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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第2部
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9.賢者

 なんだ。何が起こったんだ。

 槍を突き出した先には何もない。その光景に呆気にとられたまま、僕はふつふつと恐怖を抱き始めていた。

 ここにいたはずの鬼族がいない。代わりにあるのは、真っ青で不気味な空間のみ。

 何故だか急に市場で売られていた頃の記憶が甦りかけ、頭ががんがん痛くなってきた。

 まずい。鬼族は何処だ。彼女を逃がしてはいけない。でないと、カリスティ様が、ソフィアが、危ないというのに。

 しかし、段々と酷くなっていくこの頭痛の中で、僕はやっと周囲の状況に気付くことが出来た。

「そんな……此処は……」

 青い。青い紙だ。青い紙が張り巡らされた空間だ。脳裏に浮かぶ音や景色、嫌な感情や感覚が甦るほどに、今いる場所の正しい認識がぶれていくけれども、それでもやっぱり僕が居る場所は青い紙が作り出した空間なのだと理解出来た。

 これはなんだ。

 あの鬼族の魔術だろうか。

 あの笑みはこういうことだったのか。

 だとしたら、僕は囚われてしまっているじゃないか。いや、僕だけじゃない。共に戦ったスキロスも、ソフィアやカロも、皆この空間に居たのだ。

 どうしたらいいんだ。どうしたら。

 そんな混乱の中で、冷えた水のような透き通る声は響いたのだった。

「危ない所でした」

 凍りつくような空気の中、彼女はゆっくりと現れた。

 鬼族じゃない。魔術師だ。この神殿の魔術師長だ。

 ヒパティア。その名が脳裏に浮かんでからも、しばらくは怯えと絶望を払拭出来ずにいた。ようやく落ち着くことが出来たのは、ヒパティアの穏やかなのに何処か冷たい眼差しが滾る僕の血を覚ましてしまったからかもしれない。

 ヒパティア。この国で賢者の称号を得ている者。幼い頃のソフィアの教育係で、現在はカリスティ様の主治医と教育係を兼ねる魔術師長の一人。

 長年此処に仕えており、神官長からも大いに頼りにされている。

「ヒパティア……何故、あなたが――」

 ようやく落ち着けてから、僕は真っ直ぐ彼女に訊ねた。

 あと少しで止めをさせた女と、僕とを引き離したのが彼女であるのは一目瞭然だったためだ。この魔術を使えるのは生半可な魔術師ではない。ヒパティアや、もしくは、さっきまでそこにいた鬼族の女クラスの魔力や魔術の才がなければ発動すらしないだろう。

 しかし、ヒパティアは答えるつもりもないようだった。

 表情を変えないまま魔力で捕えた僕たち全員を見つめ、告げる。

「全員、よく聞きなさい。此処は異空間。私に逆らえばあなた達の心は凍らされてしまうでしょう。分かったのなら、余計な事は聞かずに黙って私に付いて来なさい」

 無茶苦茶だ。

 しかし、実にこの人らしい。

 恵まれた魔術の才で、ヒパティアは今の位置にのし上がったのだと聞いている。常に冷静に状況を判断し、最善と感じたならば仲間さえも魔力で威圧して動きを制御する。その態度に当然ながら不満を抱く者もいたが、結局のところ、ヒパティアよりも強い力がなければ不満のまま従うだけだった。

 神官長から頼りにされているのはそういう所なのだ。

 目的の為ならば心情にも惑わされない。あの穏やかそうな面の下にまるで、仲間を駒のように扱う非情さを持っている点が、高評価だったのだとか。

 だが、冷静になればなるほど、歯向かう理由なんて何処にもなくなっていった。

 こういう場合、ヒパティアに任せた方がいい。彼女が此処までして多くの仲間を誘導するのには理由がある。彼女は彼女でカリスティ様を守る最善の策を考え、それを実行するのだ。説明や同意を得る時間を省いてまで。

 それに、どうせ僕達でも彼女には逆らえない。

「……分かった」

 槍を持つ手の力をそっと緩め、僕はヒパティアに向かって言った。

「この場はあなたに委ねよう」

 僕以外の誰もが口を噤んだままだった。


 賢者。

 そんな称号があるのだと知ったのは、キクノスの元に引き取られて以降のことだ。市場に売られていた頃には知らない事だらけだったが、賢者という称号を得た存在というのもその一つだった。

 初めて聞いた時は憧れたが、今はそうでもない。一度賢者と認められれば、その魔力を国の為に使い果たすように求められるらしい。そこには自由は殆どなく、少しでも怪しい空気を臭わせれば、たちまち拘束されてしまうらしい。

 ヒパティアはそんな賢者の一人だった。

 自らの希望で神殿勤めになって以降は、常に時の神官長の決定に縛られてきた。勝手にやめる事もどうやら出来ないらしい。

 それでも魔術の才がある者が賢者になりたがるのは、暮らしの安定と栄誉に他ならない。家族が賢者であるというだけで、この国では安定した暮らしが約束される。実際に、ヒパティアの家族も都にて恵まれた暮らしをしているそうだ。

