10.悪魔
ヒパティアが見せてきた魔導書「鴉の書」。
僕も読んだことはある。魔術を習った際に、少しだけ触れる事となったからだ。ただし、僕がざっくりとしか読んでいないその本は、彼女が持っているような古めかしいものではなく、もっと現代っぽく、安上がりな装丁に仕上がったものだった。
昔は本なんて高価な贅沢品だっただろうけれど、今は違う。
この本を執筆したコローネのいた時代は勿論、ヒパティアが持っているこの本が作られた時代すらも今や遥か昔のことだ。
そんな遥か昔の教えは今も根強い。いや、それどころか、その教えがこのおどろおどろしい状況を打破する術を与えてくれるかもしれないなんて。
「今やこの本に書かれている事は魔術師の間では常識となっていますが、魔術師以外となるとまだまだ常識とは程遠いようですね」
何処か周囲を探るような様子で、ヒパティアは言った。何かに怯えているようなそんな姿に見える。でも、何に怯えているというのだろう。
「昔もそうでした。悪魔と戦う際には、禁忌があるのです。それは、悪魔と会話をしない事。そして悪魔の僕と直接戦わない事」
「――戦わない?」
ソフィアが訊ね返し、ヒパティアは言い聞かせるように答える。
「そう、戦わない」
そうして、ひと息ついてから、付け加えた。
「悪魔の僕の命を奪ってはならないのです。悪魔の僕は悪魔の宝物。もしも勝手に壊すようなことがあれば、その代償に新しい僕となるように悪魔は要求してくるのです」
「新しい僕……」
その言葉にぞわりとした不快感を覚えた。開かれた「鴉の書」の頁を見つめながら、だんだんとヒパティアの行動の理由を理解していった。
その理解を後押しするように、ヒパティアは言った。
「決して拒めない呪い。悪魔の僕を殺してしまえば、その殺した者が後を引き継ぎ、悪魔に囚われてしまうのです。そうなればどうなるでしょうか。国を破滅させたいなんて願っていなくとも、内なる願いを誇張させられ、悪魔の言うままに果実を狙いだすのです」
いつの時代だって、狂人は現れたらしい。
しかし、決まって一人だった。一人の狂人が現れた時、別の狂人が現れるなんてことはない。今回だってそうだ。凶悪な犯罪者はいても、あの鬼族の女ほど気味の悪い人物は他にはいない。
「悪魔とは僕を宝として守るもの。けれど、用済みになれば敢えて欲しい人物に僕を殺させて、手っ取り早く自分のものにしてしまうのです。……ニンフ、あなたが吸血鬼を仕留めようとした時、私が止めた理由はもうお分かりですね」
ぞわりとした何か。それは冷や汗でもあった。もしもヒパティアが止めなければどうなっていたのか。理解すればするほど、はっきりとした恐怖が僕の心を抉ろうとしてきた。
「……ああ、よく分かった。感謝するよ、ヒパティア」
どうにかそう言って、あとは黙した。悪魔なんて僕には見えない。狂人――悪魔の僕の下りが本当かどうかも分からない。それでも、得体の知れなさが心の奥に沁み込み、暗い影を生みだしている。
そして、黙りながら、僕の思考は段々と恐ろしい事態に行きついた。何故、あの鬼族の女が最初にソフィアを狙っていたのか。どうして攫おうとしたのか。
「きっと、本当はソフィアを狙っていたのでしょう。その方が手っ取り早く果実に近づけますからね。けれど、手に入れば他の者でも構わない。何しろ、悪魔というものはいつまでも同じ僕を持っているわけにはいかないのです」
「どうして……?」
弱々しいソフィアの声がヒパティアに向けられる。
「悪魔の僕は強過ぎる魔力にあてられ続け、やがては精神を疲弊させていきます。悪魔に身を捧げたことによって、冷静さを奪われていくのです。やがて僕の心は完全に死に絶え、本当の意味で人形と成り果ててしまう。そうなった時、僕は悪魔の身体の一部となってしまいます。そうなれば、もうその僕は果実を奪えない。神殿にはられた古の結界に弾かれて、侵入する事すらままならなくなるのです」
あの鬼族の女もそう。
今はまだ自我があるけれど、段々とそれも失われていっている。彼女も被害者なのだろうか。それでも、もはや気の毒とは思えない。悪魔に操られていたのだとしても、彼女は取り返しがつかないほど多くの命を奪ってきてしまった。
人として生きる以上、人と共に生きる以上、それは許されない罪だ。
憐れんだところでもう何もかも遅い。それに、彼女を憐れむことが出来るほど、僕達は強者ではない。こうなった以上、あの女からいかにカリスティ様を守るかを考えるほかないだろう。
「じゃあ、このまま待っていれば奴もいつか忍びこめなくなるんだな?」
訊ねてみれば、ヒパティアはそれに肯く。だが、表情はどういうわけか暗い。
「あの吸血鬼は、そうでしょう。でもそうなった後でも、悪魔は焦ったりしません。神殿に忍びこめなくなった僕を殺させる相手を探すだけです。きっとすぐに見つかるでしょう。この国は昔よりも豊かになりましたが、それでも悪魔につい耳を貸したくなるくらい絶望している者もいます。そういった者に悪魔は姿を現し、少しずつ手懐けていこうとする……」
そこで、ヒパティアはそっと胸元を抑えた。
苦しそうにしている、と一瞬窺ったが、すぐに落ち着いたのか何ともないような様子で僕達を見つめてきた。
「あなた達には悪魔の姿は見えましたか? ソフィア、あなたには青い光、もしくは影が見えませんでしたか?」
――光か影?
