4.狂人
夕暮れ時、闇夜に沈みゆく時刻、別の部隊に所属するガーディアンの男がいつの間にかカリスティ様の見張りを始めていた。
僕がこれ以上此処に居る理由もないだろう。
たしか頭の地位ではない。名前も覚えていないし、話した事も殆どないが、僕と同じようにカリスティ様を見張る役についているということは、神官長に実力も人柄も認められているということだ。数名の仲間と共にカリスティ様を見下ろし、まるで僕なんて存在していないかのように目もくれない。
わざわざ話しかけるなんてこともいつもしない。
彼の部隊長であるガーディアン頭は、僕を毛嫌いしている男だ。鳥アレルギーだから来るなと言ったのも彼。素行に問題があるが、それでも実力はどうしても認めざるを得ないため、ガーディアン頭となっている。それでも、その頭がこの任務に就いたことは一度もない。部隊長を差し置いて、あの青年が任されていることも、そういうことだろう。
別に話しかけたところで嫌なことが起きるわけでもないだろう。
挨拶した方がガーディアン同士の関係も良くなることは分かっている。
それでも、やっぱり僕は話しかけずにふらりとその場を立ち去ることしか出来なかった。離れ際に惜しむようにカリスティ様の姿を見つめ、そうして音もなく歩み出す。
いつもならば、たった一人だったから存在感も消せたものだけれど、今日からは違う。僕のそんな様子に戸惑いつつスキロスとカロはついてきた。
この二人から解放される時は、きっと自室で眠る時だけだろう。
まるで足枷のような二人を引き連れながら、僕は御殿の屋上――展望台へと続く怪談を上がり始めた。
「ニンフ様、少しお待ちください――」
足早な僕に追いつけなかったらしきカロがふと声をあげた。
無視すればキクノスの耳に入って後々面倒だろう。言われるままに階段の踊り場で立ち止まって待つと、澄まし顔のスキロスに続いてカロがひいひい言いながらついてきた。
若い青年なのに情けない、と思ったけれど、考えてみればカロは純血の人間だ。いくら男であっても、人鳥や人犬と同等に動けるわけではない。
カロを待つついでに、十分に近寄ってきたスキロスがふと疑問を口にした。
「展望台で何を――?」
「ああ」
僕はふと上階を見上げ、そして今一度、二人に向かって言った。
「そうだった。二人とも、しばらく暇をやるよ。中庭でも見張っていてくれ」
重大な事を忘れていたのだ。
しかし、スキロスもカロも驚いたように顔を見上げ、目を丸くした。
「出来ません。だって、僕達――」
「私共は神官長の命令であなたの御傍に居るのです。片時も離れるな、とのご命令を無視する事は出来ません」
スキロスに堅苦しく言われ、苦笑しつつ、僕は説明した。
「大丈夫、こればかりはキクノスも許してくれるさ。っていうのも、君たちは空を飛べないだろう? これから僕は都に飛んでくる。ソフィアとの約束で、都を探らなくちゃならないんだよ」
「都を――?」
問い返すカロに頷き、僕は言った。
「ここ数日、都で狂人が暴れているのは知っているかい?」
訊ねてみれば、二人は各々頷いた。
狂人というのは昔からいつの時代も国内に現れるおかしな殺人者のことだ。ただ殺すだけ、血を吸い取ってしまう、肉を食ってしまうなど、大きく三種類に分けられるが、どのどれにも特徴的なのが、その異常性と不可思議さだ。
殺人鬼、吸血鬼、食人鬼。
鬼族の血を引いていてもいなくても、狂人となった彼らは偽物の鬼と呼ばれる。
狂人は捕まらないと言われている。捕まえたとしても、奇跡としか思えない現象が重なって逃げ出してしまう。裁かれたとしても、意味が分からないほど軽い罰で終わってしまった上、そう経たない内に行方不明になるか、遺体で発見されるかのどちらかだ。
彼らが何故現れるのか、一体何者なのか、分からない事ばかりだ。それらの疑問はすべて、英知の天使を中心とした神話に委ねられる。
狂人は悪魔が生み出した混沌だと天使にまつわる神話では語られる。
世を乱して果実を手にする為に、神々のつくった世界を壊してしまうために、悪魔は狂人を世に送り出す。
だとしたら、彼らが消えてしまうのは神々によるものなのだろうか。
いずれにせよ、狂人が現れて消えるまでには多数の犠牲者が現れるものなのだ。今もその時期。田舎から始まり、都へと至った狂人騒ぎで犠牲になったのは、その誰もが年若い生娘だったらしい。
現れたのは吸血鬼だ。
「手紙によると、実家の姉妹もそれでろくに外出できないそうです。それだけじゃなくて、最近結婚したばかりの兄も」
そう言ったのはカロだった。
「その……狂人を探りに行くのでしょうか?」