 自由か、安定か。

 ヒパティアの作り出した青い紙の空間を静かに進みながら、僕はそっとこのベテランの魔術師長の身の上を考えた。

「そろそろ切れるわ」

 ヒパティアがぽつりとそう言った直後、言葉通りに青い紙が風に飛ばされていき、魔術が解かれだした。

 あっという間に空間は変化し、此処が本当は何処なのかを導きだす。

 僕達はずっとヒパティアに続いて青い空間を歩いてきただけのつもりだった。けれど、実際は違ったらしい。そこは、神殿の御殿の中。中庭すら抜けて、滅多な事では入れないはずの分厚い扉の向こう側のようだった。

 ぴりぴりと肌を刺激する空気が漂っている。

 話によれば神殿全体は結界で覆われているのだが、この扉を隔てたさらに奥には結界の元となるものが隠されているらしい。結界は悪魔を避けるもの。生憎、魔物の血を引いた魔族を弾ける力はないようだが、扉の向こう側――結界の強いこの場所に入ると、体内の血が緊張しているかのように感じられた。

 きっと、怯えているのだろう。

「カリスティ様はこの奥に隠してあります」

 淡々と言いながら、ヒパティアは更に奥の扉の向こうを示した。

 とても暗くて、とても冷たい。週に一度、果実が清められるという神秘の間だ。しかし、そこは何故だか歴代の果実の誰もが嫌がる場所なのだと言う。悪魔を退けるという結界の刺激が強過ぎて、天使とその系譜である果実や武器にも不安をもたらすのだと。

 ならば、きっと此処に連れこまれたソフィアも同じなはずだ。

 けれども、ソフィアは嫌な顔一つしなかった。その表情が優れないのは、不快だからではない。彼女はじっとカリスティ様の隠された部屋を見つめたまま、心配そうに呟いた。

「カリスティ……」

 ぽつりと零れ落ちたような小声ではあったけれど、僕には悲痛な叫びにも聞こえた。

 ただでさえその表情に影を落とした果実の少女。その心を脅かすものが何なのか分からない今、ソフィアは彼女を余計に苦しませるような事態が嫌なのだろう。

 そんなソフィアの心を察してか、ヒパティアもまた何処か暗い声で言った。

「可哀そうですが仕方がないのです。奴の気配が消え去るまでは中庭に出すわけにはいかないのですから……」

 奴。あの鬼族の女の事だろう。

 あと少しで僕が殺した。何故、どうして。どうしてヒパティアはそれを邪魔したというのだろう。

「お分かりでしょうけれど、奴の狙いはカリスティ様です。しかし、ただの不届き者などではなく、ある特殊な力を持ってカリスティ様を手に入れに来たようですね」

 ――特殊な力?

 鬼族が持つものとはまた違うものなのだろうか。少なくとも、その特殊な力があったとしても、僕は絶対に勝てた。勝てた自信がある。

 でも、ヒパティアが止めたということは、止めるだけの理由があってのことなのだろう。そうでなければ、有利に見えたあの状況で味方の邪魔をするものだろうか。

 疑問に頭を悩ませる僕たちを前に、ヒパティアはやや緊張気味にぽつりと言った。

「あれは悪魔」

「悪魔……?」

 思っていたよりも抽象的な言葉に、僕は思わず疑惑を表に出した。

 しかし、ヒパティアはさも当然かというように動じない。

「そう、悪魔。この英知の国で古くから伝わる神話によれば、この国を知恵で導く英知の天使の双子であり、影に潜みながら神々への反逆を目論んでいる存在」

 聞いたことはある……というよりも、学んだことはある。

 教養の一つとして我が国に古くから伝わる神話を神話として学ぶことは大事だ。だが、それを鵜呑みにする時代はとうに終わっている。魔術や魔物、そしてユグドラシルを中心とする果実や槍の伝承はともかく、長らく姿形すら見せない悪魔という存在については、僕も半信半疑のままだった。

 悪魔とは、大いなる力に手を伸ばしたくなるような己の弱さを具現化したものではないのだろうか。そう考えている者が大半だろうし、僕だって同じだ。

 しかし、ヒパティアは大真面目に言うのだ。

「……正確には悪魔のしもべですね」

 言い直してはいても、やはりその本質は変わらない。

 だが、上手く飲み込めない僕達を置いてきぼりに、ヒパティアは語り続けた。

「彼女は恐らく聖域の外にも行けるほどの魔力を持った鬼族。誇り高く、自分のことは自分で決めて行動するはずの者。だけど、今の彼女は違います。その心、その魂は、英知の悪魔が握っている」

「どういうことだ……? 操り人形ってことか?」

 どうもそうは見えなかった。彼女は彼女の意思で此処に来たのではないのか。

 けれど、僕の問いにヒパティアは頷いた。

「彼女がどんな人物だったのかは、もはや分かりません。ですが、今の彼女は主人である悪魔の為にカリスティ様を手に入れることしか考えていないはずです。それが悪魔の僕。ただの不届き者と違うのは、悪魔の力を借りているという点です」

