2.キクノス
キクノス。白鳥という意味を持つ彼の名前が僕には神々しく思えたこともあった。
何も分からないまま引き取られた僕が、初めて彼に感謝したのは、神官の一人が教えてくれたせい。彼は地獄から僕を救ってくれた。あのままだと、寝台という鳥かごか、仕事場という檻か、下手をしたら血生臭い部屋で喉笛を斬られていただろう。
売っていた店主だってそのつもりだったはずだ。
思い返せば彼は、僕を買い取った人を見て驚いていたような気がする。こんな場所に僕のような者が引き取られるなんて思ってもいなかったのだろう。
それでも、あの店主は誤解したかもしれないと大人になってから思う。
ああいう場所にて愛玩目的で人鳥を買うというのは、奴隷を買うのと変わらない。特に、男が女を買うとなれば、目的は明白なもの。きっと店主が今も生きていたら、僕がこうやってガーディアンなんかをやっているなんて知ればびっくりするだろう。
誤解は不名誉だけれど、どうでもいい。
キクノスは僕にとって養父であり、神官長である。どういうつもりでニンフなんて名前を付けたかなんてどうでもいい。
ただ抱くとすれば、それはソフィアたちへの非情さの違和感くらいのもの。
それだけのはずだったのに。
「どういうことですか、父さん」
「神官長と呼びなさい、ニンフ。別にどうってことはない。そろそろ君の実力も確かなものになってきたというだけのことだ」
「ですが……」
キクノスが一角獣種を購入して数年、ソフィアが十七歳、カリスティ様が十歳になった年のある日、僕はいつものように神官長室に呼ばれていた。
神官長室の机は無駄に広い。彼が綺麗好きだからそう見えるらしいのだが、それはともかく、あまりにも片付いているとそれだけ空間が広く見え、逆に何処か落ち着かない気持ちになる。そんな机にキクノスはつき、左右に立たせる二人の青年を見せていた。
一人は人犬。一人は人間。
伝えられたのは単純な事だった。今日からこの二人が部下として傍に控えるということ。
「名前はスキロスとカロだ。数は少ないが、部隊には変わりない。君は槍をよく観察してくれているからね。親衛隊として聖女を助けてやりなさい」
ソフィアを守るための部隊。
そう言われれば聞こえはいいが、なんとなく丸めこまれているような気がしてしまう。何故ならこの二人。通常任務の際は常に僕の傍に控えるように命じられているからだ。まるで監視でもされているかのよう。
「僕一人で十分です。二人だってまだ若いのでしょう? もっとしっかりとした部隊に配属されるべきでは?」
「まるで君の部隊がしっかりしていないかのようだな。ニンフ。君はそんな生半可な気持ちでガーディアンを務めているのかね?」
面と向かって言われ、戸惑ってしまった。
――勿論、違う。
ガーディアンとして働けるようになった時から、僕は一生懸命頑張ってきたつもりだ。元々は屠られていたかもしれないと聞けば、ますます責任感は大きくなる。役に立たない人鳥なんて喰い殺されるだけなのだという価値観が、どんなに拒絶しても、どんなにキクノスが塗り替えようとしてくれても、僕の頭の深い所に刻まれてしまっているのだ。
戸惑う僕の目を見て、キクノスは深く息を吐いた。
「いいか、ニンフ。これは遊びではない。槍と上手く信頼関係を交わす事が出来た君にしか出来ない任務も増えていくだろう。そんな時に、直属の部下というものは居た方がいい。この二人は確かにまだ若い。だが、若い方が役に立つだろう。この二人は、君が人鳥の女だからといって言う事を聞かなくなるほど馬鹿ではないからね」
改めて紹介された二人の青年へと目を向けてみた。
どちらも生真面目そうだ。まだ幼さが垣間見えるところから、十代なのかもしれない。
スキロスとカロ。人犬と人間という何処かちぐはぐな組み合わせ。お互いにお互いをどう思っているのか、そして、今日から上司となるという僕の事をどう思っているのかなんてその表情からはよく分からない。