「……見えたわ、青い影よ」
否定する僕の横でソフィアが即答する。
「僕には何も」
僕も答えつつ、ソフィアの返答に内心驚いていた。
青い影が見えた? 僕には何も見えなかった。どちらかといえば、純血の人間であるソフィアよりも、怪鳥の血の混じった僕の方がそういったものは見えるはずだ。怪鳥の先祖より受け継いだ目の力はそういったものを見逃さないのだから。
しかし、青い影――もしくは光。僕には何も見えなかった。
「悪魔は特定の人物にしか見えないのです。ニンフ、もしかしたらあなたの前に現れる日も来るかもしれない。そして、ソフィア、あなたにも今以上にその姿がはっきりと見える日が来るかもしれない」
「今以上に……?」
驚くソフィアの横で、僕はその光景を想像した。僕の前にも現れる日が来るかもしれない。僕には見えず、ソフィアには青い影で見える存在。得体の知れない存在。あの名も知らぬ鬼族の女を操っている存在。
「英知の悪魔は少女の姿をしています。美しい金髪と碧眼。悪意など全くないかのような無邪気な容姿と言動。けれど、その姿に騙されたならば、救われぬ未来が訪れるでしょう。エリスと名乗る悪魔。彼女に耳を貸してはなりません」
――エリス。金髪碧眼の少女。
僕には見えない。しかし、ヒパティアにはその姿が見えるのかもしれない。僕のようなケダモノの目では見えない者が、見えているのかもしれない。
「悪魔の事は分かった」
唸りながら僕は言った。
「じゃあ、悪魔を滅ぼす方法はないのか? 倒す方法は? 脅威を取り除く方法は見つかっているのか?」
何か対策を。カリスティ様を閉じ込めてしまえばいいだなんていう問題ではない。それでは、キクノスと一緒だ。キクノスはそうするのだろうか。そうしたところで、それは効果のある事なのだろうか。
しかし、ヒパティアは希望を探す僕に向かって言った。
「ありません。そのような方法はないのです。天使が我々に授けたのは武器だけ。それも、果実にもしものことが起こった時に強制的に時代を終わらせることしか出来ない」
「ヒパティア!」
思わず叫んでしまった。
ソフィアの前でそんな事を言うなんて。
恐怖からだろうか。気遣いからだろうか。恐らく、前者の方だ。キクノスは言う。その時が来たら苦しむ事になると。だから、槍と果実に肩入れするのはよくないのだと。けれど、それでいいのだろうか。どちらにせよ、割り切ったつもりであっても、その時が来たら僕は後悔するだろう。
ソフィアを、一人の少女として、扱わなかった事を。
だが、当のソフィアは、澄ました表情だった。顔に出さないだけなのか、はたまた、幼い頃から嫌というほどその教えを受けてきたからなのだろうか。
その様子は市場で売られていた僕や僕の仲間たちよりもずっと薄幸に映るものだった。
「……結局、悪魔にカリスティを盗られないように、戦い続けるしかないのね?」
ソフィアの問いに、ヒパティアは肯く。
「――ええ」
黙りこむしかなかった。
何も策がないなんて。殺してはいけない。殺したら大変な事になる。そんな相手とどうやって対等に戦えというのだろう。
ああ、だから、キクノスはカリスティ様を物扱いするのだろうか。彼女が心を宿していることすら欠陥だと思っていそうな僕の養父。きっとキクノスならば、神官長として何のしがらみにも囚われずにカリスティ様を閉じ込められるのだろう。
「ソフィア」
ふと、ヒパティアが黙りこんでいたソフィアに声をかけた。
その表情には先程までの厳しいものは薄れていた。
「これから先、あなた達を苦しめるものはきっと増えるわ。けれど、忘れないで。あなたは天使の遺した英知。神々はきっとあなたを正しい道に導いてくれるはずよ」
天使の遺した槍。この世はなんて残酷なのだろう。