「悪魔の力を――?」

 確かに、あの力は圧倒的だった。圧倒的であって、掴みづらいものだった。

 もしも一対一ならば、僕は負けていただろう。スキロスが飛び込んで来てくれなければ、ソフィアを奪われていたかもしれない。

 けれども、やはり僕は、あの力が鬼族特有のものなのか、そうでないのかが分からなかった。鬼族と戦う事なんて殆どないのだから。

「悪魔は常に僕の傍に寄り添っています。そして、果実を奪うためにその尋常でない力を惜しみなく僕に与えるのです。悪魔の僕は厄介な存在。生半可な状態で立ち向かったとしても、呆気なくその牙にかかるだけでしょう」

 じゃあ、僕が有利に見えたあの状況。実は罠だったとでも言うのだろうか。あの体勢からどうやった彼女は僕の命を狙ったというのだろう。

「危険なのは分かったが、教えてくれ、どうして邪魔したんだ」

 分からない事が爆発しそうで半ば苛立ちながらそう訊ねてみれば、ヒパティアは対照的に落ち着いた様子で答える。

「それについてはもう少ししてから説明しましょう。今はともかく、此処で待機しなさい。今、こういう時の為に準備をしてきた魔術師たちが、奴を追い出すために動いています」

 この固く閉ざされた扉の向こうということか。

 しかし、追い出すだなんて。ああいった危険人物は命を奪ってしまってもいいはずだ。追い払ったところでまた入りこんで来るだけではないのか。

 そうなった時に、またカリスティ様やソフィアを脅かしはしないか。

 するだろう。彼女の狙いはカリスティ様だと今、はっきりとヒパティアは言ったのだ。じゃあ、どうするつもりなのか。ひょっとして奴が現れる限り永遠に、此処にカリスティ様を閉じ込めるとでもいうのだろうか。

「ヒパティア……」

 嫌な予感に気付いたのか、ソフィアが弱々しく口を開いた。

「カリスティはどうしている? 怖がっていない?」

 まるで母親のようにソフィアは窺う。その真っ直ぐな視線を正面から捉えるのが厳しかったのか、ヒパティアは少しだけ目を伏せてから答えた。

「あの子の心を掴むのは難しい……」

 さっきとは打って変わって、非常に穏やかな声だった。赤子を沐浴させるぬるま湯のようだ。努めてそうしているわけではないのだろう。自然と生み出された温もりに間違いないようだった。

「でも、ソフィア。不安に怯えるあの子にあなたの名前を聞かせてあげたら、少しは落ち着いて言う事を聞いてくれました。今はただ時が過ぎるのをじっと待っているところ。後でまた中庭に出られたときは、あなたが慰めてあげて」

 諭されるかのように言われ、ソフィアの表情にふと淀みのようなものが生まれたのに気付いた。

 カリスティ様との様子はここ最近、吹き抜けの上階から見守ってきた。その目的はカリスティ様の傍に不審者が現れないかを見張るためのものだが、同じ役目を担う者の多くは、カリスティ様とソフィアの何処か切なげな光景を見つめ、何ともいえぬ感情を心に秘めているものだった。

 わざわざそれについて語り合ったりはしないけれど、ふとした会話の端々に、同じようにもどかしさや不安を抱えているガーディアンは多いらしいと察しがついた。

 でも、僕達の比じゃない。

 ソフィアが抱えているだろう不安やもどかしさは、僕達には想像も出来ないほど深くて重たいものだろう。

 だって、彼女はその為に生まれたのだから。

「どうやら、悪魔の僕は立ち去ったようですね」

 ヒパティアがふと閉ざされた扉の向こうを見つめて言った。

 鬼族の女。僕が止めを刺そうとしたあの女が去った。

「恐らく、ソフィアもカリスティ様も手に入らないと睨んで悪魔が撤退させたのでしょう。私がいる限り、二人に近づけるようなことにはさせない。おそらく悪魔はそれを分かっているのです」

「分かっている?」

 どうも、腑に落ちないことがある。

 ヒパティアがまるで悪魔と会ったことがあるかのような態度をとっている気がするのだ。

 魔術師だからだろうか。魔術師長として、カリスティ様やソフィアと接してきたからだろうか。

 けれど、知識として知っているだけではなく、昔からの馴染みを紹介するかのような、それでいて、はっきりと恐れを抱いているかのような、そんな様子を見せている気がしてならないのだ。

 そんな僕の問い返しに、ヒパティアは頷いて、そして、外とは全く逆方向の場所へと歩みだした。結界の深く張られている領域内の別室――そこは、魔術師長の管轄である部屋の一つだった。

 外に出るわけではないらしい。

「念のため、少し時間を置きましょう。心配せずとも、カリスティ様には後でちゃんと会わせてあげますよ。だから、もう少しだけ、私の話を聞いてください」

 通されるのはどうやら、僕とソフィアだけらしい。


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