分かる事は一つだけ。
これは遊びではなくて、神官長の命令なのだ。養父の余計なお節介でもなければ、溺愛でもない。神殿で働く以上、神官長の命令に逆らう事なんて出来ない。なんせ彼は、神殿の中に置いては一国の王や時の権力者よりも偉いのだから。
「――分かりました」
こう答えるしか、無かった。
神殿の中庭。
吹き抜けの上階からその光景を眺めると、高さだけではなく、そのあまりの広さにも目が眩んでしまう。
中庭の殆どは湖だ。御殿の北側と南側の地下には舗装された川が眠っていて、山より流れた水がそのまま海へと続く川へ向かっていく。天気が崩れない限り流れは非常に穏やかで、耳を澄ませば寂しげな水音が響いているのが分かる程度だ。
そして中庭の数少ない陸地もまた、その中央の殆どはユグドラシルの根っこで占められている。この場所を英知の天使が選んだ理由は諸説あって、そのどれもが神話として語り継がれているらしい。英知の国の庶民が信仰する天使の教えには、あらゆる宗派があって、その宗派によって変わるのだとか。
勿論、僕には関係ない話だ。
僕が信じるのは目の前にある事実だけ。神殿に入ることも出来ない一般庶民とは違って、僕は本物の槍と果実の傍に控えているのだから。
カリスティ様。
英知の国の全ての想いが詰まっているその少女。聖なる母ユグドラシルの根元で憂鬱そうに俯き、ずっと湖を眺めていた。そんな彼女の元に、毎日、ソフィアは訪れている。話しているその内容を聞こうと思ったことはない。邪魔をしてはいけないという思いだけがそこにはあった。
ソフィアは寄り添おうと必死だ。
カリスティ様はどうだろう。
この二人がいつの間にこうなってしまったのか、僕には分からない。キクノスさえも分からないと言っていたが、ヒパティアは何かしら知っているらしい。しかし、知っているからといって何かできるわけではない。ヒパティアが出来ることはカリスティ様の心が折れないように守る事だけ。
そして僕が出来る事は、見守り、力で守る事だけだ。
何から守りたいのかと言われれば、様々だ。神殿の奥まで忍びこんでしまうような悪しき侵入者だったりもするし、根も葉もない噂だったりもする。また、それだけではなく僕は最も身近なものからあの二人を守りたいと思っていた。
神官長だ。
代々の神官長は槍や果実に冷たいものだと感じていた。
先代の槍や果実だってそうだったらしいし、きっと先々代だってそうだっただろう。
槍に生まれた以上、果実に生まれた以上、彼女たちはほぼ物のように扱われる。生まれながらにして此処に幽閉される果実は勿論、槍の印を持って生まれた赤子もまた例外なく親元を引き離されて神殿以外の生活を忘れさせられる。
ソフィアが生まれた当時の神官長はキクノスではない。すでに勇退し、都で余生を過ごしているという彼もまたキクノスと同じような姿勢で槍と果実を《管理》してきた。
――愛しのアテナ。
槍の印を持った子を生んでしまった場合、その子供は高額で国に引き取られる。槍の子が生まれた場合、名乗りと引き渡しは国民の義務であり、隠蔽や拒否することは不敬罪或いは背教として厳しく罰せられる。
かつて英知の国にもそうやって槍の子を匿い、一生を牢獄で暮らす事になった家族がいたらしい。他の国でも同じ。天使が舞い降り、ユグドラシルと聖域で守られ続ける国は何処も、武器と呼ばれる子を生み、愛着のあまりそれを数年以上匿ってしまい、処刑されたり、幽閉されたりした両親は存在する。
ソフィアの両親はたまたま違った。
英知の国の民として、父母ともにソフィアを隠すことなく育て、神官長に定められた五年という年月いっぱい愛情を注いできたらしい。そして、引き取られたあとも、ソフィアがかつてアテナという名前で、自分たちの愛娘であったことを忘れてはいない。
たまにソフィアの両親から手紙が届くのだ。