武器を授けるならば、何故、人に宿してしまったのだろう。何故、果実まで人なのだろう。武器も果実も本当に物であったならまだよかったのに。
僕は見たくない。この英知の国が辿ってきた圧倒的多数の時代の結末を見たくない。これまでずっと漠然と思っていた感情が、ふつふつと沸いて来るようだった。
「先代も、そうやって死んだのよね?」
ソフィアが淡々と訊ねる。
直接的なその言葉に、思わずぎょっとした。
それは、驚いたことにヒパティアも同じようだ。僕と同じように、いや、それ以上に、困惑した様子でソフィアと向き合っている。
「そうね。悲劇的な最期だったわ」
やがて静かに彼女は答えた。
「先代の槍はエリスから自分の果実を守るために、エリスとその僕の手を逃れたわ。ユグドラシルから結界の張られたこの場所へ。けれど、その直前になって、エリスは魔術を用いて二人の行く手を阻んだの」
それは聞いたことのある話。僕がまだ幼かった頃の時代。
養父キクノスも若かりし頃にまたその目で見たと言う絶望の景色。
「神殿に居るものは誰も助けられなかった。不死ではない槍以外の人間が助けようとすれば、悪魔の僕に殺されるか、新たな僕にされるかの二択しかなかった。二人の逃げ道は何処にもない。そんな状況を打ち破ったのが、槍だったの」
そして彼女は真の聖女となった。
時の果実共々、これまでの槍の圧倒的多数と同じ結末を迎えたのだ。共に湖底で眠る者に。鎮魂の炎に抱かれ、白き灰となって今もあの湖の底で輝く砂となっている。
ああ、そんな事実すら、これまでは所詮、過去の事だったのに。
「エリスは二人の遺体を見て、怒り狂っていました。けれど、その姿は殆どのものには見えていなかった。神殿に居た人たちの目はただ英知の国を守った二人の聖女だけを見つめていた。そしてエリスの欲望を叶えられなかった僕が狂いながら神殿を逃げ出すところしか見えていなかったのです」
――見つめていた?
「ヒパティア、君にはその時から悪魔――エリスの姿が見えていたのかい?」
まるで亡霊でも何でもなく、その場にいたものを見ていたかのよう。
不可解だったが、ヒパティアは軽く頷いただけでそう深くは答えてくれなかった。
代わりに向けるのはソフィアへの言葉。
「ソフィア。あなたにはそんな最期を辿って欲しくない。出来る事なら、あなたとカリスティ様には此処に居て欲しい。居心地がよくないのはよく分かっています。悪魔を弾く結界は、天使にとっても不快な類のものなのです。その天使の系譜であるあなたとカリスティ様にとってもそうであるはず」
含められる言葉は、ソフィアへのそれとない要請だ。しかし、キクノスとは違って、そこに強制力はない。
命令でない以上、ソフィアの答えは僕にだって予想がついた。
「危険は分かったわ。でも、私はカリスティの望みに従いたい」
やっぱり、そうだった。
清めの日の度にカリスティ様を心配しているのだから、当り前か。
「そうですか……」
落ち着いた、しかし、何処となく不安な様子で、ヒパティアは言った。
「カリスティ様のご希望はとうに承知しております。彼女は閉じ込められてからずっと、いつ外に出られるのか、ユグドラシルの元に帰れるのかとばかり御聞きになるのです」
「それなら、私の希望は一つだけよ」
切羽詰まった様子で、ソフィアは願った。
あれほどまでにカリスティ様とすれ違っていても、やはり、ソフィアにはカリスティ様しかいないのだ。それが、槍の印を持って生まれるということなのだろう。
生まれ変わりなのなら、何故、これまでの槍と果実のようにいかないのだろう。
しかし、そんな疑問を口にしたって仕方がない。
「分かりました。もうじきです。カリスティ様と共にユグドラシルの根元へ御戻りなさい」
そんなヒパティアの言葉は、まるで本当の母親のようだった。