カロの問いに、僕は頷いた。
ここしばらく、ソフィアは吸血鬼の噂を耳にしてから、いっそう落ち着かなくなってしまった。狂人と呼ばれているのも理由の一つだろう。悪魔が放ったというのならば、いつ果実を狙いに来てもおかしくない。
だから、僕は自由のないソフィアの代わりに、今は見えないこの翼を広げるのだ。
「キクノス様は御許しなのですか?」
目ざとくスキロスが訊ねだした。
「その吸血鬼、聞けば若い娘ばかりを襲っているのだとか。ニンフ様、あなたもその御一人ではありませんか。神官長が御聞きになったらどれだけ心配する事か」
「説教なら散々聞かされてきた。でも、もう諦めているさ」
やめろとまでは言われない。
ただ、好ましくないようなことは何度か言われた。
危険だからという理由ならば、そもそもガーディアンになんてさせないだろう。それだけではない。キクノスが良く思っていないのは、ソフィアの願いを僕が聞いているという点なのだろう。
――槍とは深く関わらない方がいい。
僕の為だとキクノスは言う。でも、その意味が僕にはどうしても分からない。ソフィアを見れば見るほど、関われば関わるほど、彼女を放っておく事なんて出来なくなってしまうのだ。
少しでもいいから、負担を軽くしてやりたい。
力になれる事ならば、力になりたい。
どうしてそう思う事を咎められるのか、どう考えても納得がいかなかった。
それがたとえ、先代の槍と果実の末路に関する事だとしても、その二人をよく知らない僕には想像がつかない。
キクノスがなんと言おうと、神官長としての命令が下らない内は、僕は僕が納得できる理由が無い限り、ソフィアに力を貸すのを止めたりしないだろう。
「とにかく、そう言う事だから。君たちは好きに過ごしてくれよ」
「待ってください、ニンフ様!」
引き留めようとするカロを無視する形で、僕は展望台を目指し続けた。
追いかけてくるならば自由にさせよう。会話をしたいのなら、別に付き合ってやってもいい。だが、空を飛ぶ事だけは邪魔されたくなかった。
必死について来ているカロはともかく、スキロスは平然と僕について来ていた。
遅れることもなく、僕の様子を見つめながら共に階段を上がる。
「御一人で大丈夫なのですか? 私共がついて行くことは不可能なのでしょうか?」
「空を飛べるの? それとも大人二人を運べっていうの?」
よくある本の挿絵のように背中に乗せて――或いは脚に捕まらせて飛べたらさぞ便利だっただろう。生憎、僕は飛行の才能が殆どない。自分が飛ぶことで精一杯なのだから、子供ならまだしも大人二人を連れていけるわけがなかった。
「二人なら無理でも……一人ならどうです?」
立ち止まらずに長い階段を歩み続ける僕とスキロスの遥か下から、カロがそんな事を言っていた。僕はふと立ち止まり、その声に答えた。
「一人も二人も同じだよ。僕は飛ぶのが苦手なんだ」
「苦手なのなら尚更心配です」
と、透かさずスキロス。相変わらず抜け目が無い。
「何度でも申しますが、私共はキクノス様のご命令に従っているのです。あなたが下がれと言って下がれるわけではないのですよ」
「ふうん、そりゃ災難だ。でも、安心しなよ。たとえ怒られたとしても、僕だけだからさ」
「ニンフ様……」
困惑した様子のスキロスの声に、少しだけ申し訳ない気持ちにもなる。
それでも、ソフィアと約束してしまったのだから仕方ない。キクノスだって堂々と僕の行動を制限する事なんて出来ないはずだ。カリスティ様の安全に関わることかもしれないと申し出てそれを禁じる神官長がいるはずもない。
だから、何も悪くないはずだ。
「悪いね。僕の部下になったのが運の尽きだと思ってよ」
そう言い捨てた頃に、ようやく屋上は見えてきた。
そうして辿り着くのが展望台。まだ夕暮れ時の空が見える時刻。スキロスもカロも僕を止めることなんて出来ない。止められる前に夕暮れの世界の中、僕は両腕を広げ、怪鳥の血を滾らせた。
「ニンフ様!」
スキロスが、そしてやや遅れてカロが辿り着いた頃には、もう殆ど人間の姿なんて捨ててしまっていた。
「二人とも」
口から漏れだす自分の声が野太いことを自覚した。
「僕の代わりにカリスティ様をお守りしていてくれ」
魔物の姿に近い僕の姿に、カロだけではなくスキロスさえも戸惑っているようだ。そんな二人の顔を見つめ、怪鳥の顔でどうにか笑ってみせると、すっぱりと斬り捨てるようにその場を飛び去った。
向かうは都。
吸血鬼の噂の蔓延るその場所。果てしなく広く、絶望的に手掛かりのないその場所へ。
きっと今日も大した手掛かりは得られないのだろう。