まずいことだと分かってはいるのだろう。しかし、特に禁じられているわけでもないから、出してしまうのだろう。
愛しのアテナ。
ソフィアという名前で呼ばれていることくらい、いくら田舎人でも知らないことはないだろう。それでも彼らにとってソフィアは五歳の頃のアテナのままだ。
この思いを罰するなんて事は出来ない。
大昔ならばともかく、信仰心だけが凡人の人生を左右するわけではない今のこの時代に、ただ我が子への愛情を手紙に込めただけの両親の思いを罰する事なんて幾ら神官長でも出来ないだろう。そんなことは民が許さない。いくら聖域やユグドラシルが魔物から自分達を守っていると分かっていても、あまりにも神殿が横柄に振る舞えば世の中は乱れてしまうだろう。
キクノスだって愚かな男ではない。
彼には彼の視点があり、彼なりの考えがある。
片田舎に残ったソフィアの両親に手紙を禁ずる指令など送ったりはしない。しかし、彼によればソフィアに全ての手紙を渡す事も出来ないらしい。
もしも田舎に住んでいる実の両親が自分をまだ愛しているのだと分かれば、ソフィアはどう思うだろうか。ひょっとしたら彼らを守るべくしっかりしないと、とより役目に忠実になるかもしれない。だが、キクノスが危惧しているのはそうではない可能性だ。
天使が舞い降りて千年以上の時が経っている現在、ただでさえ短命な者が多い槍と果実には本当に様々な者がいたらしい。槍の印を持った者の大抵は果実の傍を離れず、寄り添い、子を守る母親のように悪に槍を向ける一角獣のような人物だったらしいが、そうではない槍も少なからず存在する。
例えば、百年の寿命を無事に迎えたミラという人物は、己の果実であるエフケリア様の元を逃げようとしたこともあるらしい。
ミラは生まれながらの令嬢だった。もともと人馬というものは昔から我が国において人鳥とは比べ物にならないほど優遇された存在だった。人馬というだけで就ける職業もあり、代々で築き上げた財力は果てしないものだ。
そんな家に生まれたミラもまた、槍の印さえなければ華やかな生活を約束されていたはずだった。そう、槍の印は幼い彼女にとって不幸の印だったのだ。
特に、手紙で知らされる兄弟姉妹の生活を知る度に、ミラは悔しがったという。エフケリア様とも次第にそりが合わなくなり、ついには神殿を逃げ出そうとして囚われ、エフケリア様と共に数カ月神殿の最深部に禁固されてしまったこともあるらしい。
そんな彼女がどうして百年もエフケリア様を守ることとなったのか。これについてはあまりに沢山の文献があり、しかもどれも一致している部位と相違している部位が多々あり過ぎて語りきれない。ただ言えるのは、ミラもまたある種の諦めを含んだ大人になったということだけだ。
逃げ出そうとしたことがある槍というと、ミラが一番有名だろう。しかし、他にも沢山いる。誰もが失敗に終わり、果実共々幽閉されてしまっているが、それらもやはり外への憧れや家族への恋しさが理由だった。
ソフィアは一言で言えば、そういう性格じゃない。
いつだって真面目で、深刻に、カリスティ様と寄り添おうとするような少女だ。それでも、キクノスは言う。多大なストレスは性格を歪ませる。あまりにも果実との意思疎通が叶わない今、彼女が逃げ出したいと思っても不思議ではないだろう。
そのため、可能性広げるものを少しでも除外したいのだ。
結局、ソフィアの元に愛情のこもった手紙が届く事は殆どない。キクノスの元から通過できるのは、簡潔な連絡事項くらいのものだ。ソフィアが娘として愛されているような思いの込められたものは、キクノスの元から零れ落ちたりしない。
返信だってソフィアには許されていないのだ。彼女が求められているのは、ただ槍である事だけ。槍としてその一生を終えることだけだ。
だが、父さん。
どうしてあなたは此処まで心を殺せるのだろう。
中庭にて寂しげにカリスティを見つめるソフィアを見る度に、僕はどうしても疑問を抱いてしまう。




