見張らなければ。
そんな思いがあったからこそ、その些細な変化には気付けたのかもしれない。
「変だな……」
ぽつりと漏らすと、スキロスとカロ、両方の目がこちらを向いた。
「何がです?」
真っ先に訊ねてきたのはスキロスの方だ。彼の鋭い嗅覚には引っかかるものは何もないらしい。しかし、確かに僕の目は奇妙なものを捉えていた。
青い煌めき。そう見えた。まるで湖の輝きが一人でに動きだしたかのよう。その煌めきはふわふわと漂い、夜風に紛れてユグドラシルの根元で眠るカリスティ様の頬に口づけをしたように見えた。
なんだろう、あれは。
青い煌めき。
――青。
目が覚めるような気付きが生まれた。そうだ。青い影とソフィアは言っていた。その前に、ヒパティアは何と言っていた? 青い光か、青い影。そうだ、あれじゃないのか。
怪鳥の目が捉えたその謎の光が、カリスティ様の頬に触れて、そして――消えた。
「ニンフ様っ!」
恐ろしい可能性に気付いた瞬間、僕は吹き抜けから飛び出していた。空中で翼を広げ、そのまま中庭――ユグドラシルの根元へと飛び降りていく。
そうして、羽毛を撒き散らしながらカリスティ様のすぐ傍へと着地したけれど、カリスティ様は一向に起きる気配がない。
「カリスティ様?」
恐る恐る手を伸ばし、あの青い煌めきが触れた辺りを触ってみた。
「カリスティ様、起きてください」
せめて、ここで起きてくれれば安心出来る。
単なる深読みだと言って欲しかった。僕の獣としての勘など外れてしまえばいいのだ。そうだ。スキロスの鼻は何も捉えていなかった。僕の目に映った青い煌めきが、ヒパティアとソフィアの話を聞いた記憶による幻だとしたら、どんなに安心するだろう。
――しかし、そうではなかった。
「カリスティ様!」
もう一度呼び、恐れ多くもその身体を揺さ振ってみた。それでも、彼女は起きない。先程までの安心しきった表情ではなく、悪夢を見ているらしい。ただの悪夢ではないだろう。だって、起きないのだ。起きてもいいはずなのに、苦しそうな表情を浮かべたまま眠り続けているのだ。
カリスティ様の様子を目の当たりにして、血の気が引いていくのを感じつつ、その場に居る誰にも届くほどの声で、僕は叫んだ。
「スキロス! カロ!」
上階で見ているだろう全ての者に向かって、僕は吠える。
「誰でもいい! とにかく来てくれ!」
その声に、一階にいた者たちまでもが集まってきた。
しかし、地獄の始まりは此処からだった。




